
エッセイ|何かに打ち込みたい人へ
あの頃、小学校の校庭でドッジボールをしていた5分間は、永遠のように長かった。
誰も「このボールを投げることに、将来どんな市場価値があるか」なんて計算していなかったし、
「先輩や後輩にどう思われるか」という役割のよろいも着ていなかった。
ただ、白線の中に立って、飛んでくる球と自分の衝動だけに集中し動いていた。
あの頃、私たちは間違いなく、ただ生きるエゴイストだったと思う。
いつからだろう。
真夜中、何かに狂ったように打ち込もうとするたびに、脳内の生真面目な僕が囁き始めるようになったのは。
「明日も研究室があるから早く寝なきゃ」
「8時間バイトして疲れたから早く寝たいな」
「アトピーが悪化しないように睡眠とらなきゃ」
「ちゃんとした生活を送らなきゃ」。
コイツの正論は100%正しい。
優等生としてのよろいは、いつだって完璧で、安全で、ぐうの音も出ないほどに合理的だ。
けれど、その正論に従って、ほどほどに切り上げて潜り込んだベッドの中で、胸に押し寄せてくるのは安らぎではない。
「また今日も、なーなーに生きてしまった」
「自分の火種を爆発させられなかった」
という、じっとりとした自己嫌悪と、檻の中に閉じ込められたような狭い息苦しさだけだ。
思い知らなければならない。
どうせ、私たちは死ぬ。
健康な生活を送り、睡眠時間をきっちり守り、自分の身体を1ミリも傷つけないようにし続けた結果、何者にもなれず、ただただ枯れていくのだとしたら――私たちは一体、何のためにこの夜を迎えているのだろう。
棺桶に入るとき、どれだけ綺麗な死体であるかなど、世界は1ミリも興味を持たない。
世界が、そして自分自身が、本当に求めているのは、
寝食を忘れて、周りの人間の機嫌や顔色を完全無視して、ただ自分の衝動が形作らせた“なにか”である。
「がむしゃら」と「暴挙」の境界線なんて、ふかふかのベッドの中で考えても見つかるはずがない。
たぶんこれは結果論で、自分次第の問題だ。今を楽しめているかどうかだ。
何者かになる必要なんてない。
誰かを導く救世主になる必要もない。
ただ、今夜、目の前の一画面、一小節に対して、あの頃の5分間の熱量を取り戻す。
周りを傷つけないための天才ではなく、自分のエゴを満たすために。
よろいを脱げ。
ベッドから這い出せ。
私たちは、綺麗な死体になるために生きているわけじゃない。
今日も一日頑張って!