
水槽の中の星
これは、私が負け続けた記録だ。
一人の女に、である。
出逢った瞬間から先手を取られ、気づけば頭の中の大半を占領され、白旗を何本上げたか数える気にもなれない。
小説として書くには、あまりにもリアルすぎた。エッセイとして書くには、あまりにも感情的すぎた。
恋愛に勝ち負けがあるとすれば、私は完敗だ。だが、こんなにも幸せな敗北はなかった。これは、そんな日々の正直な記録だ。
夕立が通り過ぎた後は、必ず一日が生まれ変わる。
いつも、そう思う。あの黒く分厚い雨のカーテンが旅人のように去ってしまうと、突然、脳裏に彼女が現れる。勿論、彼女は幽霊ではないから、それは私のイメージでのことだ。
でも、現実以上に彼女の肌の温もりや、キーの高い笑い声、あの堪らない甘い香りに襲われて、突然シャワーのように夜が落ちてくる。どうして、こんなことになったのだろう。この苦しいほどの感情。
“好き”という言葉が浮かぶけど、すぐにどこかに飛んで行ってしまう。この感情に”好き”なんて言葉はあてはまらない。軽すぎる。そして、安易じゃないか?そう言う声がどこかで聞こえる。
「愛してる?」う~ん…、これも違う。ちょっと重すぎる。
なんてことを考えながら、この気持ちを表す言葉を探したりする。そんな日は幸せな日だ。
彼女に関してはいろんなことを考える。それだけ、私の頭は彼女にすでに占領されている。もう、私の気持ちの中では、数本の白旗も上がっている。でも、こんなことは彼女には内緒にしてある。彼女はプライドの高い人だ。だから、こんなことが解ったら、何を言われるか解ったものではない。知れたら、あっと言う間に占領されてしまうだろう。
しかも、彼女は頭の良い人だ。だから、弱みを握られたらもう逃げ場はない。どこにも安全地帯はなくなってしまう。そしたら、もう逃げ出すしか手はない。相手に好きだということが100パーセント握られてしまったら、恋愛では負けだ。とっておきのカードだって使えない。完全にお手上げだ。だから、いくつものポーズを用意しておく必要がある。
「そんなに好きなんかじゃないよ。」って思わせておかなくちゃ。だけど、私は根が素直で単純なので、この鉄則をなかなか実行できないでいる。軟弱な男だ。自分でも情けなくなる。
彼女を前にするとそれまでの鉄の決意が甘く溶けてしまう。それほどに彼女は魅力的だ。あの横顔、あのスタイル、あの髪の匂い、あの腰のあたり、悪戯な瞳、自分がどんどん負けていくのが解る。キスをしたら、もうお仕舞いだ。もう、彼女の言いなりだ。
彼女はもはや私の領地を大分占領してしまった。そして、今のところ失地回復する見込みはない。ますます、領地を奪われるばかりだ。
ここで、私は怒らなくてはなるまい。でも、怒る相手はこの私自身だから、これも困ったことだ。
「何か打つ手を考えないと大変なことになるぞ!」
と誰かが頭の中で叫んでいるけど、半ば負け戦なのでそれほど真剣にもなれない。
思えば、最初に出逢ったときに、先手をバシッと決められたのが、この敗因の大きなところだ。
彼女は「あなたが好きなのかどうか解らない。」
なんて、先制攻撃を仕掛けてきた。私は予想もしなかったミサイル攻撃に、いとも簡単にダメージを受けてしまった。あの上野の精養軒グリルでのことだ。
ランチを味わうところではなく、茫然と窓の外の木々が風に揺れているのを見ていた。
え!私を好きではないのか?私の心はただただ、狼狽していた。なら、いままでのメールのやりとりは何だったんだ!あの情熱的な甘い言葉、嵐の前のような夜はどこへ消えた!反撃する言葉も見あたらず、後ろ足を車に轢かれた猫みたいにずるずるしていた。それが最初の敗戦記録だ。
でも、私にも勝ち戦だってあった。一度目の勝ち戦は浅草ビューホテルでの出来事だ。
静まり返った通路の柔らかい絨毯を音もなく踏み、ダブルの部屋のドアの前で、心臓の高鳴りが煩いくらいに響く中、引き金を引くように、ドアをノックした。
その日の彼女は私のお気に入りの黒のミニ。あのタイトスカートだ。視界に入った瞬間、あの裾のラインはこれから幕が上がる劇場のカーテンのように魅惑的に私を迷わせた。迷わせたどころではなく、心の中では、半ば野獣となって、雄叫びの一つも上げたい衝動に駆られていた。はやる気持ちをかろうじて抑え込み、テーブルに腰を落とす。
「待った?」
「ううん。そうでもないわ。」
視線を絡ませながら、二人でワイングラスを傾けると、すぐに頭はアルコールで熱病のようになってしまった。それを知ってか、彼女は悪戯っぽく私に笑いかける。
「さっきから、ぼーっとしてどうしたの?」
あ~、彼女に余裕を持たせてしまった。このままではまずい。出だしから敗戦濃厚だ。何とかこの窮地を脱しないと。
「いや、いろいろ思い出しちゃってね。」
「何を思い出したのよ?」
「初めて君と会った日のこと。」
「私もときどき、振り返ることがあるわ。私たち、不思議な出会いだったしね。」
「そうなんだよ。だから、今、こうしていることが何か信じられなくて。」
そんな、どうでもいいことを言いながら、視線の奥のベッドをちらっと見て、誘うタイミングを計ろうとしたが、鼓動が激しくて、顔がほてるばかり―
「私のどこが気に入ったの?」
やや挑戦的な強い視線に圧倒されている。
ここは一歩間違えると、崖に落ちるな。そんな危険を孕んだ言葉だ。これは罠か?ミニスカートとは言えないな。でも、真実のかなり重要な部分を占めていることは事実だが。
「仕事に向かう姿勢に先ず惚れたんだよ。」
これなら、当たり障りがない答えだろう。我ながら上出来だ。
「なんだぁ~、それだけなの?」
むむ、これは彼女の期待を外したようだ。作戦変更。
「実は、本音を言うとね…」
そう言いながら、様子をうかがった。その瞳の表情に情熱的な何かが見え隠れしてる。なら、その方向に路線変更だ。
そう思った瞬間、彼女は足を組みなおした。その動きは極めてスローモーションで、私の脳裏に何度も繰り返して映し出された。目の前でミニスカートの裾が割れ、充実した太ももが姿を現し、ゆっくりとクロスしていく。あまりにも、刺激的な映像がクロスカウンターのように、ガツンと私の頭を直撃した。喉が急激に渇き、ワインをぐっと飲み干した。
「どうしたの?大丈夫?」
相変わらず、上から目線に少し苛立った。
「ベッドに行きたいの?」
甘い言葉がブラッドオレンジの唇の洞窟から漏れる。
その瞬間、目の前で劇場の幕が開いた。彼女は今、この夜に生まれ変わり、新しい文字盤の上で、最初の時を刻み始めた。
そこから先の記憶は曖昧だ。
その後、何度もキスをして、グラスを更に傾け、夜の底へと降りて行った。
やがて、二人のベッドは南の風を孕んだ帆船になった。
ブリーズを頬に受けながら、見上げれば南十字星がギラついていた。
「私、こんな幸せは初めてだわ。」
「私もだよ。」
何度も彼女を抱き、私は何度も彼女に抱かれた。どこを航海しているのかはわからなかった。ただ、
果実の香りが漂い、熱を帯びた風に帆がはためいていた。そして、見上げれば今にも落ちてきそうな、こぼれるような無数の星が煌めいていた。南へと向かっているのだろう。
「このまま、時間が止まってしまえばいいのに。」
私の胸に抱かれて、彼女はつぶやいた。
これは勲章のように輝いた戦勝記録の一つだ。生きていて良かった。そんな気にもなった。戦いはこれからだと思った。
そんなにセックスが上手かった訳ではない。きっと、私の優しさが彼女にうまく届けられたのだと思う。優しさは負けない武器だ。この優しさだけは自信がある。これは私の過去からの贈り物だ。
さて、どうしたら彼女にいつも勝てるだろう?
まあ、好きになったという大きなハンデはあるにしても方法はある筈だ。決定的な手段はある。でも、使えない。彼女を失ってしまってはもともこもない。もっとベッドで彼女を虜にしてやるか。でも、そんな人ではない。そんな女だったら好きにはならないだろう。
そして、夜が落ちてくれば、いつだって彼女は私の主役に踊り出る。奴隷となった私の頭の中でぐるぐると、堂々巡りが始まる。好きだけど、好きなんかじゃない。と言って、愛してるって言葉にすると、なんだか妙だ。こんなことを迷路の中で考える。でも、抜け道がいつまでたっても見つからない。すると迷路の上に彼女の笑顔が見える。
「どう、私の勝ちでしょ?」
その顔は輝かしくそう言ってる。自信たっぷりの顔だ。幾分、尊大な空気も流れている。私は憎々しく、その顔を見上げる。
でも、やっぱり、私の負けさ。君は広大な水槽のような時間の中を悠々と泳いでいる。私はそんな彼女を遠くから見ている。蜃気楼のような、不明瞭な空気のような時間が流れていく。私の好きな女は、やはり私の中にしかいないのだろうか?こんな想いが大波のように繰り返しやって来る。音のしない水槽の中で、ゆらゆらと光が揺らめくブルーの中で、ひっそりと愛し合ったらどんなに素敵だろうか?
私は初めて彼女を抱いた日を思い出す。
それはもう、1年前のことだが、同時についさっき起こったことなのだ。こんな時間は特別だ。時間なんて流れない。いつまでも私の隣にいる。夏の夕立の後の、水溜まりのように微睡んでいるだけだ。
夢の塊のような彼女はベッドの上で、不思議な果実になっていた。それは私の夢の形だった。
そして、彼女の輪郭に指で触れると、波のように揺めいて、夜の影を映していた。私は彼女の中に溶けて、消えていった。目眩がするほど、甘美だった。
私は生まれて初めて女を抱いたような気がした。真空地帯で抱いているようだ。私を取り巻いていた日常は、すっかりどこかに消えてしまった。彼女は私のエリーゼになろうとしている。この夜を迎えてから、今までの夜は背景になってしまった。彼女は、私の過去の夜の意味を変えようとしている。
こんな夜は何度もあった筈だが、と思い返しても真っ白なページしか見えてこない。何人の女を抱いたところで、いつだって、一人の女を完璧に抱いた試しはなかったような気がする。
といっても完璧に抱く?それは、恋愛に必要だろうか?過去に埋もれてしまった、どうしても思い出せない女たち。それは夢の記憶よりも儚い、それこそ白昼夢のような出来事だった。彼女たちは現在と切り離された孤島となって、過去の海へと航海を続けている。
でも、私達二人は、お互いに勝利を分かち合った日もあった。
忘れもしない、あの上野での一日だ。夢のようなひととき、というのはまさにこの日のことだと思う。確かに夢を見ていた。しかも現に。こんな経験は人生に何度あることか。世界は美しく輝き、目に入るもの全てが、今生まれたばかりだった。世界は新鮮で、そして、その素顔は可憐で、神秘的で、真理さえ顔を覗かせていた。
明るい太陽のもとで、私達は森の小動物のように無邪気に幸福だった。緑に染まった空気を吸い込んで、透明な日の光を浴びて、自然に帰って行った。二人の気持ちは完全に一つに重なり合った。それはその夜の二人よりも深く重なり合っていたのかも知れない。
翌日、駅で彼女を見送るときは夏の夕暮が迫っていた。夜がグラデーションのように静かに落ちようとしていた。その時ほど、彼女を愛している真実を胸の内に深く感じたことはなかった。
今よりもその時の私達は、本当の私たちだったような気がする。その時に二人の原型はでき上がったと思う。なによりも穏やかで、安息を感じさせる幸福が、波のように静かに私を浸していた。その波の音は今だって、時々聞こえることがある。いつだって、海を近くに感じられることは、幸福に違いないのだ。
本当のことを言えば、これは私の強がりでも、なんでもないことなのだが、彼女と別れようと思ったことがある。きっと、彼女には想像もできないことだろうと思う。しかし、事実だ。この感情は不思議なことに、いつも彼女を愛しているという感情と同居している。どこからこの感情がやって来るのか、自分でもわからない。そして、その感情に襲われたところでふっと消えていく。私の中の誰かの悪戯なのか、そうした自分が顔を出すことがある。これは私の戦勝記録に入るのだろうか?
ある日、彼女は不意に、言葉の奥に嫉妬を忍ばせて、
「ほかの女と寝たでしょう?」
突然、意表を突く。私はとっさに返事に窮する。ああ、文法を超えた表現が必要だ。
寝たとか寝ない、とかの一元的な返事では、それは私の返事ではないよ。男と女は違う。私は伝えたいと思うけれど、同じ動物同士でライオンとキリンがお互いに私と君は違うよ、なんて言ってもわかり合えるのだろうか。
でも、私の好きな、そして、愛してると言ってもいいほどの彼女が、他の男に抱かれたとしたら、私自身でも私の反応が心配だ。予測できないところがあるからだ。地球が逆転するかも知れない。そしたら、時間は昨日に戻ってしまうよ。それでもいいの?
男の生理で説明するのは簡単だけれど、そしたら、
「女だって、女の生理があるのよ。」
なんて言うだろうな。男と女がイーブンの関係だ、とは言っても測れるところでの話しではないか。本質的に違うじゃないか。そして、私は過去に遡って、他の女との夜をちらっと思い出してみることにした。
けれども、ほとんど何も思い出せないのだ。その中には完勝の女だって数人いた筈だ。けれども、何の感慨もない。さっぱりと忘れてしまった。
あるのは乾燥した砂漠のような事実。ただそれだけだ。不思議な静けさ、風さえ吹いていない。
自分でもなんだか寂しい。きっと、その女が彼女じゃなかったからだ。だから、自分が寂しくなったのだと思う。そして、哀しくもなった。
と言う訳で、私は他の女と寝た。言葉にするといとも簡単だ。ああ、そうか、で全てが終わりそうだ。しかし、この言葉は二人の世界を変形させていく。口に出した瞬間から、彼女は聞いた瞬間から、世界は歪みはじめる。一つの事実は二人を浸食し始める。なにやら、重い空気が垂れ込めて嵐が近くなる。暗雲が二人を襲って来る。感情が熱を帯びて、不吉な前兆があたりに立ちこめる。
まあ、この辺で私も男としての意地を少しは見せなくてはなるまい。でも、この少しのバランスがなかなか難しいところでもある。なにしろ、負け戦でのスタートなのだから、致し方ないことだ。あまり意地を張ったりすると命取りになってしまう。どちらにしても、彼女に私の魂は奪われてしまっているのだから。
でも、私はギリギリの意地は見せようと思っている。私に惚れてる女だっているんだ。この辺で私は急に気が強くなった。ひょっとしたら、彼女に勝てるのではないか?酔いの醒めないうちに、一つ勝負に出ることにした。
「ああ、寝たさ。それがどうかしたかい?」
自分でも意外な程の強気な口調に、我ながら惚れ惚れもした。そのセリフを言ったのは誰かと思ったほどだ。完全に我を忘れた感じだ。
「ああ、俺は男だなあ―」
なんて感慨に耽ったりした。ほんの一瞬ではあるが。
彼女は私をじっと見た。それは、永遠のように遠い記憶を連想させるほどだった。あたりに静寂が流れた。私はそのとき、夏の森を思い浮かべた。夕暮れになると蝉たちが、森が鳴いているように美しいハーモニーを奏でていた。この記憶は時々、私を不意に襲う。何故だか哀しい気持ちにさせる、あの美しい調べはどことなく郷愁を感じさせた。また、その郷愁が自分のどこにあるのかも不思議なことだが。
きっと、生きていること、それ自体が郷愁なのだろう。何故なら、生きているってことは、そのまま、実に哀しいことのように思えるからだ。毎日、人生を失い続けるってことは、哀しくなくてなんだろう。それこそ、生きていることの儚さではないだろうか。なんてことを思いながら、彼女の反応を待っていた。
「それじゃあ、私と一緒だ。良かった。」
唇から、ギラっとナイフが光った。
「え?」
私が先手を打ったのに、後手に回ってしまった。
目の前に深い崖が現れて、その深さにくらくらきた。とっさに、これはいつもの彼女のジョークに違いない。
そうだ、それだと、私は自分でも意外にほど陽気な声で
「うん、うん、わかってたよ。君なら、俺なんかよりずっといい男が目白押しだろうし、きっとその男のほうがよっぽど似合ってるよ。」
なんて、余裕さえ見せて、しかも無理して笑ってもみた。そのせいで顔が引きつったのが自分でも解った。でも、嘘だろ?
「本当?良かったわ。わかってくれて。今まで言うの、恐かったのよ。あなたって、大人ねえ。見直したわ。」
あれ?これは事実なの? マジかい? 今度こそ、本当に崖に落ちて行くのかと思うと、目の前が真っ暗になった。私は大人なんかじゃないぞ。そんな話は聞きたくない。早く、本当のことを言ってくれ。全くこの女は飛んでいる。ようやく、オアシスにたどり着いたかと思うと、これだ。ふざけすぎじゃあないか。
今までだって、こんなシーンは何度かあった。そんな劇場をいくつも持ってる彼女だ。今夜だって、そんな劇場の、一つの幕が開いたに違いない。そうだ。それに決まってるさ。でも、こんなところも彼女の魅力でもあったんだ。でも、今は早くそのふざけたシーンに幕を引いて、いつものように、にっと笑ってくれ。それでまた、仲直り。二人で大笑いしようじゃないか。
今夜の出し物はなかなかだったよ。危うく騙されるところだったよ。全くお前は油断のならない女だぜ。ところで、今夜はどんなふうに抱かれたいんだ。言ってみろよ。あのときは随分感じてたぜ。今夜もあれでいこうか?
「どうしたの?そんなに私が他の男と寝たのが嬉しいの?」
え!私は耳を疑った。そして、彼女の顔をじっと見た。まじかい?本当に寝たの?そんな馬鹿な。
好きな男ができるのは、まあ可能性としてはあるけど、寝るとなるとちょっと違うんじゃあないかい? ここに俺という男がいるんだぜ。まあ、こうみえても俺は自分でも十人並以上だと思っている。俺と寝たい女だって何人もいるんだ。でも、俺は寝ない。誰とだって寝るなんてことはしない。俺だってプライドはある。女なら誰にでも発情するもんじゃあない。俺の血を騒がせるのは、お前だけだ。
寝たって?ジョークだろ?確かにお前はいい女だ。あのタイトの黒のミニスカート、そして、匂うような色気のある顔、なかなかいいぜ。そりゃ解るよ。男だったら、黙っちゃいない。そのチャンスを虎視眈々と狙うさ。堪らない女、それがお前さ。今だって、お前を押し倒して、思いっきり抱いてしまいたい。後のことなんてどうでもいい。情熱で火傷したってかまわないさ。
そんなときだ、日常という奴がどこかにすっ飛んで、アフリカの地平が見えて来るのは。どこかで大きな音が響いたり、祭りの準備でもしてるようなざわめき、空気が色めきだって、すぐそこにドラマが迫って来る。そして、その舞台で俺達の人生が出逢うのさ。
ベッドは二人だけの客船になって南回帰線を越して、頭上に南十字星が輝くだろうさ。俺はお前が好きだ。俺だってこんな自分に気がつかなかった。俺が思ってるより、お前を愛している。ときどき思うんだ、こんな気持ちを世界の誰かに、大声で叫んでみたいって。でも、それが誰なのかは解らない。でも、お前以外の誰かにこの想いを知らせてみたい。そんな衝動に駆られる。
他の男と寝たって?嘘だろ?嘘と言ってくれ。お願いだから。
「私ね、一人の男じゃ満足できないタイプなのよ。」
そんなことは聞いてないよ。俺だって、他の女と寝たことはあるさ。でもね、それはあくまでも遊び、遊びなんだな。解るよね?
男ってそんなものなんだよ。生理的に違うんだよ。男はね。一人の女を深く愛したら、他には女なんかいらない。愛ってそうしたものだろう。
それじゃあ、なんだい?俺一人じゃあ満足できないって訳だ。そんなことをまさか本気で言ってる訳じゃあないだろ?
あ~、ここで俺は潔く、怒ったり、キザな捨てセリフでも言って、へこましてやりたいところだが、またしても顔は逆に、にたにたとだらしない顔になった。どうして、はっきりと言えないのだろう。情けない。全く。
「寝たって、冗談だろ?」
その瞬間、彼女の返答が急にそら恐ろしくなった。
すると、その恐怖は段々大きくなってくる。最初、軽く笑ってすまそうとしていたものが、その恐怖に圧されて、周り中に響くような大声で笑っていた。皆が驚いて振り向く。あ~あ―、哀しくなるほどの醜態だ。しばらく男をやめてやるか。深くて暗い崖の底が揺らめく。
生きてることって、なんでこんな切なくて哀しいんだろ。私は孤独だ。それなのに、彼女は…
もう、人生に愛想も尽きた。死んでやる。まあ、そう言ってもいられない。この悲劇的な局面を打開しなくちゃ。さて、どうしたものか。
どうして、こんなに彼女を好きになってしまったのだろう。最初はそんなでもなかったのに。
ある時、彼女の優しさに包まれて、そして、その大きさにほだされてしまった。そして、あっと言う間に彼女の中に落ちていった。ああ、これが彼女の罠だったのかも知れない。それから、彼女は私の夜空にいつも輝く星になった。
好きなんだな。そして、忘れられないんだな。私の部屋の何号室かはわからないけど、彼女が私に住み着いてからもう1年になる。逢えない時は、私は自分の中に住んでいる彼女に逢いに行く。
廊下を足音を忍ばせて、そっと歩いて行く。そして、彼女の部屋の前に立つ。大きな幸福の前に立ったように、私の気持ちは穏やかに凪いでいく。ここに彼女はいる。このドアを開ければ、その向こう側に彼女はいるのだ。
そのドアはやがて、海へと続いていくだろう。そして、海流の中の島にたどり着くだろう。その島で彼女にプレゼントした、あのブルーグリーンのピアスは南の太陽のしたで、どんなきらめきをみせるのだろう。
そして、あのピアスは風に揺れて、耳には聴こえなくとも、きっと繊細な響きをたてながら、彼女にだけそのメロディーを奏でるのに違いない。それは私の想いをのせて、私の見てきたものや、私の孤独を風のように囁くだろう。
「ねえ、そんなマジな顔してどうしたの?嘘よ。今までのは全部嘘。本気にしたの?あなたしかいないわ。私の愛する人は。わかっているのに。マジでそう思ったの?嘘に決まっているじゃないの。私があなた以外の男に抱かれると思ってるの?お馬鹿さんね、あなたって。でも、約束して、これからは私以外の女を抱かないで。だって、とってもあなたを愛してるんだもの。あなたを失いたくないの。」
私はへなへなとなって、ぐったりして、ぼうっとした。
またかい。今度はひょっとすると、なんて思った。でも、いい加減にしろよ。そんなに男をからかうなよ。そんなに男を見くびっていると、大変なことになるんだぞ。急に愛想が尽きて、他の女に走るかも知れないからね。そしたら、もう手遅れだ。いいのかい?
そして、勝負はお預けになった。彼女は私の彼女に戻った。愛してるってことは切なく、そして、哀しいくらいに幸せなことだ。俺はお前に惚れてるぜ。こんな自分が私は好きだ。ひょっとしたら彼女以上に好きかも知れない。でも、内緒にしておこうと思う。だって、彼女に嫉妬されるかも知れないからね。
長い髪、繊細な顔のライン、いつだって私を悩ませている、あのウエストのあたり、彼女を一度抱いてしまったら、もう逃げられない。彼女の虜になってしまう。
でも、そうなっても、心を奪われてしまってもいい。とっても幸せだ。
「彼女の悪戯っぽい瞳の中に私が映っている。私はその瞳の中の自分に話しかけた。
「幸せかい?」
彼は軽くウインクをして見せた。私もウインクを返した。
「ウインクしなくたって、わかってるわよ。あなたが私を愛していること。」
彼女は微笑んだ。」
「ねえ、私、これからどんなふうに、あなたに抱かれたいと思ってるか、解る?」
わかってるさ。もう、あれから一年になる俺達じゃあないか。
上野の森に夕暮れが迫って来た。初夏の爽やかな風が頬を通り過ぎて行く。これから夜が静かに幕を開く。歩きながら、彼女を見つめた。
西の空の星に明かりがいくつか灯った。夜がそこまでやって来た。これから、彼女に教えてあげるんだ。どんなにあなたを愛しているのか、そして、その情熱がどんなに俺を苦しめているのかを。でも、もうこの想いは言葉では語れない。
だから、ベッドの上で優しく、激しく彼女に教えてあげようと思う。あなたのいない人生がどんなに寂しいか、あなたなしでは生きていけないかを。
とっても、愛してるんだ。