
【十五の曖昧】Ep.15 疲弊する地方自治体|必要なのに毎年やせていく
あらすじ:二〇二八年十月、佐藤愛は埼玉県北部の高齢地域を示す地図を見ていた。配食、移送、見守り、生活代行。帳簿上は別々の事業だが、住民にとっては一つの暮らしの基盤として機能していた。十一月、長野県東信市役所で、財政課長・渡瀬、企画政策課長・片桐、市長・白川は、それぞれ地域サービスの限界を語る。「今年は大丈夫」の積み重ねが、静かな崩壊を招いていた。佐藤は気づく。これまで見てきたのは会社の中の労働だった。だが、同じ問題は地域にも、国にも広がっている。白紙のノートに「会社、地域、国」と三本の線が引かれ、十五マスは四十五マスへ拡張されていく。
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📖 シーズン1全話(Ep.01〜Ep.10)
📖 Ep.11 本編「手の記憶」──労働力の資産化請負人(シーズン2開幕)
📖 Ep.12 幕間「女将の五十二冊」──関係資本の価値
📖 Ep.13 本編「概念の父」──白紙の問い
📖 Ep.14 本編「デジタルオペレーターの価値」──消えるSaaS運用ノウハウ
一 行政の危機管理資料
二〇二八年十月十六日、月曜日。午前八時四十六分。
池尻大橋の部屋で、佐藤愛は一枚の地図を見ていた。
埼玉県北部。人口八万九千人。
高齢化率、三八・四パーセント。
市内の南北を結ぶバス路線は、三年前に一部廃止。
訪問介護事業所は、五年前の十一か所から七か所へ減った。
配食サービス事業者三社のうち、一社は先月廃業。
地元スーパー二店舗のうち一店舗は、来春撤退予定。
地図の上には、赤い丸がいくつもついていた。
高齢者住宅。小規模デイサービス。在宅配食ルート。買い物支援の巡回地点。居宅介護支援事業所。会社の案件資料には見えなかった。
行政の危機管理資料に近かった。
ロボが言った。
robo> 案件名、整理しました。
robo> 一般社団法人まちなか支援機構、再編支援案件。
robo> 中心事業、三つ。
robo> 一、配食・安否確認。
robo> 二、通院・買い物移送支援。
robo> 三、介護周辺の生活代行。
robo> 直近三年、営業赤字。
robo> ただし、市内高齢者の利用継続率、高い。
robo> 備考。自治体、地元信金、社会福祉法人、民間事業者、四者協議中。
佐藤は、地図から目を離さなかった。
「買い手案件ではないんだね」
robo> はい。
robo> 厳密には、M&A案件ではありません。
robo> ただし、事業承継、統合、機能移管、地域再編、論点混在です。
混在。その言い方が、正しかった。
今までは、会社があった。
会社の中に価値があり、その価値が人の中へ寄っていた。
だから、どこまで移せるかを考えた。
今回は違う。
最初から、一つの会社の中に収まっていない。
配食は、配食。
見守りは、見守り。
移送は、移送。
生活代行は、生活代行。
帳簿の上では、全部別だった。
それでも、住民にとっては一つのものとして機能していた。
それが抜けると、会社ではなく、暮らしが止まる。
佐藤は、地図の端に小さく書いた。
会社の値段ではない。
地域の継続可能性の話だ。
二 赤字事業、でも失うと代替が効かない
発端は、一通のメールだった。
差出人は、埼玉北央信用金庫。
地域連携室長、久保田真紀。五十二歳。
件名は、こうだった。
地域生活支援事業の再編について、ご相談
本文には、こう書かれていた。
佐藤様
弊金庫では現在、埼玉県北部の一自治体において、高齢者向け生活支援事業の再編支援に関与しております。 これは単純な事業譲渡や廃業処理ではなく、複数主体に分散した機能をどう維持・移管・連携させるかという案件です。 会計上は赤字事業であり、個社単位では採算が難しい一方、地域として失うと代替が効きません。 貴殿がこれまで扱われた「見えにくい労働価値の可視化」と近い論点があるのではないかと考え、ご相談差し上げました。
赤字事業。失うと代替が効かない。
その二つが、同じ段落に入っている。
M&Aの世界では、赤字は減点になる。
続けるほどキャッシュが出るなら、単体評価では切る方向へ行く。
それは、間違っていない。だが、地域の暮らしは、単体評価だけでは回らない。
配食がなくなる。通院移送がなくなる。買い物支援がなくなる。見守りが途切れる。
すると、介護の手前で生活が崩れる。生活が崩れると、もっと重い介護コストが後ろで膨らむ。帳簿の上では分かれているが、実際には、つながっている。
まちなか支援機構の職員は、弁当を届けているだけではなかった。
その日、玄関の開き方がいつもより遅いこと。薬袋が先週のまま残っていること。部屋の空気が、少し湿っていること。「今日は大丈夫」と言う声が、いつもより小さいこと。そういう違和感を、弁当と一緒に拾っていた。
通院送迎の運転手も、ただ車を出しているわけではなかった。
誰が、病院帰りにスーパーへ寄らなければ夕食を買えないのか。誰が、次の受診日を聞き間違えやすいのか。誰が、家族に頼ることを諦めているのか。それを知っているから、町の暮らしは、まだぎりぎり回っていた。
佐藤は、ノートに書いた。
地域生活インフラ。
そして、その下にもう一行。
道路や橋だけではない。
人が人を見て、つなぎ直す仕事も、地域のインフラだった。
三 同じ紙に乗る
四者協議は、市役所の小さな会議室で行われた。
市役所の長瀬。
埼玉北央信用金庫の久保田。
社会福祉法人の小田切。
民間事業者の宇田川。
全員が、必要性は理解していた。
そして全員が、同じ場所で詰まっていた。
「単体で採算を見れば、厳しいです。」宇田川が言った。
「ですが、撤退すれば、配食と見守りと移送が同時に崩れます。うちが抜けると、他の法人にも負荷が移る。」小田切が続けた。
「社会福祉法人が全部引き取ることもできません。現場はもう、余力がない。」長瀬は、資料の端を指で押さえながら言った。
「市として必要性は認めています。ただ、毎年の委託費として積むには限界があります。」そこで、一度言葉を切る。
「恒常的に必要だと認めるほど、逆に、なぜ一般財源化できないのかという話になります」
久保田は、黙って聞いていた。信金として支援したい気持ちはある。
だが、理事会で問われることは決まっている。
返済原資は?採算改善の道筋は?信用補完は?出口は?
どれも、正しい問いだった。
ただ、その正しさだけで切ると、説明が半分になる。
佐藤は、ホワイトボードに三つの丸を書いた。
配食。移送。見守り。
それぞれの丸の間に、線を引いた。
「単体では赤字です」
佐藤は、三つの丸を指した。
「でも、三つがつながっていることで、後ろ側の介護、医療、孤立リスクを抑えている可能性があります」
長瀬が、顔を上げた。佐藤は続けた。
「これは赤字法人の救済ではなく、地域機能の再編です」
会議室の空気が、少し変わった。
「採算だけでは、町を残せない。でも、善意だけでも続かない」
佐藤は、ホワイトボードにもう一本線を引いた。
「だから必要なのは、補助金を少し足すことではありません」
一拍置く。
「接続価値を説明できる形にすることです」
久保田が、そこで初めてペンを動かした。
一、単体採算は弱い。
二、だが、配食・移送・見守りの接続が切れると、後続の介護・医療負担が地域で増える。
三、本件は、単体事業救済ではなく、地域生活インフラの再編として扱う。 四、金庫は単独融資ではなく、情報連携基盤と複数主体協調の枠組みに資金支援を行う。
その順番なら、少なくとも説明できる。
なぜ金融機関が関わるのか。
なぜ自治体が関わるのか。
なぜ社会福祉法人だけに押しつけてはいけないのか。
感情論ではなく、構造として説明できる。
久保田は、小さく言った。
「ようやく、同じ紙に乗りましたね」
案件が進んだわけではない。
予算がついたわけでもない。
それでも佐藤には、庁内説明と金庫内説明が、初めて同じ紙の上に乗ったように見えた。
四 未来に効く仕事ほど、短い金で回されている
二週間後。
西陽銀行東京事務所の会議室で、佐藤は一枚の資料を見ていた。
地域機能維持事業に関する継続財源検討メモ(非公開)
西陽銀行地域戦略部長の井坂弘明が言った。
「北部の件、うちでも共有しました。正直に言うと、かなりざわつきました」
「ざわつく」
「はい。地方銀行も信用金庫も、ずっと似た案件を見てきたからです」
井坂は、資料を閉じた。
「必要性は見える。でも単体採算が立たない。行政も理解している。でも継続財源がない」
そして、佐藤を見た。
「その結果、必要な仕事が毎年、短期費用として削られていく」
佐藤は、頷いた。
「再編案件であると同時に、財源案件です」
会議室には、地域戦略部、法人ソリューション、自治体営業、公共コンサルの人間がいた。
この話は、もう一法人の再編で終わる話ではなかった。
井坂は、三つのファイルを机に置いた。
一つ目。中山間地域の買い物支援バス。
稼働率は低い。だが、止まると高齢世帯の在宅率が一気に下がる。
二つ目。過疎地域の簡易見守りネットワーク。
郵便、配食、福祉、自治会が緩くつながっている。誰も単体では儲からない。だが、切ると独居高齢者の異変発見が遅れる。
三つ目。地場の小規模事業者が共同で回している通院・買い物送迎。
どの法人にも本業ではない。しかし、どこか一者が降りると全体が止まる。
佐藤は、一つずつ見た。表のテーマは違う。
だが、構造は同じだった。
必要な機能が、個社の採算では支えきれない。
しかし、切ると地域全体の生活コストが上がる。
市場の失敗。制度の遅れ。評価言語の不足。たぶん、全部だった。
午後、自治体担当者の篠原がオンラインで入った。
篠原が持ち込んだのは、高齢者支援ではなかった。
子育てと教育支援の資料だった。
子育て相談窓口。放課後の学習支援。学校外の不登校支援。地域コーディネーターの配置。
篠原は言った。
「福祉と教育は、所管が違います。でも、現場の疲れ方は似ています」
少し間を置く。
「必要性は高い。利用者もいる。けれど毎年、また理由を書き直す。支援員は更新を迷い、ノウハウは紙の外へ落ちていく」
井坂が言った。
「次の世代を育てる機能も、同じ構造で痩せているということですね」
篠原は、少しだけ救われたような顔をした。佐藤は、ノートに書いた。
必要な仕事ほど、毎年やり直しになる。
それから、もう一行。
未来に効く仕事ほど、短い金で回されている。
必要な仕事を、必要だと知っているだけでは守れない。
持ち方を変えなければ、また痩せる。
五 崩壊はしていない。でも、持続もしていない
十一月二十日、月曜日。午後二時十二分。
長野県東信市。市役所本庁舎、四階。
応接会議室。
佐藤愛は、机の上の湯呑みにまだ手をつけていなかった。
会議室には、四人いる。
東信市長、白川達哉。
副市長、原口美菜。
財政課長、渡瀬和也。
企画政策課長、片桐早苗。
面談は非公開。
紹介は、西陽銀行の井坂からだった。
市長の白川は、最初から余計な前置きをしなかった。
「佐藤さん。今日は、介護の話でも、交通の話でも、配食の話でもありません。」白川は、まっすぐ言った。
「それらを全部、毎年ばらばらの支出として処理している限界について伺いたい」
その一言で、佐藤は少しだけ姿勢を正した。
副市長の原口が、資料を一枚ずらした。
生活交通。見守り。配食。買い物支援。子育て巡回支援。放課後の学習支援。学校外の不登校支援。地域コーディネーター配置。
どれも、単年度の細い線でぶら下がっている。
「必要性は上がっています」
原口が言った。
「ですが、予算の作りは変わらない」
財政課長の渡瀬が続けた。
「正確に言えば、必要性が高いほど毎年説明が苦しくなります」
「なぜですか」
佐藤が聞いた。
渡瀬は、少し苦笑した。
「恒常的に必要だと認めると、逆に、なぜ一般財源化できないのか、なぜ今年だけ特別扱いなのか、という話になります」
そして、静かに言った。
「結果として、必要な仕事ほど、毎年“今年も出す理由”を一から作り直すことになる」
会議室が、静かになった。
佐藤は、その言葉をそのままノートに写した。
必要な仕事ほど、毎年やり直しになる。
片桐が言った。
「崩壊はしていません。でも、持続もしていません」
その言い方を、佐藤は忘れないだろうと思った。
崩壊していない。だが、持続もしていない。
たぶん今、多くの自治体がその中間にいる。
白川市長が言った。
「地方自治体は、危機には予算をつけやすいんです」
災害。突然の閉鎖。人口流出の急増。そういう事件には、対応しやすい。
「でも、本当に厄介なのは、毎年五パーセントずつ暮らしの接続が細っていくような案件です」
誰も倒れていない。路線も、まだ一本は残っている。配食も、今月はまだ回っている。放課後支援も、学校外支援も、今月でいきなりゼロになるわけではない。
だから政治も財政も、「今年は大丈夫」と言えてしまう。
その「今年は大丈夫」の積み重ねが、一番危ない。
白川は、窓の外へ視線を向けた。
「見てください、佐藤さん。あれが、うちの町です」
窓の下に、東信市が広がっていた。平成の合併で、三つの町村が一つになった市だ。
旧和科町の駅前商店街。かつて精密の町工場が腕を競った通りに、いまはシャッターが目立つ。その一角の古い小学校は、来春の閉校が決まっていた。
山あいへ目を移せば、旧鏡田村の棚田。水を張れば空を映して光る、無数の鏡。だが耕す人は、年々減っている。
南向きの斜面、旧陽岡町のぶどうの里には、黒い板が点々と増え始めていた。補助金を目当ての遠くの資本が、使われなくなった畑を買っていく。
「棚田も、ぶどう畑も、商店街も、学校も。どれも、今年はまだ大丈夫なんです」と白川は言った。「でも、そのまだ大丈夫が五年、十年と積み重なると、気づいたときには町が空っぽになっている」
佐藤は、埼玉の地図の赤い丸を思い出した。表のテーマは違う。だが構造は、同じだった。
白川が続けた。
「訪問介護も、見守りも、子どもの放課後も。この町の暮らしをつないでいるのは、名前も値段もつかない誰かの手です。その手が一本ずつ抜けていく。なのに帳簿には、費用としか書けない」
「市の外れに、やすらぎの家という、社会福祉法人があります。入居者八十名を抱えて、この地域の介護を支えてきた。……その施設も、いま、倒産の瀬戸際です」
どこかの独居の家で、今日も誰かが、その手を待っている。
六 今年の支出では、未来を持てない
佐藤は、手帳を開いた。
町工場の手の記憶。女将の五十二冊。SaaS運用のRunbookの外側にある判断。広告の、残る言葉を選ぶ感覚。
そこまでは、会社の中にあった。
だが今、目の前にあるのは会社ではない。
地域だった。
高齢者の食事を届ける人。
子どもの帰る場所を開けておく人。
病院までの道をつなぐ人。
学校の外で、こぼれ落ちた子を拾い直す人。
その仕事もまた、誰かの手と、関係と、判断でできている。
けれど、会社の中の運用知と違って、それを資産と呼んでくれる買い手はいない。
価格を戻す交渉の席もない。
SPAの別紙に書き込む場所もない。
それでも、社会はその仕事なしには回らない。
佐藤は、白紙の下に一行を書いた。
今年の支出では、未来を持てない。
もう一行、書く。
必要な仕事を、自治体が費用としてではなく、持続のための器として抱えられる仕組みが必要だ。
高齢者の暮らしを持たせる仕事も。
子どもの育ちを支える仕事も。
本当は、同じ側にある。
どちらも、地域が将来も自分で立っていくための土台だからだ。
窓の外では、東信の夕方の光がゆっくり薄くなっていた。
佐藤は、最後にもう一行だけ書いた。
必要なのに、毎年やせていく。
そして、その下に続けた。
問題は現場ではなく、現場を支える器のほうにある。
書いてから、ノートを閉じた。
まだ、構想の名はない。
だが、名がないままでも、輪郭だけは確かに立ち始めていた。
それは、会社の値段をつけるための理論ではなかった。
地方の暮らしと、次の世代の育ちを、痩せさせないための理論。
そこへ、近づいていた。
七 三本の横線
ノートを閉じてから、佐藤は、もう一度ペンを取った。
白紙の隅に、三本の横線を引いた。
一本目の上に、書いた。会社。
二本目の上に、書いた。地域。
三本目の上に、書いた。国。
三本の線は、太さが違った。信用力も違った。可動の早さも違った。
でも、どの線の上にも、同じ問題が走っていた。
必要な労働が、費用としてしか扱われない。
来年へ持ち越す価値として、評価されない。
会社の中で。地域の中で。たぶん、国の中でも。
佐藤は、ペン先を線の上で止めた。
もしかして、この三本は、別々の話ではないのかもしれない。
もしかして、自分がこの一年見てきた問題は、本当は、一枚の表に並ぶ三段なのかもしれない。
まだ、確信ではなかった。まだ、構造でもなかった。
でも、輪郭の輪郭が、初めて紙の上に並んでいた。
佐藤は、低くつぶやいた。
「ロボ。明日、頼みたいことがある」
robo> 待機、します。
窓の外、東信の空は、もう夜の色だった。でも、佐藤の手元の紙の上では、三段の白紙が、初めて横並びに見え始めていた。
会社。地域。国。
十五マスは、まだ終わっていなかった。
むしろ、初めて広がろうとしていた。
第十五章 了
次回予告
Ep.16 本編「四十五マスの輪郭」
二〇二八年十一月二十六日。
佐久間勝研究室。
会社の十五マス。地域の十五マス。国の十五マス。
一枚の表に並ぶ、三段。
合計、四十五マス。
佐藤。佐久間。そして、十六歳の美紀。
三人の対話で、輪郭が、構造に変わる夜。
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本作『十五の曖昧──労働力を資産に変える女・佐藤愛』は、新米M&Aコンサルタント・佐藤愛が、五つの交渉軸と十五の曖昧さを処理する技術を身につけていく成長物語です。
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