
吾輩は地理学徒なり10.80|外伝4
外伝4|平行線が交わる瞬間
近年、我が地形測量界隈においても、連続値とでも言うべき大量の観測データを取得できるシステムが急速に発達した。その精密な点群データを詳らかに解析するに、観測者モードは、実はMの装甲である。観測者としての冷静さを取り払ったとき、Mはこう見えてかなり不器用なぽんこつでしかない。ただし、我の知る限りそういう瞬間は、UMAレベルで存在しない。
ところで、周知のとおり駒ヶ根はソースカツ丼の聖地である。どんぶりから溢れんばかりにはみ出る豚カツと、甘塩っぱいソースの香りは実に背徳の食べ物である。
いや、本家が伊那か駒ヶ根か論争は、この際、脇に置いておこう。重要なのは西駒の下山後は、それを胃袋に収めるまでが正しい行程である、という一点に尽きる。然れど諸君、留意せよ。その摂取カロリーは、全消費カロリーを遥かに凌駕する。
◇
駒ヶ根の某カツ丼屋で、Mはメニュー表をきょろきょろ眺め、どこか浮かない表情をしていた。
「どうしたM、お手洗いは向こうであるぞ」
我のそんな無粋な返しに、Mの全身の黒毛が逆立つ。おお、こわやこわや。
──されど、しばし逡巡の後、Mは消え入りそうな声で言った。
「わたしの味噌カツは、どこ?」
「なんと?」
よいか、近年難聴系主人公が流行っておるが、本当に聞こえなかったのであるぞ。
「カツと言うたら、あ、赤味噌に決まっとるでしょーが!そんなん全世界の常識だらぁに!」
尻尾ブンブン。なぜかいささかキレ気味に、Mは激怒した。
読者諸氏、ご期待のところ恐縮であるが、今、Mの可愛さで手一杯である。それどころではない故、太宰は決して招喚せぬぞ。
「人は味噌から離れては生きられにゃいのよ!」
涙目。
「……」
えっと、噛んだ?それは、……天空のお城かな?そして、なぜ主語がそうも壮大?
それは何らかの地殻変動により、Mのにゃごや弁露頭が突然発露した瞬間であった。涙ぐむまでのことか?もはやツッコミが追いつかぬ。だからリケジョは断じて喋らせてはならぬ、とあれほど──
◇
と、その瞬間、我とM、いやわたしとWというのか、ふたりの視点が相互作用を起こし、互いの境界を侵すように曖昧になりはじめた(のである)。
そして、Mがはじめて見せる素の状態の圧倒的可愛さに、我はついにひれ伏した。感情が飽和するとき、人の言語中枢は悉く破壊される。──激情に翻弄されて自分の言語体系を操れぬなど、孤高の文士が聞いて呆れる。
Mよ。
はい可愛い。
天然可愛い。
自爆可愛い。
可愛いの自己増殖的可愛い。
天然稚魚を生物工学的にうっかり培養(養殖)してしまったミュータント的可愛い。
プレートテクトニクス的可愛い。それでも地球は丸かった。
つまり──黒猫はこんなに可愛い(証明終わり)。
などという阿呆の告白同然の可愛い六段活用など、我がMに対して叫ぶわけなかろう。何?思考がスリットダムの如く外部にダダ漏れしておるだと。然らばMよ、なぜそう余裕綽々であるか?なぜ濡れそぼった両の目が、黒曜石の如く見開かれておるか。
否、冷静になって後に思い返せば、Mに余裕など微塵もなく、ただの処理落ちした精密機械だった可能性も微レ存。しかしそんなこととはつゆ知らず、我は、もはや息絶え絶えに叫ぶほかなかった。
その言葉、即ち我の核である。
二度は言わぬ。されば聞け。
これこそ我が嘘偽りなき只唯一の本心である。
「……」
「……」
その時間は、刹那であったか。否、一九億光年であったか。
◇
Wは暑苦しい森見節の奔流で、わたしがいかに可愛いかを全力で褒め称え続けた。わたしはそれを寸分違わず記録した。そう、わたしは可愛いのだ。すごく可愛いのだ。もう宇宙規模的に、無茶苦茶に可愛いのだ。……すべてWから見て。
そして、その言葉の暴力的奔流の中に、ふと、わたしの観測系では処理不能なひとつぶの“宝石”が紛れ込んでいた。
わたしが構築したW観測系は、対象の視線がわたしに全振りされた刹那、わたし自身の感情までも巻き込み、内部シーケンサーが勝手に自己増幅をはじめる仕様である。このアルゴリズムは観測者という存在の、どうしようもない宿命である。
……えっと、素面ではとても記録できなくはないでしょうか。そう気がついてしまったならば、観測を止めればよいのでは?それはダメ。何故ならわたしは観測者。観測者は書くものです。それはキキ、でもわたしも危機。
刹那、記録装置の緊急停止アラームがどこからともなく鳴る。
「UNDEF値を観測。致命的例外エラーを検出。overflow overflow overflow……
観測者の構造的限界により、記録を停止します。
──ピ、ぴにゃぁぁぁぁぁっ」
◇
「……」
「……」
暗転。世界が一瞬だけ、奇妙なアラート音で揺れた。自動回復シークエンスはついに再起動しなかった。
観測OSは落ちた。
その大量のエラーログにまみれて、言語が縮退する刹那、わたしはただひとつ理解した。
わたしはうれしいのだ。
とてもうれしい。うれしい。うれしい。
──うれしい。
うれしい。
うれし、い。
う、れ、し。
う……し。
「……えっと、うれしい」
◇
よいか。黒猫あざとい勢等有象無象、頓に湧くなよ。あざといに非ず。ただ可愛い。もう可愛いの天元突破的可愛い。故に我在り。
ふと、店内のざわめきが止まる。Mが小さく息を飲んだ。そのとき、我は、黒猫が桃猫に変態したのを観測した。それは同時に我の室内犬としての馴化の完了であった。
そして、店内からは、生暖かい拍手で見送られた。カツ屋の中心で愛を叫ぶ。それはなんと無様で、青春の可視化であろうか。おい、そこで瞳を閉じるでない。よいか、読者諸氏は努々TPOは弁えるべし。お騒がせしてどーもすみません。
しかし、壊れたレコード盤みたいに「うれしい」を連呼したMもなかなかに──おいM、そこでひとり知らぬ顔をするな。我ばかり無様ではないか。
(第一部完)
脚注:観測者OSの故障により、本編の解釈には個人差があります。
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