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【配役とソシャク】十三話 黒いクチバシ


    「お母さん、アイロンどこにやったの」

    カウンターの奥から息子の声が聞こえる。

    シャー

    カーテンが開く。

    「夕べ、引き出しにしまったんでしょ」

    「また失くしちまったのかい」

    カウンターの下でゴソゴソと大きな体が蠢いている。

    「お母さん、あったよ」

    アイロンを掴んだ右手だけが見えている。

    それはコードも付いてないプラスチック製のおもちゃのアイロンだった。

    「よかったね」

    「お前はこの店の店長なんだから、しっかりしておくれよ」

    カウンターの下から顔を出したのは、この女の息子のボクちゃんだった。

    「ごめんなさーい」

    ――

    「ボクちゃん、また次の兄さんがやって来たよ。ちゃんと挨拶して」

    「ボクちゃん、兄さんの邪魔したらいけないでしょ」

    「ボクちゃん、お兄さんからプレゼントだって。新しいぬいぐるみのお守り」

    ――

    「……なんで、首のないマネキンを置いたんだい」

    「……あたしの部屋……白くなってる……黒いカーテンはどうしたんだい」

    「待って。どこに行くの、ボクちゃん……お前の家はここなんだよ」

    ――

    フラットシューズの靴底は、片側の踵が異常にすり減っている。

    今でも、1番線に立つと私の足は、黄色い膨らみを探している。

    でも今は、すり減った靴底を、手でさすっている。

    ――あの男がこの店の店長なんだ。

    私の居場所を埋めた男。

    フラットシューズを脱ぎたくない。

    天井のスピーカーから、聞き慣れないピアノの音が、擦り切れたみたいに流れている。

    0番線の試着室に入るのは初めてだった。

    乳白色のカーテンは、この私の体を固定する。

    外の音が細くなる。

    さっきまで聞こえていた店内のBGMが、泥の底へ沈んでいく。

    試着室は、無数の擦れ跡や、何かの形に見える染みが、壁の内側から出てきたみたいだ。

    ……フッ。

    軽く息を吹きつける。

    正面の鏡には、黒いニット帽を深く被った女が立っている。

    伸び切った前髪が、目の輪郭を曖昧に隠していた。

    私は黒いニット帽に手を掛けた。

    指先に、湿った繊維が引っかかる。

    バサッ――

    押し込まれていた長い髪が、一気に肩へ落ちてくる。

    湿気を吸った髪先が、試着室の鏡に黒く貼り付いた。

    ――

    0番線が、小さく揺れている。

    俺はカウンターに戻り、アイロンを垂直に立てた。

    あの女性は、もう鏡を見ている頃だろう。

    アイロンの先端に残った水滴を、2本の指の間で乾かした。

    しばらくして0番線の揺れは止まった。

    俺は少しずつ近寄り、声をかける。

    「いかがでしょうか」

    歩く歩幅がズレだす。

    ふわっとカーテンが揺れる。

    「……整えます」

    もう1度カーテンが揺れる。

    俺は少しだけ間を置いて、聞き返した。

    「それは……仕事ですか」

    俺は1歩だけ近づく。

    右手にアイロンの重力を感じながら。

    シュゥゥゥ。

    白い蒸気の帯が、白いカーテンを湿らせていく。

    「……いいえ、違います」

    シャーー

    白いカーテンが開き、俺の目の前に現れたのは、錆びた釘を握りしめた、伸び切った前髪の女だった。

    「配役です」

    ⸻

    その黄色い口は、まだ開いたままだ。

    それは「ソシャク」するためでも、飲み込むためでもない。

    ただ親が運んでくるタンパク質を信じて待っているだけの形だ。

    たとえ黒いクチバシだとしても。

    ⸻

    ――誰かが飲み残した缶ジュースが、連結部で転がった。



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