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九識心王 第1話  庸とイヴ


    あらすじ 

    地球上で約500人が同時に消えた。日本から選ばれた10人は、英雄でも有名人でもなく、欠落と異能を抱えた者たちだった。感染を退ける孤独な男、薬物で死ねない少女、獣と語る獣医、人を照らす歌姫、顔を作り替える医師、未来を見る子供―。彼らを攫った「存在」は、南極氷床下の都市で量子AIに文明を委ね、感情・免疫・創造性・生殖力を失いつつあった。やがて10人は、異形生命種族たちの争奪戦に巻き込まれながら、人類史と宇宙生命の奥底に久遠より遍く九識心王心如の都へと導かれていくー。
    [この物語は普遍的で科学的なサバイバルSF奇譚です。オカルト、神話、宗教、科学、フィクションの境界に関心がある全ての人に捧げます]

    第1話  庸とイヴ

     平庸という姓名を、庸は幼いころから、よくできたレッテルの様に感じていた。姓は平。名は庸。目立たず庸かであれ。祖父はそういう願いを込めたのだと、母は一度だけ言ったことがある。人より秀でず、人を押しのけず、波立たず、ただ無事に暮らせればよい。貧しい家の子に授けるには、いかにも慎ましく、いささか卑屈で、それでいて切実な祈りであった。
     
     だが祈りというものは、名付けた者よりも、名付けられた者を長く縛ることがある。庸の人生は、平らかでも、庸かでもなかった。彼は、世界の端にこびりついた瘡蓋のように、そこにあるだけで人目を疼かせた。

     
     最初に嫌われた記憶は、理不尽な背景と共にあった。人格でも話し方でもなく、誠実さや席順などでもなく、やはり容姿が原因だったらしい。幼稚園の砂場で、女の子が言った。

    「へんな顔」

     意味より先に音が刺さった。へんな、という三音には、世界が庸を見つけ、直ちに退けた時の冷たさがあった。気づけばまわりの子供たちも笑っていた。笑い声は砂場の縁の青いプラスチックに当たり、乾いた小石のように跳ね返った。庸はその時、笑いというものが人を温めるだけのものではなく、時には刃物よりも正確に皮膚の下へ入ってくるものだと知った。先生はそこにいた。いたが、叱らなかった。彼女は困ったように微笑み、庸の頭に手を置いた。

    「庸くん、気にしないの」

     庸はまだ四歳であったが、人が本当に気にしなくてよいことに対しては、気にしないの、などとは言わないのだと覚えた。気にしないの、という言葉は、そこに気にすべきものがあると大人が認めた証文であった。それから彼は、人の目を見るのが苦手になった。目は言葉より早い。言葉なら聞こえないふりもできる。だが目は、出会った瞬間に判決を下す。好意、嫌悪、憐憫、嘲弄、警戒、拒絶。人間はそれらを隠すために礼儀を発明したが、目だけはいつも礼儀より先に立つ。
     
     小学校に上がると、庸には教室の中で定まった役が与えられた。笑われる者。触れられると嫌がられる者。給食でプリンを喜べば豚と言われ、運動会で走れば腹の揺れ方を真似され、図工の時間に描かれる似顔絵では、ひとりだけ怪物のような口と、粘土を潰したような鼻を与えられる者。担任はその絵を見て、特徴をよく捉えている、と言った。誰かが庸を傷つける時、大人はたいてい、傷ついた庸の方へ我慢を教えた。
     
     父はいなかった。写真もなかった。母に訊ねると、知らない方がいい人、とだけ言われた。その言い方には、怒りよりも疲れがあった。庸はそれ以上聞かなかった。子供は親が思うより早く、親が壊れそうな場所を見分ける。そこへ踏み込めば、自分まで捨てられるような気がした。
     
     母は庸を殴らなかった。怒鳴りもしなかった。世間の物差しで測れば、それだけで悪い母ではなかったのかもしれない。しかし、殴られないことと愛されることは違う。夜勤明けの母は、化粧を落とす前から老いて見えた。流しには皿が重なり、蛍光灯の下で母の手の甲だけが白く浮いていた。学校で何があったか話そうとすると、母は、あとでね、と言った。そのあとでは、たいてい来なかった。
     
     十三歳の春、母はいなくなった。台所のテーブルに旧札二万円と、コンビニの袋と、便箋を破った紙があった。
     
     ごめんね。-たった四文字だった。庸はその紙を何度も読んだ。何度読んでも、そこには理由がなかった。ごめんね、という言葉には謝罪だけがあり、説明がなかった。説明されずに捨てられた子供は、やがて自分自身を理由にするようになる。父がいない理由。母が消えた理由。教師が助けない理由。子供たちが笑う理由。満員電車で舌打ちされる理由。全部、ここにある。頬の厚み、目の位置、鼻梁の短さ、顎の鈍さ、笑うと歪む口元。顔は彼の罪状書きであった。
     
     中学では上履きが何度もなくなった。高校では、女子が庸の机に触れた指を、冗談めかして制服の裾で拭った。駅のホームで肩が当たると、会社員が振り返り、顔を見てから舌打ちした。満員電車では、誰もが誰かに押しつけられているのに、庸の腹や肩が触れた時だけ、相手の目に小さな殺意が宿った。目は凶器にはならない。だから誰も罰せられない。だが、毎朝毎晩、数え切れない目に刺され続ければ、人はそれだけで十分に血を流す。庸はいつも、内側だけが血まみれだった。
     
     それなのに、身体は壊れなかった。風邪をひかなかった。インフルエンザで学級閉鎖になっても、彼だけは平熱だった。給食の食中毒で教室の半分が休んだ日も、庸は余った唐揚げを二つ食べて、何事もなかった。高校二年の夏、河川敷で野犬に噛まれたことがある。教師は青ざめ、保健所の職員は狂犬病という言葉を慎重に口にした。だが庸には発熱も、痙攣も、倦怠感も起こらなかった。傷口は、まるで内側から誰かが縫い合わせたように、数日でふさがった。医師は言った。

    「運がよかったんでしょう」――――「運?!」
     庸は少し笑いそうになった。もし自分に運があるのなら、それは死なない方向にだけ働くらしい。愛されることにも、選ばれることにも、助けられることにも使われず、ただ死なない。神がいるなら、ずいぶん意地の悪い采配をするものだと思った。
     
     二十三歳になっても、庸は社会のどこにも属せなかった。大学には行かず、就職面接は落ち続けた。面接官たちは履歴書ではなく、まず彼の顔を見た。そして顔を見てから、履歴書へ視線を落とした。人間は順序を隠すことが下手だ。彼らは先に庸を拒み、その後で拒む理由を探した。
     
     古いワンルームの床には、甘いものの袋が積もっていた。チョコパイ、大福、練乳パン、あんドーナツ、百円のまんじゅう。砂糖だけが庸を見なかった。クリームは彼の履歴を訊ねなかった。小豆は彼の顔立ちに関心を持たず、舌の上で静かにほどけた。庸は甘いものを食べる時、目を閉じる癖があった。舌の上で砂糖が溶けるほんの数秒だけ、世界の輪郭がやわらいだ。人の顔も、視線も、母の置き手紙も、窓ガラスに映る自分の姿も遠ざかった。甘さは解決ではなかったが、救いに似た猶予だった。そう。肥満と肌荒れとを引き換えに。格闘家にもホストにもなれない青年に。
     
     一方、美波イヴは、空腹で目を覚ますことが多かった。目覚ましより先に胃が鳴る。カーテンの隙間から差し込む朝の光より先に、身体の奥で何かが獲物を探し始める。それは健康な若者の食欲というより、底の抜けた袋の中で風が渦を巻くような感覚だった。冷蔵庫には、深夜に買った唐揚げ弁当が三つ、コンビニのパスタが二つ、プリン、シュークリーム、エナジードリンク、プロテインバー、飲みかけの炭酸水が入っていた。普通の一人暮らしの女子大生なら、それで二、三日は済む量だった。イヴは床にしゃがみ込んだまま、弁当を一つ電子レンジに入れ、温め終わる前に冷たいパスタを開けた。
     
     食べても、どれだけ食べても満たされない―。胃に入っていく感覚はある。舌は甘い、しょっぱい、辛い、熱い、冷たい、を拾う。脳はそれを分類する。けれど、どこにも届かない。身体は、まるで他人の家のようだった。玄関を開け、廊下を進み、明かりをつけ、冷蔵庫に物を入れる。けれど、そこに住んでいるのは自分ではない。自分はいつも、誰かの家に無断で居候しているような気分だった。そこに、スマートフォンの通知が震えた。

    《朝から食べる量バグってる 笑》
    《細いのにどこ入ってんの?》
    《今日も12キロいける?》
     
     SNSでは食べる美女としての美波イヴがバズっていた。フードファイター界隈でも「イヴの胃袋は底なし」と話題にもなっていた。テーブルいっぱいに並べたラーメン、カレー、寿司、焼肉、ケーキ。画面の中のイヴはよく笑った。口角をめいいっぱい挙上し、両手で大きなハートを作り、スマホの向こう側にリアルタイムで何人いるか判らない視聴者たちへ明るく言った。
    「いっただっきまーす♡!」

     食べれば数字が増えた。フォロワーが増え、再生数が増え、コメントが増え、案件の連絡が増えた。食べても太らない身体は、才能であり、呪いでもあった。
     
     母方の祖母は、甲賀の山の出だと聞かされていた。忍びの末裔などと言えば、子供のころは友人に笑われた。忍者なんて漫画の中だけでしょ、と言われ、イヴも笑った。だが祖母の家には、妙な家訓が残っていた。曰く、水を疑え。匂いを覚えよ。眠りを信用するな。薬は敵にも味方にもなる。身体の中に入るものは、すべて一度は肝で殺せ。と。意味も分からず暗唱させられたその言葉は、大人になってから別の響きを持った。
     
     イヴの身体は、薬に強かった。頭痛薬も、睡眠薬も、安定剤も、風邪薬も、酒も、カフェインも、彼女の中ではどこか軽くなった。誰かが、それ以上はやめな、と言う量を越えても、彼女の眼は濁り切らなかった。寧ろ、ひどく揺れた心が一度底まで沈み、そこから乱暴に再起動することがあった。彼女はその感覚を、リブート、と呼んでいた。薬のケースには、色の違う錠剤が並んでいた。白いものは眠くなり、青いものは少し静かになり、赤いものは心臓を怒らせ、透明なカプセルは世界の輪郭を柔らかくする。どれも彼女を満たさなかった。けれど、どれも数時間だけ彼女を別の場所へ連れて行った。
     
     彼女の部屋は、物で溢れていた。ブランドのバッグ、履かないヒール、箱から出していない香水、値札のついたままのワンピース、金色のロゴが入った紙袋、限定色のリップ、知らない男の名刺、知らない女のように写っている自分の写真。最初のバッグを買ってもらった時、イヴは嬉しかった。大学一年の春だった。相手は不動産会社の役員で、指輪を外す時だけ妙に丁寧な男だった。帰宅してバッグをベッドの上に置いた。箱を開けた時の革の匂い、金具の冷たさ、内側の布地のなめらかさ。それらは確かに美しかった。だが、十分後にはもう、別のものが欲しくなっていた。
     
     欲しいという感覚だけが、彼女の中で生きていた。手に入れると死ぬ。手に入る前だけが熱を持ち、手に入った瞬間に灰になる。人も同じだった。好きと言われるまでは胸が騒ぐ。好きと言われた途端に、その言葉の軽さが見える。抱かれる前は少しだけ自分が選ばれたような気がする。抱かれた後は、自分の身体が空き部屋になったように感じる。
     その空き部屋に、イヴは食物と薬と物を運び込んだ。けれど、どれほど積み上げても、部屋は空いたままだった。
     
     庸は人間が怖かった。だが、人間に触れられないまま生きることは、もっと怖かった。その矛盾の行き着く先として月に一度、デリヘル嬢を呼んでいた。勿論そこに恋愛も尊厳もなかったことは百も二百も承知していた。だが料金表と時間だけはあった。開始と終了があり、会計があり、約束があった。人間関係の中で、これほど明瞭なものを庸は他に知らなかった。
     
     美波イヴが初めて部屋に来た夜、雨が降っていた。彼女は写真より細かった。写真より幼く、写真より疲れていた。明るすぎる髪の下に、青い影を帯びた目があった。玄関に立った瞬間、彼女は庸の顔を見た。見て、視線を逸らさなかった。

    「庸って名前、いいね」
     イヴは靴を脱ぎながらリップサービスで言った。庸は何かの聞き違いかと思った。名前を褒められたことなど、一度もなかったからである。
     
    イヴは庸の戸惑いに頓着せず部屋へ入ると、バッグから小さなケースを取り出した。色の違う錠剤がいくつも並んでいた。庸はそれを見ないふりをした。人が何で自分を保っているかを、他人が裁けるはずがない。少なくとも、見た目だけで裁かれ続けた庸には、そんな資格はなかった。

    「水、ある?」
    「あります」

     コップを渡すと、イヴは錠剤をいくつか口へ放り込んだ。数えていないように見えた。嚥下する喉の動きだけが、ひどく生々しかった。

    「大丈夫なんですか」
    「何が?」
    「その薬」
    「ああ。平気。私、死なないから」

     軽い声だった。庸はその言葉を聞いて、胸の奥で何かが小さく鳴るのを感じた。死なない―。それは、自分だけに与えられた罰の宿命だと思っていた。だが目の前の女も、同じ言葉を冗談のように使った。イヴは部屋の隅を見た。菓子の袋の山があった。

    「甘いの好きなんだ」
    「はい」
    「私も好き。でも最近、味が遠い」
    「遠い?」
    「うん。食べても、届かない感じ。薬も、お酒も、人も。バッグも、時計も、フォロワーも。ぜんぶ途中で消える」
     
     庸はそこで初めて、イヴが自分とは別の地獄にいることを知った。自分の地獄は外から来る。顔、視線、嘲笑、拒絶。イヴの地獄は内側にある。どれだけ何かを流し込んでも、底の抜けた器のように残る空虚。彼女は満たされないのではない。満たされるという感覚そのものから遠く離れてしまっているのだ。
     
     その夜、二人の間に愛も同情さえも生まれなかった。ただ、イヴが帰ったあと、庸は玄関を長く見つめていた。クッションには、彼女の香水の匂いがわずかに残っていた。派手で、安っぽく、けれど人間が確かにそこにいた証拠だった。庸はその夜、菓子を食べなかった。

     それから、庸はイヴを連続して本指名するようになった。イヴは時々遅れ、時々早く帰り、時々よく喋り、時々ほとんど喋らなかった。来るたびに薬の種類が違った。ある日は陽気で、ある日は眠そうで、ある日は目の奥だけがひどく醒めていた。庸はそれを責めなかった。責める資格がないと思っていたし、何より、彼女が部屋に来る日だけは、自分が完全な透明人間ではなくなる気がした。

    「庸って、怒らないよね」
     ある夜、イヴが言った。
    「怒ると、余計に醜くなりますから」
    「そういうこと言う人の方が、私は嫌い!」

     イヴは眉を寄せた。庸は返事ができなかった。その言葉は彼の中へ深く入った。だが、救いにはならなかった。言葉は薬になることがある。けれど薬は傷の原因を消してはくれない。
     
     ある月、イヴが来なくなった。店に電話すると、今日は出勤していないと言われた。翌週も、翌々週も同じだった。メッセージを送っても返事はなかった。既読がついた日もあったが、それだけだった。庸は、捨てられたのだと思った。実際には、イヴにも事情があったのかもしれない。体調を崩したのか、店を移ったのか、誰かに追われていたのか、薬が合わなかったのか。だが庸は、そう考えることができなかった。人に捨てられ続けた者は、出来事を自分に都合よくではなく、自分に不利な方向へだけ解釈してしまう。

     ああ、やっぱりか。―それだけだった。
     
     少し後、バラ疹など思い当たる症状が身体のそこかしこにあったため、庸は性病検査を受けた。不安があった。イヴのこともあった。自分の身体が本当にどこまで壊れないのかを、どこかで確かめたい気持ちもあった。クリニックの待合室で、庸は膝の上の番号札を見ていた。周囲の人間たちは、互いを見ないようにしている。病院という場所では、人は自分の不安を隠すために、他人の不安を見ないふりをする。
     
     最初の結果は、やはり陽性だった。医師は慎重に言葉を選んだ。庸はその口元を見ていた。人は悲しい知らせを告げる時、たいてい優しい顔を作る。その優しさは、相手を包むためではなく、相手から一歩遠ざかるためのものでもある。庸は椅子に座ったまま、ああ、これで漸く自分の身体にも名前のつく災厄が入ったのだと思った。しかし、念のために行った再検査結果は奇妙だった。陰性。医師は機器の誤差、検体の取り違え、一過性の反応、偽陽性、いくつもの可能性を口にした。さらに別の検査が行われた。結果は、最初の告知を裏切るように、またしても陰性だった。
     
     医師は困惑した。庸は困惑しなかった。ただ、うんざりした。彼の身体は、敵を拒むのではない。敵を中へ入れる。そして、静かに殺す。ウイルスも、細菌も、毒も、身体の中で何かに追い詰められ、名もなく処理されていく。だが、この身体は人間の悪意を殺せない。視線を殺せない。母の不在を殺せない。イヴの沈黙を殺せない。―なんという役に立たない奇跡だろう。
     
     庸は部屋に戻ると、菓子の袋をすべて捨てた。袋の底に残った砂糖の粉が、床に白く散った。甘いものは彼を慰めたが、どこへも連れて行かなかった。パソコンを開き、ぼんやりと渡航先を探した。―行き先は、人間という人間から最も遠い場所がよかった。日本語の通じない場所。満員電車のない場所。コンビニの店員も、面接官も、同級生も、母の置き手紙も思い出さない場所。誰も彼の過去を知らず、彼の顔に意味を与えない場所―。
     
    画面の中に、アフリカの草原があった。金色の草が、風に倒れていた。遠くに獣の影があった。その獣は写真の中でさえ、人間よりも優しい目をしていた。庸はしばらくその写真を見つめた。幼い頃から、人間を避けるためには部屋に閉じこもるしかないと思っていた。だが世界には、部屋の外にも、人間から遠い場所があるのだと、初めて知った気がした。逃げるのだ、と思った。
     
     けれど、逃げることを恥じる気にはなれなかった。人間が怖い者が、人間の少ない場所へ行く。それは敗北ではなく、生き延びるための最後の知恵かもしれなかった。航空券の確定ボタンを押す時、指は震えなかった。庸は、イヴに短いメッセージを送った。

    《しばらく日本を離れます》
     返事は来ないと思った。けれど、夜が更けた頃、画面が光った。
    《どこ行くの》
     庸はしばらく返信できなかった。返事が来たこと自体が、彼には過分な出来事に思えた。
    《アフリカです》
     すぐに返信が来た。
    《なんで》
    《人が少ないところに行きたいので》

     しばらく間があった。その沈黙の中で、庸はまた捨てられたと思いかけた。だが、次の文が届いた。

    《生きて帰ってきたら、また呼んで》

     庸はその文字を何度も読んだ。―生きて帰ってきたら。それは約束ではなかった。慰めでもなかった。おそらくイヴ本人にも、その言葉の意味は分かっていない。だが庸には、その一文が、航空券よりも遠い場所へ続く切符のように思えた。
     
     同じ夜、南極氷床下、厚さ数千メートルの白い沈黙の底で、黒い生体結晶の尖塔が一度だけ明滅した。その場所を地上の人類は知らない。地図にも、衛星画像にも、国家の表向きの記録にも存在しない。南極の地下に広がる神聖聖域都市―ネオ・アガルタ。その第一殻層では、氷結の障壁が外界の熱探知を欺き、第二殻層では人工生態系が常夏の森のように呼吸し、第三殻層では中心結晶尖塔オリハルコン・コアが、都市の政治、軍事、量子AI、そして目に見えぬ支配者の神託を一つに結んでいた。
     
     そこにいる存在は、人間の愛や嫌悪を持たなかった。彼らは、庸の医療・通信データを読んでいた。顔ではなく、血液を。孤独ではなく、免疫を。不幸ではなく、耐性を。彼が人間社会で最も不要とされてきた二十三年を、彼らは人が構築したウェブネットワークをハッキングし、別の量子演算で読んでいた。強靭。希少。宿主候補―。黒い尖塔の内部で、ある精神のない命令が、長老たちの思考へ長老自身の考えのふりをして落ちた。J-07を標識せよ!
     
     庸はそれを知らない。知らないまま、印刷した航空券を蛍光灯の下で眺めていた。紙の上の文字は、行き先というより判決に見えた。アフリカ。庸は、自分が何をしに行くのか分からなかった。死に向かうのか、生きに行くのか、獣に逢いに行くのか、それとも人間でない何かに裁かれに行くのか。
     
     ただ一つだけ分かっていた。この身体の奥には、まだ名のない免疫が脈を打っている。それは祝福ではなかった。救済でもなかった。地獄の底でなお死なないために、生命がひそかに鍛え上げた、冷たい火のようなものだった。そしてその火を、氷の下の何かが、すでに見つけていた。


    第2話  睦子とアイコ
    https://note.com/genius_surgeons7/n/n35b4da31b7cd


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    私は東京🗼麻布&大阪🏥梅田で開業している実在の美容外科専門医です。全国の有名美容外科医や形成専門医が失敗した手術を極力メスや異物を用いず独自技術で日々修正に臨み、業界一の症例数と品質を誇っています。失敗された方々の悲痛な声を代弁し、不幸の連鎖に終止符を打つ使命感で記事を認めます。

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