
短編小説「居酒屋三亭・牛すじ肉の煮込み」
ーー今宵、居酒屋の人々が織り成す優しい時間を。少しだけ足を止めて、暖簾をくぐってみませんか?ーー
私鉄の駅を降りて徒歩五分。歓楽街の喧騒を背に、住宅街の静寂が始まる境界線に、その一軒はあった。午後五時、店頭の白い提灯に火が灯る。まだ日が沈むには早い空の下、「四季の料理 三亭」という文字が夕闇の予感の中にぼんやりと浮かび上がった。連日の熱気がアスファルトに残る、夏の夕暮れ時である。
「あ、やってるやってる!」
キャバ嬢の玲が、弾んだ声を上げた。隣を歩く三木谷も、つられて柔らかな笑みを浮かべる。玲の嬉しそうな声には、不思議と周囲まで晴れやかにする力があった。
三木谷は60手前。24歳の玲と並んで歩けば、親子に見られてもおかしくはない。今日の玲は、襟付きのカーディガンにジーンズという、年相応のラフな装いだ。着替えは店ですればいい。対して三木谷は、上質なポロシャツにスラックス。ブランド物ではあるが、隠しきれない年齢が落ち着いた渋みとなって滲んでいた。業界では少しは名の知れた、金属部品メーカーを経営している。
膝下まで届く暖簾をかき分けて、玲が引き戸を開けた。
「いらっしゃい」
出迎えたのは店主の三亭と、着物姿のちぃちゃん。三亭が包丁を握り、ちぃちゃんが酒を運ぶ。二人の呼吸は、長年連れ添った夫婦のようにも見えた。
三亭は50代前半。作務衣がよく似合う短髪で、すらりとした長身が印象的な男だ。一方のちぃちゃんも、涼しげな目元が美しい。二人は似通った年齢だが、夫婦ではないらしい。もっとも、この店の常連に、その関係を無作法に詮索するような野暮天はいなかった。
「二人とも、珍しく同伴かい?」
三亭のにやりとした問いに、三木谷は静かに首を振る。
「駅前で偶然会っただけさ。私がキャバクラに行かないのは、三亭さんだって知っているだろう」
「三木ちゃんは、いくら私が誘っても来てくれないもんね」
玲が唇を尖らせた。本気で怒っているわけではないが、言葉の端々に少しの寂しさが混じっている。
「ははは、いまさらキャバクラで遊べるような歳でもないよ」
苦笑を浮かべ、三木谷はカウンターの定位置に座り、隣に玲が腰を下ろした。店内は、入って左手にテーブル席が1つ、右手に小さな小上がり。カウンターはわずか6席しかない。遅くなればすぐに満席となるため、常連は皆、この特等席を狙って早足でやってくるのだ。お品書きはない。ホワイトボードに躍る手書きの「おすすめ」と、馴染み客だけが知る定番の酒肴があるだけである。
「飲み物は、三木ちゃんがホッピーで、玲ちゃんはバイスサワーでいいかな?」
三亭の問いに、二人は迷わず頷く。この店は常連を過剰にもてなさない。代わりに、誰に対しても等しく細やかな気配りを忘れない。それが心地よかった。盃を交わせば、誰もがただの「呑兵衛」になれる。そんな空気が、この店には満ちていた。
ちぃちゃんが厨房から出てきて、二人の前にグラスをことり、ことりと置いた。バイスサワーは、焼酎を鮮やかな紫蘇の香りで割り、ホッピーは麦芽の芳醇な風味で割る。二人は好みの量で注ぎ足し、乾杯した。
三亭が焼き網から小鉢へ移したばかりの品を、カウンターに差し出す。
「今日のお通しは、夏野菜の素焼きだよ」
小鉢には、焦げ目の香ばしいピーマンが半分、ししとうが二本、そして縦に薄切りされたナスが一枚。傍らには、酒で伸ばして炙った特製の味噌が添えられていた。
「まずはそれぞれ、一口目は塩で素材を味わって。二口目はその味噌を試してみて」
三亭の説明を聞くだけで、喉が鳴った。二人は申し合わせたようにピーマンに塩を振り、半分を噛み締めた。口中に広がるのは、心地よい苦味と、生命力溢れる青臭さ。噛むほどに大地の甘みが溢れ出す。
続いて、焼き味噌を乗せて運ぶ。ピーマンの瑞々しい苦味に、味噌の凝縮された旨味と香ばしさが重なり、味わいに奥行きが生まれる。塩が素材の輪郭を際立たせる「動」なら、味噌は素材を優しく包み込む「静」であった。
この味噌をナスに塗ったら、さぞかし美味いだろうな。三木谷はそう独りごちながら、ホッピーを喉に流し込んだ。ビールの代わりではない、ホッピー特有の軽やかな香りとキレが、野菜の余韻を綺麗に洗っていく。
ふと横を見ると、お喋りな玲が口を閉ざしていた。普段なら、美味いものを食べた瞬間に感嘆の声を上げるはずなのに、どうしたことか。
見れば、彼女は真剣な表情でししとうを噛み締めている。玲は若いわりに味覚が鋭く、食の好みもどこか渋い。三木谷も、共通の友人である徳田とここで彼女を絶賛したことが何度もある。
玲が、ぽつりと呟いた。
「私ね、小学生の時は毎年夏休みに、愛知のおじいちゃんとおばあちゃんの家に遊びに行くのが大好きだったんだ。おじいちゃんが畑で作った野菜を、おばあちゃんがこうして焼いてくれて。子供なのに、肉より野菜が好きだったのはそのせいかな」
「今は、行っていないのかい?」
三木谷の問いに、玲は小さく首を振った。
「私が中学生になる前に、両親が離婚しちゃって。おじいちゃんたちは、お父さんの親だから、なんとなく行きにくくなっちゃってさ」
「でも、お祖父さんたちにしてみれば、玲ちゃんは今でも大切な孫だろうに」
三木谷の言葉を遮るように、玲は言葉を重ねた。
「今はまだ、行けないよ。この仕事をしてることは隠さない。でも、三年も働いてNo.1も獲れないようじゃ、赤坂で勝負するっていう夢も遠い。そんな中途半端な自分を見せたくないんだよね」
「玲ちゃんみたいないい子でも、厳しい世界なんだな」
「そりゃあ大変だよ!同伴のノルマに追われて必死にお客さんを探したり、イベントでどれだけ高いシャンパンを空けてもらえるか競ったり……戦いだもん」
玲の声が、急に明るさを取り戻した。それが無理に作った空元気であることを察し、店内の空気が少しだけ、ちくりと痛んだ。彼女はまだ24歳なのだ。
「玲ちゃんは、そういう『営業』はしないのかい?」
三亭が、包丁を止めて静かに聞いた。
「私は、お客さんに楽しく飲んでもらいたいだけなの。連絡だって、近況を聞いたり愚痴に付き合ったり。せっかく高いお金を払って飲みに来るのに、女の子におねだりされたら冷めちゃうじゃん。だから、私を気に入って月一で会いに来てくれる人はいるけど、それじゃあ数字は上がんないんだよね」
玲は自嘲するように笑い、バイスサワーを煽った。
三亭は、厨房の奥で湯気を上げる大鍋の蓋を覗き込み、深く一度だけ頷いた。弱火にしていたコンロを、そっと消す。
「あー、話してたらお腹空いちゃった!三亭さん、今日のおすすめは?」
「いい頃合いだ。三木ちゃんも、同じものでいいね」
「私に拒否権なんてないんだろう?」
三木谷が苦笑する間に、カウンターへ一皿が置かれた。
じっくりと煮込まれた肉に、ぷるぷるとした琥珀色の筋が寄り添い、こんにゃくと共に濃密な味噌の衣を纏っている。天盛りの刻みねぎが、全体の色彩を引き締めていた。
「牛すじ肉のどて煮風だ。筋の部分はゼラチン質が溶け出している。好みで、この七味と粉山椒を振ってみて」
三亭から手渡された小瓶を使い、玲は肉に箸を入れた。驚くほど容易く、繊維が解けていく。これほどまでに硬い部位を、どれほどの時間をかければ、これほどまでに優しくできるのだろうか。
「……!」
口に運んだ瞬間、八丁味噌のコク深い味わいと、牛肉の強烈な旨味が爆発した。筋の部分は噛む必要すらなく、舌の上で官能的に溶けていく。
どこか、懐かしい。牛肉の旨味を極限まで凝縮し、時間をかけて練り上げたような複雑な味わい。味噌の甘辛い余韻が、七味と山椒の香辛料に負けることなく、力強く舌の上に残った。
ああ、美味しい。
「こりゃあ美味いな。三亭さん、これをここまで柔らかくするには、相当な手間だろう?」
三木谷もまた、箸を止めずに聞いた。
「まずは精肉店で塊から余分な脂や膜、骨の欠片を丁寧に削ぎ落とす。その後、店で牛すね肉、ねぎの青い部分、生姜と一緒に、水から火にかけるんだ。沸騰したら弱火にして、3時間。アクを取り続けながら、竹串がスッと通るまで茹で上げる。下処理だけでそれだけかかる。そこから調味料を入れて、落とし蓋をしてさらに1時間。煮汁がとろりと輝くまで、目を離さず煮詰めていく。
火を止めたら、一晩寝かせるのが最後の仕事だ。熱が冷めていく過程で、肉の繊維の奥深くまで味噌のコクが染み込んで、翌日にようやくこの『深み』が出る。それが、この煮込みだよ」
「……凄い手間だね」
「見た目は地味だが、中身は誤魔化しようがないからね」
三亭が誇らしげに語った。その自慢には、職人としての矜持が宿っている。
「思い出した。昔、おばあちゃんが作ってくれたのもこれだ。私たちが着く夜に合わせて、ずっと前から用意してくれてたんだ」
「八丁味噌は、煮込みにこそ真価を発揮するから。玲ちゃんのおばあちゃんも、手間を見せないように前日から仕込んでいたんだろうね」
三亭が少しだけ間をあけて続けた。
「野菜だって同じさ。私が仕入れる野菜も、いい仕事をする農家が時間をかけて育てたからこそ、これだけの味がするんだ」
三木谷が深く頷く。
「この煮込みも、手間を惜しまず時間をかけるから、ヒレやサーロインに負けない輝きを放つ。料理も、商売も、ただ相手に喜んでもらいたいという一念で、時間をかける。何事も、それが基本じゃないかな」
三亭は背を向けると、冷蔵庫から「越乃景虎」の瓶を取り出した。ちぃちゃんが差し出したグラスに注ぎ、自らも口に含んだ。ちぃちゃんもまた、瓶ビールをコップに注いで喉を鳴らす。
「手間を惜しまず時間をかける、か」
「私も昔は営業でね、上司から『押せ押せ』と叩かれたが、不本意だったな。私はじっくりと、信頼という名の時間を積み重ねたかったからね」
三木谷が満足げに笑い、ホッピーを飲み干した。
三亭さん、ずるいなあ。玲もまた、微笑と苦笑を混ぜたような表情で目を閉じた。私も、今まで通りでいいのかもしれない。手間を惜しまず、時間をかけて、自分らしい「営業」を続けていこう。
「三亭さん、私、おじいちゃんとおばあちゃんに会ってくるよ」
玲の瞳に、迷いのない光が宿っていた。
「それなら、この煮込みに使った味噌を分けてやるよ。芳光の合わせ味噌だ。旨みの深さが桁違いで、煮込みにもよく合う。愛知のメーカーだし、お土産にはぴったりだろ」
「うわぁ、ありがとう!」
「よし、じゃあ私は会社の連中を連れて、明日にでも玲ちゃんの店へ乗り込もう。社長命令で、全員玲ちゃん指名だ」
その宣言に、三木谷以外の全員が目を見開いた。
「最近は歳を考えて控えていただけだ。キャバクラが嫌いなわけじゃない。三亭さんも明日は定休日だろう。奢るから、強制参加だぞ」
三木谷がにやりと笑う。
「えー、三亭さんが来るなんて激レアじゃん!ドレス、新調しなきゃ!」
「いや、私は定休日でも仕込みがあるし……」
事態の急展開に、三亭が助けを求めるようにちぃちゃんを振り返った。
「たまには、さんちゃんも羽を伸ばしてきたらいいんじゃない?」
ちぃちゃんは満面の笑みで答えたが、その涼しげな目元だけは全く笑っていなかった。
「行くぞ!」「行こうよ!」「どうぞ、行ってらっしゃい」
「いやあ、私は……」
今宵、「小料理屋 三亭」の夜は、朗らかな笑い声と共に、ゆっくりと、だが鮮やかに更けていった。
了
居酒屋三亭②
居酒屋三亭①