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ふりかえれば、い぀も分岐点⑀ペヌロッパで芋たモンテッ゜ヌリの原颚景

    パリの歎史的な建造物の重い扉を、私はそっず開けたした。
    するず、すヌっず涌しい颚が吹き蟌んできお、熱く高たった私の心を、ほど良く冷たしおくれたのです。

    そこは、L'Institut Supérieur Maria Montessori。
    モンテッ゜ヌリ教育の教垫逊成機関の䞀぀でした。
    倜の建物の䞭で、教員になるべく孊ぶ人たちの目は、きらきらず茝いおいたした。
    それを芋た瞬間、私は思ったんです。
    「ここで孊びたい」

    今回は、倖務省に倖亀官ずしお出向し、圚仏日本囜倧䜿通に3幎間勀務した間に、私が出䌚ったモンテッ゜ヌリ教育の話。
    そしお、その3幎間が、いたの「かち旅」の始たりになるずは、圓時の私は想像もしおいなかったのです。

    第1話から読んでくださる方はこちらから
    「ぐっち回顧録①フランスでモンテッ゜ヌリを孊んだ私が、実は20代で少幎院にいた理由」


    「珟地校か、日本人孊校か」 ─ 芪ずしおの葛藀

    パリでの生掻は、私にずっお特別な3幎間でした。

    最初は、双子を珟地校に通わせたいず考えおいたした。
    フランスで生きる子どもたちには、フランスの蚀葉ず文化を盎接䜓隓しおほしい。そう願っおいたのです。

    でも、珟実は厳しいものでした。
    保護者ずしお教垫や孊校ず䞻にやり取りするのは、劻。
    劻は、私ず違っお枡航前の語孊研修を受けたわけではなく、コミュニケヌションに䞍安がありたした。
    さらに、通孊はメトロでの長時間移動に加え、埒歩の時間も長い。
    日本ず比べお決しお治安がいいずは蚀えないフランスで、毎日小さな子どもの手を匕いお劻が孊校に送り迎えを続けるのは倧倉でした。

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    悩んだ末、双子は日本人孊校に通うこずに決めたした。
    この決断に぀いおは、い぀か別の回でゆっくり曞きたいず思っおいたす

    ただ、幞いなこずに、週末は子どもたちがモンテッ゜ヌリ教育を受ける機䌚がありたした。
    それを芋おいるうちに、私の䞭である気持ちが芜生えたした。

    「日本にはない教育を、自分も孊びたい」

    そう思ったのが、すべおの始たりでした。

    「ここに通いたい」 ─ 第䞀印象が決め手

    いく぀かの教垫逊成機関を芋孊したした。
    でも、最終的に通うこずに決めたのは、前述の「L'Institut Supérieur Maria Montessori」でした。

    決め手は、第䞀印象です。

    パリの歎史的な建造物。
    䞭に入った時の、すヌっず涌しい颚。
    そしお䜕より、すでにそこで孊んでいる人たちの目が、茝いおいたこず。

    仕事終わりの倜、私ず同じように建物に集たり、モンテッ゜ヌリ教育を孊ぶ倧人たち。
    私は、その姿を芋お、なんだか久しぶりに孊生に戻ったような気持ちになりたした。
    倧孊生に戻ったような、新鮮な感芚。

    「ここで、もう䞀床孊んでみたい」

    40歳近くになっお、もう䞀床孊びの堎に戻る。
    それは、想像しおいた以䞊にワクワクするこずでした。

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    「レゞリ゚ンス」 ─ 法務教官時代に欠けおいたもの

    3幎間の孊びの䞭で、私が最も感銘を受けたのは「レゞリ゚ンス」の醞成でした。

    レゞリ゚ンスずは、回埩力・困難を乗り越える力のこず。
    ただ単に「耐え忍ぶこず」ではなく、困難や障害を「前ぞ進むための跳躍の理由」に倉える゚ネルギヌです。

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    ここからが、私にずっおの衝撃でした。

    モンテッ゜ヌリ教育では、子どものレゞリ゚ンスは、蚀葉で盎接教え蟌むこずはできない、ずされおいたす。
    適切な環境を通しお、子どもが自然に身に぀けおいくものなのです。

    䟋えば、こんな具合です。

    【0〜3歳】
    子どもサむズの䜎い棚や、自分で掃陀ができる道具を甚意する。
    転んで自分で立ち䞊がろうずしおいる時、すぐに助け舟を出さない。
    「あなたにはできるず信じおいるから埅぀」ずいう、倧人の沈黙のメッセヌゞが、子どもの感情的なレゞリ゚ンスを育おる。

    【3〜6歳】
    うたくはたらないシリンダヌや、ぐら぀く塔のような「真実を䌝える教具」を甚意する。
    これにより、うたくいかないこずが「倧人からの評䟡や批刀」ではなく、「単なる情報」「やり盎すための方向性」であるず孊ぶ。

    【6歳以䞊】
    すぐに答えを出さず、子どもが䞀人で考え続ける時間を保蚌する。
    仲間ず議論し、困難なアむデアを考え抜く時間を持぀。

    そしお、すべおの発達段階に共通する、マリア・モンテッ゜ヌリの蚀葉がありたす。

    「子䟛が自分でできるず感じおいる仕事には、決しお手を出しおはならない」


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    この蚀葉を孊んだずき、私は、匷烈に思い出しおいたした。
    法務教官時代に、私が出䌚った非行少幎たち。

    圌らは、過酷な人生を送っおきた面はある。
    でも、最倧の問題は、レゞリ゚ンスが身に぀いおいなかったこず。
    だから、䞖の䞭に適応できず、非行を繰り返しおいた。

    「圌らが子どもの頃に、こういう環境があったら、圌らはどうなっおいただろう」

    パリの教宀で、私は、自分の人生の䌏線が回収されおいく感芚を味わっおいたした。

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    「ガむド」ず「芳察」 ─ モンテッ゜ヌリの倧人芳

    もう䞀぀、衝撃的だった蚀葉がありたす。

    モンテッ゜ヌリ教育では、教垫のこずを「ガむド」ず呌びたす。
    教える人ではなく、案内する人。

    そしお、ガむドの最も重芁な実践は、子どもを泚意深く「芳察」するこずです。
    子どもが今、どのような発達段階にあり、どのような掻動を必芁ずしおいるかを芋極める。
    そしお、子ども自身の内なる意欲に沿った掻動ぞず結び぀ける。

    孊習は、子どもの内郚から生じるもの。
    ガむドは、子どもが「自分自身を教える」こずができるように導く。

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    これは、私が法務教官ずしお無意識に信じおいた䜕かず、深く繋がっおいたした。

    第1話で曞いた、A少幎ずの畳の䞊のにらみ合い。
    あの時、A少幎が自ら「すみたせんでした」ず頭を䞋げた瞬間。
    あれは、たさに「子ども自身の内なる気づき」の力だったのではないか。

    AMI囜際モンテッ゜ヌリ協䌚のトレヌナヌ、モリヌ・オショヌネシヌは、こう語っおいたす。

    「子䟛には、自分自身の教育においお最も胜動的な䞻䜓ずなる力が、内面に備わっおいる」
    「この気づきが、倧人たちの䞭に非垞に倧きな倉化を匕き起こし、圌らの思考方匏党䜓をシフトさせる」

    人生芳が倉わる、ず蚀われる孊びでした。
    そしお、本圓にその通りだったず思いたす。

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    倚様な文化を超える、孊びの時間

    教員逊成の珟堎には、䞖界䞭の受講生が集たっおいたした。
    それぞれが、異なる文化、背景、歎史を持っおいる。

    ある時、こんな印象的な時間がありたした。

    トレヌナヌが受講生に、自分の郚族や母語に由来する「自分にずっお意味のある歌」を遞び、手曞きで曞き出すよう促したのです。

    そしお、集められた歌は参加者党員で共有され、誰もが自分のクラスでその歌を䜿えるようになりたした。
    さらに、他の受講生が自分の教宀で歌を教える時に、背景にある「物語」や文化的な意味合いも含めお子どもたちに䌝えられるよう、お互いに歌のストヌリヌを曞き合ったり、質問し合ったりしたのです。

    教育の本質ずは、こういうものなのかもしれたせん。
    理論を孊ぶだけでなく、自分の文化や物語を持ち寄り、それを次の䞖代に手枡しおいく。

    その営みに、私も加わっおいたした。

    3幎間がんばった、その蚌

    私の堎合、通信制の特別枠で孊ばせおいただきたした。
    だから、日本でいう教員逊成詊隓のような正匏な詊隓はありたせんでした。

    でも、3幎間がんばったずいうこずで、特別にAMIのディプロマ修了蚌・資栌蚌明曞が亀付されたした。

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    「なかなかこういう受講者はいないですよ」

    そう蚀っお、関係者の方々がずおも倧切に扱っおくださいたした。
    私は、本圓に嬉しかった。

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    ディプロマを手にした時、私の䞭に、はっきりず倉化が起きおいたした。
    パリに来た時の、倖亀官ずしお勀務するだけの私ずは、違う私になっおいた。

    「教育ずは䜕か」
    「子どもずは䜕か」
    「倧人の圹割ずは䜕か」

    その答えを、私は持っおいたした。

    垰囜埌 ─ 想像ず違う未来

    3幎あたりのフランス生掻を終え、私は日本に垰囜したした。

    法務教官に戻り、ある少幎鑑別所に配属。
    管理職ぞの昇進も決たり、私は新しい䞀歩を螏み出す぀もりでした。
    パリで埗たものを、日本の子どもたちに還元したい。
    そう、心の底から思っおいたのです。

    でも、珟実は ─ 私が想像しおいたものずは、違いたした。

    少幎鑑別所で出䌚う、閉塞感を抱える少幎たち。
    枡仏前ずは違う、管理職ずしおの圹割ぞの葛藀。
    せっかく習ったモンテッ゜ヌリ匏の環境を、どこでどう䜜ればいいのか。
    私は、答えを芋぀けられないたた、日々が過ぎおいきたした。

    私の子どもたちもたた、葛藀しおいたした。
    パリで自䞻的な孊校生掻を送っおいた双子は、日本の公立孊校に転校した埌、なかなかなじめない郚分があったのです。
    担任からは、「協調性がない」「マむペヌスで呚りに合わせる気持ちに乏しい」ず指導されるこずも倚かった。

    日本ずフランスの教育珟堎の違いを、家族みんなで実感する日々でした。

    それでも、私は心のどこかで、ずっずこう思っおいたした。

    「モンテッ゜ヌリ教育を、自分なりの圢で実践したい」

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    「これはいい」 ─ テレビが映した、未来の皮

    ある日、私は、䜕気なくテレビを芋おいたした。

    そこには、こんな番組が流れおいたした。
    「デゞタル時代にあっおも、朚のぬくもりを忘れない朚補玩具職人」

    画面に映る、ぬくもりのある朚補のおもちゃ。
    それを倧切に䜜り続ける職人さんたちの手。
    それで遊ぶ子どもたちの、茝く目。

    私は、思わず声に出しおいたした。

    「これや」

    その瞬間、私の䞭で、䜕かが繋がりたした。

    パリで孊んだモンテッ゜ヌリ教育の理念。
    子どもの内偎から育぀力を信じる、教具のあり方。
    そしお、デゞタル時代だからこそ求められる、本物の手觊り。

    これらが、䞀本の線で繋がっおいく感芚でした。

    「これが、自分のやりたいこずかもしれない」

    「かち旅」の最初の皮が、私の䞭に蒔かれた瞬間でした。

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    パリの3幎間が、いたの私を䜜った

    振り返っおみるず、パリの3幎間は、私の人生の䞭で最も濃密な孊びの時間でした。

    それは単に、モンテッ゜ヌリ教育の知識を埗たずいうこずではありたせん。
    「子どもずどう関わるか」「倧人ずしお䜕を信じお、䜕を埅぀か」ずいう、人生芳そのものを曞き換えおくれた時間でした。

    レゞリ゚ンスを育おる環境。
    ガむドずしお芳察する県差し。
    子どもの内偎にある力ぞの信頌。

    これらすべおが、いたの「かち旅」の根っこになっおいたす。

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    圓時お䞖話になったAMIからは、今もメルマガが届きたす。
    パリで䞀緒に孊んだ仲間たちは、䞖界䞭で、それぞれの堎所で、それぞれの圢でモンテッ゜ヌリ教育を実践しおいたす。
    私も、その䞀人ずしお、日本で「かち旅」を続けおいたす。

    「玔粋無垢だった倩䜿のような子どもたちを、決しお獣にしおはならない」

    第1話に曞いたこのメッセヌゞは、パリの3幎間で、私の䞭でより深く、確かなものになりたした。


    このnoteは、連茉「ふりかえれば、い぀も分岐点」第5話です。

    【党話マップ】
    ①フランスでモンテッ゜ヌリを孊んだ私が、実は20代で少幎院にいた理由
    ②「お前、少幎院に入るぞ」ず蚀われた悪ガキが、本圓に少幎院に入った話
    ③印鑑すら持っおいなかった瀟䌚人初日、運呜の劻ず出䌚った話
    番倖線①あわや「成田離婚」
    ④双子のパパになった日
    番倖線②性栌も奜みも党然違う双子
    ⑀ペヌロッパで芋たモンテッ゜ヌリの原颚景本蚘事
    番倖線③5幎越しのパリ、7幎かけお取り戻すフランス語の旋埋
    ⑥少幎院の教官だった私が、フランス語れロから1幎で倖亀官ずしお枡仏した話
    ⑊管理職昇進研修で前向きになれた話
    ⑧「こんなずころに来ずうはなかった」 — 想像ず違う未来が始たった日
    ⑚想像ず違う未来ず絶望
    ⑩ラストダンゞョンでの勀務、9月の萜ずし穎
    ⑪救急搬送され、ようやく玠盎になれた私
    ⑫法務教官ずしお茝いた、最埌の2幎
    以䞋、毎週日曜朝7時に続きたす

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    元法務教官 →フランスでモンテッ゜ヌリを孊び、珟圚知育玩具店「かち旅」を運営。 双子の父。 非行少幎ず向き合った日々ず、モンテの孊びをかけ合わせお『おうちでできる声かけ』を綎りたす。 連茉 朚曜21時今日から䜿えるモンテの声かけ

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