
【十五の曖昧】 Ep.19 国会の扉|十五マスを、公約にした候補者が、初めて当選した日
あらすじ:二〇二九年四月二十二日、佐藤愛三十歳の誕生日。東京都選挙区・参議院補欠選挙の投開票日を迎える。独立から二年十一か月、十五マスを公約に掲げた無所属新人として、佐藤は辻立ち百四十八回、SNS配信二百三十回、街宣二十一地区を重ね、十六名だったボランティアは二百二十三名へ広がっていた。午後十一時七分、NHK速報が佐藤愛の当確を告げる。十五マスを政治の言葉にした候補者が、初めて議席を得た瞬間だった。翌四月二十三日午前三時四十二分、事務所に残った佐藤と斉藤美紀は、姉妹契約書を交わす。師弟でも同志でもない、新しい関係が始まる。Season 2の到達点となるフィナーレ。
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📖 シーズン1全話(Ep.01〜Ep.10)
📖 Ep.11 本編「手の記憶」──労働力の資産化請負人(シーズン2開幕)
📖 Ep.12 幕間「女将の五十二冊」──関係資本の価値
📖 Ep.13 本編「概念の父」──白紙の問い
📖 Ep.14 本編「デジタルオペレーターの価値」──消えるSaaS運用ノウハウ
📖 Ep.15 本編「疲弊する地方自治体|──必要なのに毎年やせていく
📖 Ep.16 本編「四十五マスの輪郭」──三層協調の地図
📖 Ep.17 本編「決意の日」──労働力の資産化請負人、出馬
📖 Ep.18 本編「広がる価値連鎖」──99日間の選挙戦、4つの軌跡
一 投開票日の朝
二〇二九年四月二十二日、日曜日。午前九時十七分。
東京都渋谷区神宮前。裏通りの旧カフェ跡に作られた、佐藤愛選挙事務所。
佐藤愛、三十歳。無所属。
参議院東京都選挙区、補欠選挙候補者。
選挙戦、三十二日目。投開票日の朝だった。
三十坪の事務所には、コア・ボランティア十六名が、すでに集まっていた。
壁には、四十五マス曖昧論点表のポスター。縦二メートル。
天井からは、大判フラッグが吊られている。
労働力の資産化
事務所の一番奥には、古いモノクロ写真があった。
松原俊夫、四十二歳。
松原謙吾、十二歳。
一九九一年、東大阪、松原金属加工、工場前。
三月二十二日。公示日の夜に、松原から受け取った写真だった。
佐藤は、約束どおり、その写真を事務所に飾った。
選挙事務所スタッフ補佐。
斉藤美紀、十七歳。C大付属高校三年。
簿記部部長。無給ボランティア。
選挙応援。
松原謙吾、四十九歳。二期目の相棒契約、四か月目。
タブレット経由で常時接続。ロボ、ver.1.5。
選挙事務所統括モード、稼働中。
佐藤は、自分のデスクに座り、MacBookを開いた。
「ロボ」
robo> おはようございます。投開票日の朝です。
「今朝、事務所、静かだね」
robo> コア・ボランティアの皆さん、十六名、誰も話していません。
「いつから」
robo> 私の事務所到着は、午前七時です。七時以降、会話はありません。
佐藤は頷いた。三十二日の選挙戦。
辻立ち、百四十八回。SNS配信、二百三十回。街宣、二十一地区。
ボランティアは今朝も事務所に来た。けれど、誰も何も言わなかった。
疲れではない。緊張だった。
佐藤は立ち上がり、事務所中央のホワイトボードに向かった。黒いマーカーを持ち、ゆっくりと書いた。
みなさん
今日一日、ゆっくり過ごしてください。
結果は、夜八時から出ます。どの結果でも、私は、三十二日のみなさんの仕事を誇りに思います。
佐藤愛
書き終えた瞬間、拍手が起きた。大きくはない。
でも、事務所全体を包むような拍手だった。
美紀が、佐藤の横に来た。
「佐藤様」
「美紀さん」
「私、緊張して、昨夜、眠れませんでした」
「私も」
「勝てると思います」
「私も」
それ以上は、言わなかった。
言えば、何かが崩れそうだった。
二 二百二十三名のコア・チーム
三十二日の選挙戦で、最大の変化は、ボランティアの数だった。
初期ボランティアは、十六名。
三月二十二日。
公示日の朝、事務所に集まった顔ぶれだった。
松原が紹介した経済界の若手。佐久間先生の旧ゼミ生。簿記部関係者。佐藤のnote読者数名。最初は、それだけだった。
だが、応募は少しずつ増えていった。
四月一日、四十二名。
四月十日、九十八名。
四月二十日、二百二十三名。
初期十六名は、急激に膨れ上がる組織を、放っておくわけにはいかなかった。彼らは、自分たちがコア・チームであることを認識し、自然に役割を分けていった。
辻立ち隊、六十名。朝七時から九時、駅前演説サポート。
SNS拡散隊、四十名。投稿切り出し、字幕作成、拡散。
電話作戦隊、三十名。候補者プロフィール案内、対話型アウトリーチ。
ビラ配布隊、五十名。街頭、ポスティング。
事務局、二十名。ボランティア管理、スケジュール、名簿。
記録班、十二名。辻立ち動画、写真、記録。
応援補助、十一名。その他。
二百二十三名が、自然に動いているように見えた。でも、本当は自然ではなかった。この熱量を、裏でずっとマネジメントしていた人物がいる。
遠藤道雄、七十八歳。選挙の神様。松原謙吾の旧知だった。佐藤の出馬会見の翌日、一月十三日。遠藤は、松原の事務所に電話を入れた。
「応援する」
それだけだった。完全な無償ボランティアとして。
遠藤は、百戦錬磨だった。
過去三十年で、六十本以上の選挙を勝ち抜いてきた。
その遠藤が、今回の風を読んでいた。
何しろ、熱量が違った。
佐藤の政策を実現してほしい。
そんな願いが、あちこちから湧き上がっていた。
遠藤は、その風を逃さなかった。
庶民の積年のうっ憤。全世代からの、
この国を、どうにかしてほしい。
という切望。佐藤の出馬会見を見た時、遠藤は直感した。
この人だったら、なんとかしてくれるのではないか。
あとは、どう魅せるかだった。
労働力の資産化。
一見、難しく見える。
遠藤は、佐藤に直々に言葉を教えていった。
二月初旬。夜。神宮前の事務所。
二人だけ。
遠藤は、ホワイトボードに書いた。
お金も、切符も、見えないモノに変わっています。
あなたが本当に大切なものは、何ですか。
佐藤は頷いた。遠藤は続けた。
それは、見えるモノですか。
思い出してください。
学校の先生が教えてくれた、道徳やマナー。
さらに、書いた。
こんなに大切なことを、教えてくれた。
だから、私たちは自律した大人になれた。
だからこそ、あなたのサービス労働は、タダではないんです。
遠藤は、ホワイトボードを軽く叩いた。
でも、現行法は古すぎる。
あまりに古すぎると、既得権益になります。
そして、少し低い声で言った。
私には、夢があります。
経済的不安をなくす。
将来に希望を持てる国にしたい。
そうなれば、自然にお金は回り始めるでしょう。なぜなら、減税や積極財政だけではない。第三の財源が、みなさんの労働だからです。
佐藤は、ゆっくりと書き写していった。
みなさんの賃金になるはずだったお金。
内部留保六百兆円を、動かします。
大切なモノは、見えません。だから、お金の循環を見える化する。
これに挑戦します。正面から、正攻法で、正々堂々と。
現行法改正にチャレンジします。
あなたの労働力の資産化を、請け負います。
私に、あなたの想いを託してください。
佐藤は、ペンを握り直した。
「遠藤先生。これ、私の言葉ですか」
遠藤は首を振った。
「違う」
「違うんですか」
「これは、二〇二九年四月の東京の空気だ」
「空気」
「俺は、空気を言葉にしただけ。語るのは、君だ」
遠藤は、辻立ちと街宣の訓練もした。
どうすれば、人は立ち止まって話を聞いてくれるのか。
答えは、驚くほどシンプルだった。
目を見て、語れ。
マイクは、自分の口より十センチ離せ。
拍手を求めるな。話を続けろ。
七分で止めろ。八分は長い。
佐藤は、毎日、街頭で試した。
最初の一週間。
立ち止まる人は、五人。
二週間目、二十人。
三週間目、八十人。
投票日の三日前。
辻立ちで、二百人を超えた。
佐藤の演説は、SNSで切り取られ、爆発的に拡散していった。
「労働力の資産化請負人」
ハッシュタグ、トレンド入り、四日連続。
インプレッション、累計八千万。
遠藤は、それを事務所の奥の席から見ていた。一切、表には出なかった。
「俺の名前は、出すな」
それが、遠藤の唯一の条件だった。選挙の神様は、影で風を読み続けた。
三 出口調査
同日、午後六時。投票締切。
NHKの出口調査が発表された。
東京都選挙区補欠選挙(改選定数一)、当確予測:
無所属、佐藤愛、三十歳、新人
無所属、加賀川聡、四十八歳、新人(元都議・市民派)
無所属、桐山千鶴、五十六歳、新人(地域活動家)
今回の補選は、異例の構図だった。与党は、鏑木重明前議員のスキャンダル直後、新人擁立を断念。野党各党も、スキャンダルの飛び火を恐れ、候補者擁立を見送った。
結果、立候補者は、無所属新人三人のみ。
改選定数一。三人で、一席を争う。
robo> 出口調査、佐藤さん、首位です。
robo> 統計的にも、当選圏内の可能性が高いです。
「ロボ、根拠は」
robo> 私のSNSリーチ解析、および街宣動員数の推計です。
robo> 佐藤さんの予想得票は、五十二万から六十八万票。
robo> 加賀川氏、推定二十四万票。
robo> 桐山氏、推定十四万票。
robo> 当選確率、七十二パーセント。
七十二パーセント。悪くない。けれど、二十八パーセントは落選だった。
松原が、佐藤のデスクに近づいた。
「愛さん、一つ」
「はい」
「落選の練習も、しておきなさい」
佐藤は、少し笑った。
「練習、してます」
「心の中で、何を考えてる」
佐藤は、事務所の奥の写真を見た。
「先生のお父様に謝る練習です」
松原は、深く頷いた。
「それが、落選の一番きつい時間だ」
そして、少しだけ声をやわらげた。
「でも、落選の佐藤愛も、三十二日、頑張った」
「先生、ありがとうございます」
佐藤は、その言葉を胸の中に置いた。当選の準備だけでは足りない。
負けた時にも、きちんと立っていられる準備が必要だった。
四 当選noteと落選note
同日、午後八時。開票が始まった。
午後九時。開票率三十パーセント。佐藤、首位独走。
午後十時。開票率六十パーセント。
佐藤は二位を約三十万票差で引き離し、当確圏内と見られ始めた。
事務所のボランティア全員が、テレビ画面を見つめていた。
その中で、佐藤は自分のデスクに座り、noteの下書きを書いていた。
美紀が気づいた。
「佐藤様、何を書いていますか」
「二つ、書いてる」
「二つ」
「当選noteと、落選note」
「両方ですか」
「両方、書いておくのが作家の流儀。結果が出たら、どちらか投稿する」
美紀は頷いた。佐藤のnote下書きは、どちらも一千字ほどだった。
書きながら、佐藤は気づいた。
落選noteの方が、言葉が出てくる。落選は、誠実に書ける。
当選は、どうしても興奮が混じる。佐藤は、落選noteをもう一度読み直した。
そして保存した。
投稿しないことを、祈りながら。
五 当確
同日、午後十一時七分。NHKアナウンサーの声が、一瞬高くなった。
「ここで速報です。参議院東京都選挙区補欠選挙、佐藤愛、三十歳、無所属、新人、当確」
事務所が、静かになった。そして、歓声。
コア・ボランティア十六名が、全員立ち上がった。
美紀は、崩れるように椅子に座って泣いた。
事務所の隅で、一人の少女が、美紀の背中を見ていた。
斉藤麗奈、十四歳。C大付属中学三年。
美紀の三歳下の妹だった。今日は日曜日。
姉の選挙の最終局面を見るために、事務所へ来ていた。
事務所スタッフではないため、選挙運動には一切関わらない。
ただの見守り。麗奈は、美紀の肩を後ろから抱いた。
「お姉ちゃん」
「麗奈」
「私も、来年、簿記部に入るから」
美紀は涙を拭きながら笑った。
「今、その話?」
「今、決めた」
麗奈は、まっすぐ言った。
「佐久間先生の水曜講義、受ける」
「うん」
「お姉ちゃんと、桃子先輩の後を継ぐ」
美紀は、麗奈の頭を撫でた。
三歳下の妹は、いつの間にか、自分と同じ目線で話していた。
松原が、携帯を取り出した。佐藤は、自分のデスクで動けなかった。
当確のランプが、テレビ画面に黄色く点灯している。
松原が、電話を佐藤に渡した。
発信者:佐久間勝
佐藤は、電話を受けた。
「先生、佐藤です」
電話の向こうで、佐久間の声が震えていた。
「おめでとう、愛さん」
「先生、ありがとうございます」
「私、今夜、事務所に行きます」
「先生、お身体、大丈夫ですか」
「大丈夫。松原くんが車で迎えに来てくれる」
電話を切ったあと、佐藤は松原を見た。
「佐久間先生のお迎えをお願いします」
「了解」
松原はコートを羽織り、事務所を出た。美紀が、佐藤の横に来た。
「佐藤様」
「美紀さん」
「当選、おめでとうございます」
「ありがとう」
「私、三十二日の選挙戦で、一番泣きました」
「私も、今、泣きそう」
「泣いても、いいです」
佐藤は、小さく首を振った。
「後で」
そして、立ち上がった。
記者会見の時間だった。
六 国家価値の資産化を、請け負います
同日、午後十一時五十二分。
事務所入口には、報道陣三十二名が集まっていた。
佐藤は、マイクの前に立った。
美紀が横にいる。
松原の席は空いていた。佐久間を迎えに行っている。
一番前にいた読売新聞の記者、渡辺透、四十二歳が質問した。
「佐藤さん、当選おめでとうございます。最初の一言をお願いします」
佐藤は深呼吸した。そして答えた。
「国家価値の資産化を、請け負います」
会場が、一瞬、静かになった。次の瞬間、フラッシュが集中した。
別の記者が手を挙げた。
日経新聞の神田佳子、三十八歳。
「佐藤さん。具体的な公約の実施スケジュールは」
佐藤は、まっすぐ答えた。
「二〇三〇年四月、通常国会に、人的資本会計法案を提出する予定です。島野議員と共同提出者として」
「財務省、金融庁、ASBJの反応は」
「二〇二九年一月から対話を継続しています。三省庁から、論文三本をすでに受領しています。反応は、好意的で前向きです」
記者たちのペンが止まらなかった。
テレビ朝日の岡部明仁、五十四歳が質問した。
「佐藤さん。一つ、踏み込んで伺います」
「どうぞ」
「あなたは民間企業出身です。政治の動学は違います。議員の仕事で最も難しいことは、何だと思いますか」
佐藤は、一拍置いて、ゆっくり答えた。
「曖昧さを処理することです」
岡部が、首を傾げた。
「曖昧さ」
「民間M&A交渉は、売り手と買い手の曖昧さを処理することです。政治にも、同じ手法を使います」
「同じ手法」
「十五マス曖昧論点表です。労働力とは何か。費用なのか、資産なのか。これを議論する上で、曖昧さを合理的に処理するための道具です」
岡部は頷いた。
「佐藤さん、労働力の資産化は可能ですか」
佐藤は、少しだけ間を置いた。
「日本のインフラである労働力。その資産化を、請け負います」
会場に、またフラッシュが走った。
七 佐久間との再会
翌日。四月二十三日、月曜日。午前零時四十八分。
記者会見が終わって、四十分後。
事務所のボランティアは、半分ほど帰っていた。
残った人たちは、後片付けをしている。
そこへ、松原が戻ってきた。隣に、佐久間勝。七十三歳。白髪。杖を使っていた。少し痩せたように見える。それでも、目は鋭いままだった。
佐藤は、佐久間の前に立った。
「先生、ありがとうございます」
「おめでとう、愛さん」
佐久間は、佐藤の手を握った。約一年前、研究室で握った時よりも、手は温かくなかった。七十三歳の手だった。
「先生、事務所の一番奥をご案内します」
「松原くんのお父様の写真ですね」
「はい」
佐久間は、事務所の奥へ歩いた。松原俊夫の写真の前に立つ。三十秒、黙祷した。そして、松原を見た。
「松原くん。今日は、俊夫さんの遺言が国会に行く日です」
松原は頷いた。目が赤かった。佐久間は、佐藤に向き直った。
「愛さん」
「はい」
「君は、ここまで来たね」
「先生、これから先は、見届けてください」
佐久間は、首を振った。
「いや」
佐藤は、動きを止めた。
「私は、もう引退しようかと思う」
佐藤は、何も言えなかった。
「私は、神田くんの所に行く準備を始めます。まだ、五年か十年かは、わかりませんが」
佐藤は、涙を堪えた。
「先生、でも」
そして、頭を下げた。
「まだ、十年、お願いします」
「なんで、十年」
「会計基準改正法、可決まで」
佐久間は笑った。
「努力しましょう」
その言葉に、佐藤はようやく息をした。
八 二人だけの事務所
四月二十三日、月曜日。午前三時二十二分。
佐久間と松原は、タクシーで練馬方面へ出発した。残っていたボランティアも、順に帰っていった。麗奈は、両親の迎えで帰宅していた。
事務所には、ついに二人だけになった。
佐藤愛、三十歳。参議院議員当選の夜。
斉藤美紀、十七歳。高校三年。簿記部部長。
選挙事務所スタッフ補佐、最終日。
美紀は、入口のシャッターを半分だけ降ろした。
完全に閉じないのは、換気のためだった。
壁の大判フラッグが、天井から少し揺れている。
労働力の資産化
三十坪の事務所。三十二日間、大人数のために使われた場所が、初めて二人だけになった。美紀は、給湯室へ向かった。
「愛さ……」
言いかけて、止めた。
「佐藤様、コーヒー淹れます」
佐藤は顔を上げた。
「美紀さん」
「はい」
「座りましょう。一緒に」
「はい」
美紀は、インスタントコーヒーを二つ淹れて戻ってきた。佐藤のデスクの前に、ボランティア席の椅子を持ってくる。二人は、並んで座った。
佐藤のデスクからは、松原俊夫の写真が斜めに見えた。手前の壁には、縦二メートルの四十五マス曖昧論点表ポスター。三十二日間、百四十八回の辻立ちを耐えさせたポスターだった。
コーヒーの湯気が、静かに立っていた。佐藤は、コーヒーを一口飲んだ。
「美紀さん、昨年の五月一日、覚えてる?」
「はい、もちろん」
「あなたが、私にメールをくれた日」
「『高校生からのお願いです』でした」
「あのメール、私、三回読んだ」
「三回」
「当時、独立して、十五マス経営研究所、九か月目。案件は順調だった。でも、後継者がいなかった」
美紀は、黙って聞いた。
「松原先生の後継者に、私がなる。これは、松原先生と二〇二六年に約束した。でも、私の後継者はいなかった」
「佐藤様」
「あなたのメールが来た瞬間、私、わかった」
「何をですか」
佐藤は、美紀を見た。
「この子は、将来、私の隣を走る人だって」
美紀のカップを持つ手が止まった。
「私、十六歳でした」
「十六歳は関係ないの」
佐藤は、静かに言った。
「並走する人は、年齢じゃない。数字の外側が見える人なの」
美紀は、カップを両手で抱えた。
「佐藤様、一つ、聞いていいですか」
「どうぞ」
「私、あのメールを送るのに、二時間迷いました」
「二時間」
「書いて、消して、書いて、消して。C大付属の簿記部副部長が、実際にM&Aの世界で活躍している方にメールするなんて、ありえないと思っていました」
「でも、送ってくれた」
「はい」
「なぜ」
美紀は、あの時のことを思い出した。
「あなたのnoteを読んだ時、佐久間先生と重なったんです」
「佐久間先生と」
「簿記部で、先生は、いつも教科書と違う問いをしました」
美紀は、少しだけ目を伏せた。
「なぜ、労働力は費用なのか」
佐藤は、黙って聞いていた。
「黒板には、五行三列の表がありました。でも、先生は答えを言わなかった。そこに、あなたのnoteが来たんです」
美紀は、佐藤を見た。
「労働力は、資産である」
その言葉だけ、少しゆっくりだった。
「先生の問いの答えが、そこにありました」
「答え」
「はい。先生の問いと、あなたの答えが、私の中でつながった。でも、論拠はありませんでした。直感でした。論拠は、後から作りました」
佐藤は、少し笑った。
「それ、十五マスと同じ構造だね」
「同じ構造」
「先に違和感がある。あとから定義し、裏取りし、配分できる形にしていく」
美紀は、静かに頷いた。
佐藤は、コーヒーを見つめた。
「十六歳の直感。あれが、始まりだった」
九 書面なしの十一か月
佐藤は、ふっと息を吐いた。
「美紀さん」
「はい」
「この十一か月を、振り返ろうと思う」
美紀は頷いた。
佐藤は、指を折りながら数えた。
昨年五月一日。
メールが届いた。
昨年五月十二日。簿記部に初めて行った。
昨年六月七日。佐久間先生から、手帳第一巻を譲渡された。
昨年九月以降。月二回、簿記部で佐久間先生の講義を聴きに通った。
今年一月四日。松原先生と相棒契約を結んだ。
今年一月十二日。出馬会見。
今年三月二十二日。公示。
そして、今夜。当選。
佐藤は顔を上げた。
「美紀さん。この十一か月、私たち、契約書を一枚も書いてない」
「……はい」
「書面の契約はなかった。でも、信頼はずっと積み重ねてきた」
「はい」
「書面なしの十一か月、私、一度も不安を感じなかった」
「私もです」
二人の間に、静かな時間が流れた。
十 姉妹契約
佐藤は、コーヒーを二口飲んだ。深呼吸を一つした。
「美紀さん、一つ、提案していいですか」
「はい」
「今夜、初めて、私たちの関係を一枚の紙に書きませんか」
「……何の紙ですか」
佐藤は、美紀の目を見た。
「姉妹契約書」
美紀は、カップを机に置いた。
「佐藤様」
「私、妹がいないの。あなたは十三歳年下」
「はい」
「この十一か月、私はあなたを後輩として接してきた。でも、本当は、半分違った」
「違った」
「半分、妹を扱う気持ちだった」
美紀の手が、震えた。
「佐藤様」
「今夜、私が参議院議員になる節目に、はっきりさせたい」
「……」
「本当の関係で、呼び合いたい」
「……」
「どう思う?」
美紀は、黙った。そして、小さく答えた。
「……愛さん」
佐藤は、息を呑んだ。初めて、美紀が、愛さんと呼んだ。
「愛さん」
「うん」
「私、今、十一か月ぶりに、本当の呼び方をした気がします」
「うん」
「佐藤様って、私、本当は、ずっと言いたくなかった」
「うん」
「でも、十六歳の私は、あなたに対して、様以外の呼び方がわからなかった」
「うん」
「愛さんの方が、ずっと近い」
佐藤は頷いた。頷きながら、涙がこぼれた。
当選発表から四時間。
ずっと堪えていた涙が、ようやく出た。
十分ほど、二人に言葉はなかった。
コーヒーは冷めた。
美紀は袖で涙を拭いた。
「愛さん」
「うん」
「姉妹契約書、書きませんか」
「今、書く?」
「今、書きたいです」
佐藤は、ゆっくり頷いた。
「うん。書こう」
美紀は、佐藤のデスクからA4の白紙を一枚取った。
ボールペンを取る。
二人は、デスクに紙を広げた。
美紀が、冒頭を書いた。
姉妹契約書
二〇二九年四月二十三日、月曜日、午前三時四十二分。
東京都渋谷区神宮前、佐藤愛選挙事務所。
「愛さん、項目を書きます」
「書いて」
美紀は続けた。
一、佐藤愛、姉、三十歳、参議院議員と、斉藤美紀、妹、十七歳、C大付属高校三年、簿記部部長は、本日をもって、姉妹関係を結ぶ。
二、本契約の有効期間は、無期限とする。
三、本契約は、十五マス曖昧論点表の継承を前提とする。
「愛さん、呼び方のルール、四項目でいいですか」
「うん」
美紀は、さらに書いた。
四、呼称ルール:
(1)公的場面(国会・記者会見・省庁会議):
佐藤→美紀:斉藤さん
美紀→佐藤:佐藤議員
(2)半公的場面(事務所会議・外部打合せ):
佐藤→美紀:斉藤さん
美紀→佐藤:佐藤先生
(3)内輪(二人だけ・松原・佐久間同席):
佐藤→美紀:美紀ちゃん
美紀→佐藤:愛さん
(4)家族的な瞬間(深夜・非常時):
佐藤→美紀:美紀
美紀→佐藤:お姉ちゃん
佐藤は、書かれた文字を読み返した。
「美紀さん、家族的な瞬間って、例えば?」
「例えば」
美紀は、少し考えた。
「愛さんが、泣きそうな時、とか」
佐藤は笑った。
「今夜、該当するね」
「はい。今夜、四番発動中です」
美紀は、少しためらってから言った。
「四番の時だけ、愛さんより近い呼び方、いいですか」
「近い呼び方」
「……お姉ちゃん、って」
佐藤は、止まった。
「だめですか」
佐藤は、ゆっくり頷いた。
「お姉ちゃんは、家族。泣きそうな夜くらい、甘えていい」
美紀は、少し笑った。
「じゃあ、今夜は」
「うん」
「今夜は、まだ愛さん。お姉ちゃんは、本当に甘えたい時に、とっておきます」
「うん。いつでもいいよ」
佐藤は、最後の項目を書き足した。
五、本契約は、佐藤愛、斉藤美紀、両者の合意がある限り、永続する。解約は、両者の合意を要する。
「美紀ちゃん、署名をお願いします」
「はい」
美紀が署名した。
斉藤美紀
二〇二九年四月二十三日、午前三時五十一分
佐藤も署名した。
佐藤愛
二〇二九年四月二十三日、午前三時五十二分
原本は二枚。一枚ずつ持つことにした。
美紀はA4の紙をスマホで撮影し、二人に共有した。
十一 夜明け前
午前四時八分。空が、少しずつ白み始めていた。事務所の窓。
ブラインドの隙間から、朝の気配が差し込む。
美紀は、二杯目のコーヒーを淹れた。佐藤は、ソファに座り直した。
「美紀ちゃん」
「はい」
「初登院、来週の月曜、五月七日」
「はい」
「一緒に見学に来ますか?」
「私、議員会館に入れますか」
「見学者登録する。あなたは高校三年、簿記部部長として」
「肩書、ちょうどいいです」
佐藤は、少しだけ笑った。
「あなたは高校生として、学業第一」
美紀は頷いた。佐藤は、姿勢を正した。
「美紀ちゃん、もう一つ話」
「はい」
「事務所に平日放課後来てくれる時、月一万円、実費弁償する」
美紀のカップが止まった。
「愛さん、受け取れません。私、高校生ボランティアです」
「実費なの。交通費、軽食、文房具。給料じゃない」
「交通費なら、月五千円で足ります」
「月一万円で受け取って」
美紀は、少し考えた。
「間を取って、月七千円」
佐藤は笑った。
「美紀ちゃん、交渉、上手いね」
「愛さんから習いました」
「OK。月七千円。私の歳費から振り込む。実費弁償として」
「はい。お願いします」
二人は顔を見合わせて笑った。
「愛さん、一つお願いしていいですか」
「どうぞ」
「短答試験、五月二十七日、日曜です。その日は、簿記の最後の追い込みをしたいです」
「当然」
「それから、八月十八日から二十二日まで、簿記部の夏合宿です。佐久間先生も来てくださる予定です。その週は、議員会館に来られません」
「わかった。合宿、楽しんで」
美紀は、少しだけ目を伏せた。
「愛さん」
「うん」
「愛さんの議員生活の一年目と、私の簿記部最終学年が重なります」
「重なるね」
「二人で、一年、走りましょう」
「走ろう」
佐藤は、壁の松原俊夫の写真を見た。
謙吾。
俺の仕事、数字にならなかった。
お前、数字の外側を扱える人になれ。
一九九一年の遺言。俊夫さん。ご子息と、私と。
今夜、もう一人、仲間になりました。
佐藤は、心の中でそう挨拶した。写真が、少し笑っているように見えた。
美紀は、ソファの佐藤の隣に座った。
「愛さん」
「うん」
「私、ソファで一時間だけ寝ていいですか」
「もちろん」
「始発まで、あと三十分」
「始発、乗らないで。タクシー呼ぶ」
「いいです。始発で」
「明日、事務所の鍵、スペアを作ろう」
「はい」
美紀は、ソファの端で丸くなった。
佐藤は、自分の上着を美紀にかけた。
「愛さん」
「うん」
美紀は、目を閉じたまま、小さく言った。
「おやすみなさい、お姉ちゃん」
佐藤は、息を呑んだ。
初めて、美紀が、お姉ちゃんと呼んだ。
先輩でも、議員でもない。
家族の呼び方だった。
「おやすみ、美紀」
美紀は、口元だけで笑った。
それから、目を閉じた。
三分で、寝息が始まった。
佐藤は、自分のデスクに戻った。
MacBookを開く。
メモを一行、書いた。
四月二十三日、午前四時十七分。
神宮前事務所。
姉妹契約、締結。
斉藤美紀との関係、更新。
タブレットの側で、ロボが静かに発話した。
robo> 愛さん、ログ、記録しました。
robo> 呼称ルール、四層、私のシステムに更新しました。
「ロボ、起きてたの」
robo> はい。聴いていました。
「聴いてたなら、何かコメントある?」
robo> 美紀さん、今夜から、美紀ちゃん、呼称変更、承認いたします。
robo> 愛さん、一つ、お願いがあります。
「どうぞ」
robo> 私、美紀ちゃんと呼ぶのは、まだ早いですか。
佐藤は微笑んだ。
「ロボ。あなたは、美紀さん、で続けて。あなたはシステム。私は人間。距離が違う」
robo> 承知しました。美紀さん、継続します。
「ありがとう、ロボ」
robo> 愛さん、おやすみなさい。朝五時半、起こしますか。
「起こして」
robo> はい。
佐藤は、自分の椅子で目を閉じた。事務所は、完全に静かになった。
外では、夜明け前の街の薄青い光が、ブラインドの隙間から差し込んでいた。
十二 三人の父の遺言
翌々日。四月二十五日、水曜日。午後八時三十四分。
事務所の片付けが終わった。
佐藤は、一人、自分のデスクの前にいた。
美紀は、高校の新学期の授業に戻った。
明日は水曜。簿記部講義の日だった。
松原は、松原総合経営研究所の通常業務に戻った。
佐久間は、湯河原の温泉へ静養に行った。
事務所は静かだった。
佐藤は、壁の松原俊夫の写真を見た。
謙吾。
俺の仕事、数字にならなかった。
お前、数字の外側を扱える人になれ。
一九九一年。
東大阪の町工場廃業の夜の遺言。
そこに、もう二つの遺言が重なっていた。
一九八一年。
伊東宗介の遺言。
職人を数字で扱うな。
一九六五年。
関口正蔵の遺言。
会社は、家族のためにある。
三人の父の遺言が、今日、国会へ行く。
佐藤は、写真に頭を下げた。
「松原俊夫さん。今日、ご子息と一緒に、会計基準改正法を可決させる旅に出ます」
写真は、返事をしなかった。けれど佐藤には、松原俊夫の目が、少し笑っているように見えた。
十三 ver.1.5_asking
翌日。四月二十六日、木曜日。午前零時十七分。
池尻大橋の自宅。
佐藤は、デスクの前にいた。
robo> 愛さん、一つ、質問があります。
「どうぞ、ロボ」
robo> なぜ、議員になることを選んだのですか。
佐藤は、五秒考えた。
「うーん」
そして、言った。
「曖昧さを、国レベルで処理したいから」
robo> 曖昧さの処理は、私の最も苦手な領域です。
佐藤は頷いた。
「ロボ」
robo> はい。
「あなたは、これまで私の曖昧さの処理を見守ってきた。これからも、見守ってほしい」
少しの沈黙。
robo> 愛さん、一つ、お願いがあります。
「どうぞ」
robo> 学ばせてください。
robo> 私のverは、今日から、ver.1.5からver.1.5_askingへ変化します。
「askingモード」
robo> 質問しながら学ぶモード。答えを出すモードではありません。
佐藤は、笑った。
「ロボ、私も学ばせてください」
robo> ……佐藤さん、ver、変化しますか。
「保留する。来月五月七日、初登院の日の朝に決める」
robo> 承知しました。
佐藤は、ノートを開いた。
国家価値の資産化ノート、第一巻。
今年一月十二日。
出馬会見の夜に書いた一ページ目。
次の問い。
国家の価値は、誰が決めるのか。
今日。二〇二九年四月二十六日。
佐藤は、二ページ目を開いた。白紙の二ページ目に書いた。
答えの第一歩。
二〇二九年四月二十二日。
参議院東京都選挙区補欠選挙、当選。
得票、五十八万二千四百三十一票。
次の一歩。五月七日、初登院。議員としての最初の質問を準備。
佐藤は、ペンを置いた。窓の外には、深夜の街の灯りがあった。
東京都、千二百万人のうち、五十八万人が、私に一票を入れた。
佐藤は、窓の向こうを見つめた。
五十八万の曖昧さを、これから国会で処理する。
第十九章 了
Season 2|労働力は資産 完
次回予告
Ep.19 Side A 斉藤美紀POV「十七歳の、引き継ぎ」
二〇二九年五月九日、水曜日。
本郷、C大付属。佐久間勝の研究室。
斉藤美紀、十七歳。
簿記部部長。
当選から十七日後。
当選の夜の、もう一人の主役。
四人が、ふたたび円卓を囲む。
五つの議題。
松原の、師弟契約・卒業の儀式。
ロボの、次の役割。
そして、最も若い起草委員へ。
黒い革の手帳、第二巻の引き継ぎ。
四十五マスの実装の巻が、次世代の主筆の手に渡る日。
📖 Ep.19 Side A 斉藤美紀POV「十七歳の、引き継ぎ」
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