
短編小説「居酒屋三亭・初夏のてんぷら」
ーー今宵、居酒屋の人々が織り成す優しい時間を。少しだけ足を止めて、暖簾をくぐってみませんか?ーー
私鉄の駅を降りて徒歩5分。歓楽街を抜けて住宅街へ入る手前に、一軒の小料理屋がある。午後五時、店頭の白い提灯に火が灯り、まだ日が沈むには早い時間に「四季の料理 三亭」という文字が浮かび上がった。初夏の夕暮れ時である。
その灯りを見て、さくらの足は少し早くなる。営業帰りのパンプスは歩きにくいことこの上ないが、店に入れば少しは足を休められる。アラサーを過ぎても仕事に追われる日々を「痛々しい」と自嘲する自分もいるが、少しでも蓄えをせねばという強迫観念に近い思いは、どうしても振り切れなかった。
また鬱で休職すれば、次こそ復帰できる保証はない。その前に備えをしておかなければ。そんな不安が、常に彼女の背中を突いていた。
膝下まである二枚の暖簾をくぐり、慣れた手つきで引き戸を開ける。店内は左手にテーブル席が1つ、右手に小上がりがあり、カウンターは6席しかない小ぢんまりとした造りだ。開店直後ということもあり、先客はいない。常連たちはマナーをわきまえた粋な飲み手ばかりだが、今日ばかりは一人がありがたかった。今の自分では、他人の明るい気配に耐えられそうになかったから。
「いらっしゃい、さくらちゃん。今日は早いね」
店主の三亭が、柔らかな笑顔で迎える。50代前半、作務衣の似合う短髪で、すらりとした長身の男だ。
「あら、今日は直帰かしら?」
着物姿の女性がカウンターの奥から顔を覗かせた。ちぃちゃんと呼ばれる涼しげな目元をした品のいい女性だが、三亭との仲を知る者はいない。似通った年代の二人の距離感を測るのは、この店では野暮というものだ。
「そうなの。一日中歩き回っていたから、脚がパンパンだわ」
自嘲気味に笑ってカウンターへ腰を下ろし、足元にバッグを置いた。この店に固定のメニューはない。ホワイトボードに躍る手書きの「本日のおすすめ」と、常連だけが知る定番の酒肴があるだけだ。鬱と診断されてから医師には飲酒を控えるよう釘を刺されていたが、この2年間、金曜日のこの時間だけは自分への許しとして通い続けている。元より、彼女はそれほど量を嗜む方でもない。
「何か、訳ありかな?」
三亭が問いかける。彼の視線は、単なる観察を超えて、積み重ねてきた人生経験からくる深い洞察に満ちている。さくらの病状を知っているのは、この店では三亭と女将の二人だけだ。
「うん……季節の変わり目って、自分だけが取り残されている気がするの。世間が活気づけば活気づくほど、私だけが四季の色を奪われて、何をやっているんだろうって。それで少し、気分がね」
三亭は少しの間を置いてから言った。
「今日はてんぷらがいいよ。さくらちゃん、日本酒はいけたよね」
「ええ、少しなら」
「よし。ちぃちゃん、彼女に一本出してあげて」
「あれでいいのね」
ちぃちゃんが日本酒用の冷蔵庫から一升瓶を取り出し、徳利へと移した。おちょこと共に供されたのは、お通しの小芋の煮っ転がし。新じゃがを皮付きのまま、醤油と砂糖で照りが出るまで煮詰めた逸品だ。冷めていても味が凝縮されていて旨い。
「長野の『真澄』だよ。すっきりとした辛口で、食中酒として料理を引き立てる名脇役だ」
三亭は解説しながらも手は休めず、てんぷらの仕込みを進めている。ちぃちゃんが油の温度を見極め、狭い調理場を鮮やかな連係で動いていた。
さくらがおちょこを唇に運ぶと、その香りの穏やかさに驚いた。凛とした佇まいでありながら、料理の味を邪魔しない絶妙なバランス。これなら、どんな繊細な味にも寄り添ってくれるだろう。
厨房では、薄く衣を纏ったタネが、滑り込むように油の中へと消えていく。真澄を二口ほど含んだところで、不意に強烈な空腹を覚えた。香ばしい油の香りが、眠っていた食欲を揺り起こす。天紙が敷かれた小皿に、最初の一品が置かれた。
「はい、まずは海老だ。他にも種類があるから、まずは一尾。塩とつゆ、どちらにする? 両方試してもいいよ」
三亭の低く落ち着いた声が、さくらの強張った心を解きほぐしていく。
「じゃあ、欲張って両方いただこうかしら」
三亭が頷き、塩とつゆを並べる。さくらはまず塩をちょんと付け、熱々を齧った。小ぶりながらもぷりっと身が締まり、凝縮された甘みが弾ける。これを食べなければ、てんぷらの幕は上がらない。添えられた頭の殻をバリバリと噛み砕けば、濃厚な海老の香りが鼻を抜けた。もう一尾食べたい、という未練を断ち切るように、二品目のアスパラガスが差し出される。
「穂先は香りが強くて柔らかいから塩で。根元は瑞々しさが勝るから、つゆが合うよ」
三品目の衣を整えながら、三亭が目を向けずに指南する。この繊細なこだわりは、一体どこで培われたものなのか。さくらはいつも感心してしまう。彼の勧めに間違いはないのだ。
穂先を塩で頂くと、じゅわっと溢れ出す水分とともに、若々しい青い香りが広がった。ああ、もう夏がそこまで来ている。根元のしっかりとした歯応えをつゆで受け止めると、出汁の旨味と野菜の甘みが完璧に調和した。少しずつ、大切に咀嚼する。
そこへ真澄を流し込む。油をさっぱりと流し去りながらも、不思議とアスパラの余韻だけは舌の上に残った。辛口の酒はすべてを洗い流すものだと思っていたが、この酒は素材の輪郭をより鮮明に描き出している。
「はい、三品目」
置かれたのは、キスの天ぷらだ。初夏の代表格。産卵を控え、身がもっとも厚くふっくらとする時期。
この潔い白身には、塩以外に考えられない。サクッとした衣の先で、雪のように白い身がホロホロと解けていく。淡白でありながら気品のある甘みは、まさに初夏の醍醐味そのものだった。
「本当に……綺麗で、甘い味ね」
思わず漏れた言葉に、三亭が応える。
「夏、だね」
「ええ、夏だわ」
「和食は四季を切り取るものだが、てんぷらは季節そのものを食らう料理なんだよ」
さくらは悟った。三亭が今日、てんぷらを勧めた理由を。停滞していた彼女の心に、味覚を通して季節の風を吹き込もうとしてくれたのだ。この店主には、どうしても敵わない。ふふ、と微かな笑みをこぼして徳利を傾けたが、すでに空になっていた。
「さくらちゃん、もう一本いく?」
ちぃちゃんが絶妙なタイミングで問いかける。その声には、彼女の体調を気遣うような、優しく控えめな響きが含まれていた。
「お願いし……」
言いかけたところで、ガラガラと勢いよく引き戸が開いた。入ってきたのは身なりのいい二人の老紳士。さくらもよく知る常連たちだ。
「いらっしゃい。徳さん、三木ちゃん」
三亭がカウンターの空き席を促す。
「おっ、さくらちゃんも来ていたか。なんだい、このたまらない匂いは」
「初夏のてんぷらですよ、徳さん」
さくらが答えると、二人は「それはいい!」と声を揃えた。三亭の手元は、すでに新しいタネへと伸びている。
「ねえ、三亭さん。私のおごりで、三亭さんも真澄を一杯いかが? てんぷらの味見も捗るでしょ?」
「いいのかい?」
三亭がちぃちゃんを盗み見る。彼女はいたずらっぽく笑って、冷蔵庫から新しい一升瓶を取り出した。どうやら、店主の「役目」も決まったようだ。
カウンターの向こうで、心地よい油の音が再び奏でられる。
「さくらちゃん、粋なことを言うじゃないか。なら、私も真澄を頂こうかな。徳さんもいいだろう?」
三木谷の誘いに、徳田がニヤリと応じる。さくらの心は、いつの間にか鮮やかな夏の色に追いついていた。この週末は、穏やかな気持ちで過ごせそうだ。今宵、「小料理屋 三亭」の夜は、朗らかな笑い声と共に更けていった。
了