メインコンテンツへスキップ
見出し画像

九識心王 第2話  睦子とアイコ

     室伏睦子は、獣の沈黙が嫌いだった。獣が黙る時は、たいてい人間が間違っている。草原には、音よりも先に沈黙がある。乾いた草を踏むインパラの沈黙。腹を満たした雌ライオンの沈黙。泥に半身を沈めたカバの、古い石のような沈黙。遠くに立つキリンの、見張り塔めいた沈黙。それらは耳で聞くものではない。皮膚の裏へ、圧や匂いや筋肉の緊張として伝わってくる。睦子にはそれが判った。但し哺乳類に限って、である。
     
     犬は判る。馬も、猫も、牛も、猿も、象も、鯨も、イルカも、薄い膜越しに意識が流れ込む。言葉ではない。言葉より粗く、言葉より正直なもの。腹が減った、子を守れ、近づくな、群れを戻せ、痛い、眠い、水の匂いがする。人間の語彙に直せばその程度になるが、本当はもっと複雑だった。彼らは世界を名詞と動詞で考えていない。温度、距離、匂い、姿勢、筋肉の震え、母の乳の記憶と繋がりで考えている。
     
     鳥は?-ダメだった。蛇も、ワニも、魚も、蛙も、昆虫もだめだった。見えているのに読めない文字か無声映画の様に、彼らは睦子の世界の中で寡黙だった。どれほど感覚器官を研ぎ澄ましても、世界の半分には声がない。自分が特別なのなら、徹底的に特別でありたかった。中途半端な神様の贈り物など、かえって足枷である。
     
     睦子は二十九歳の獣医で、アドベンチャーレースやトライアスロンにのめり込む女だった。仲間内では、ケモノ姫と呼ばれている。嫌いな綽名ではなかった。媚びるべき相手には媚びる。敵対する相手には噛みつく。見下す相手は、遠慮なく見下す。そういう自分の性格を、睦子はさほど悪いものだと思っていなかった。
     
     弱肉強食は、自然界の基礎文法である。ただ、人間だけがそれを道徳で薄め、文明の漆喰で固めてしまっている。-睦子はそう考えていた。それなのに、数年前、一度だけ、自分のその考えを真横から割られたことがある。
     
     細木アイコ。―大邸宅に住む占い師。六十四歳。生来LGBTQIA+の雌雄同体(アンドロジェナス)で、男性とも女性とも言い切れない輪郭と、長い年月をかけて運命を見続けた者には特有の情熱を持つ人物。
     
    睦子は、あるスポンサー企業の社長に連れられて、半ば冗談のつもりでアイコの館を訪ねた。モンゴルのアドベンチャーレース前で、スポンサーは験担ぎをしたがった。睦子は、占いなど、高額な心療内科の変種だと思っていた。けれど、アイコは睦子を見るなり言った。

    「あなたは、鳥の心の声が聞こえないでしょう」

     睦子は笑えなかった。誰にも言っていなかった。犬と馬と牛と猿と象の意識が入ってくることも、鳥類なら何故か全てが黙っていることも。自分の能力を語る時、睦子はいつも「動物と話せる」と皆に言っていた。哺乳類だけです、などとは言わなかった。自分でその限界を認めたくなかったからだ。

    「どうして分かるんですか?」

     あの時の睦子は、そう訊いた。語尾に、少しだけ棘があったと思う。アイコは、緩やかに首を傾げただけだった。
    「あなたが聞いているのは、動物の言葉ではないから」
    「では何を聞いているんです」
    「乳の記憶」
     睦子は、嫌な顔をした。
    「乳?」
    「哺乳類は、生まれて最初に母の体温と匂いと心拍に触れる。乳を飲みながら、世界を覚える。あなたの能力は、その原始的な依存と安心の回路に触れている。鳥や蛇や魚が黙っているのではない。あなたの鍵穴が、そこには合わない」

     それは睦子にとって意外な答えだった。それって、ただの特定蛋白質のサイコメトラーってこと???
     
     自分は弱肉強食の声を聞いているのだと思っていた。強さ、美しさ、速さ、牙、群れの序列、支配と服従。そういうものに敏感なのだと考えていた。だがアイコの言葉によれば、彼女が聞いていたのは種ごとの言の葉でもシグナルでもなく、母と子の間に巣食うプリミティブな伝達網だった。不快である分だけ、真実に近かった。以来、睦子はアイコに対し獣以上の畏怖を感じていた。
     
     そして今、東アフリカの赤い土の上で、彼女は再びその名を思い出していた。風向きが変わったからである。その日、睦子は保護区の境界近くを走っていた。アドベンチャーレースの高地順応と、野生動物の調査を兼ねた旅だった。アカシアは低い黒い傘のように点在し、乾いた草は風に撫でられるたび銀色の腹を見せた。遠くでシマウマが首を上げ、インパラの群れが一斉に耳を同じ方向へ向けた。
     
     睦子は足を止めた。獣たちの沈黙が変わった。腐敗ではない。血でもない。熱。苦い熱。けれど、喰うな。―睦子は眉をひそめた。喰うな、という反応は珍しい。獣は基本的に、食えるものは食う。危険なら避ける。腐れば嗅ぎ分ける。そこに道徳はない。だからこそ、彼らが何かを「喰うな」と感じている時、それは単なる死骸でも、単なる病人でもない。獣たちの秩序に引っかかる「何か」である。
     
     双眼鏡を上げると、灌木の陰に人間がいた。最初は観光客だと思った。だが、白い帽子も、迷彩服も、高価な装備もない。安物の長袖シャツ。砂で汚れたズボン。首から下げた水筒。観光客にしては貧弱で、密猟者にしては気配が鈍く、現地の人間にしては土地へ馴染んでいない。
     
     男は膝をついていた。身体を折り、片手を地面につき、吐いていた。吐瀉物は赤土の上に暗く広がり、すぐに蠅が寄った。肥満した身体が、熱に焼かれた獣のように重そうだった。弱そうな男だ、-睦子は感じた。この土地へ来てはいけない種類の人間。街の影に隠れ、冷房の効いた部屋で菓子でも食べていればよかった人間。自分の足で草原まで来ておきながら、いざ自然の真ん中へ立つと、自然からも拒まれている人間。睦子はそういう人間を見下す性だった。
     
     だが、獣たちの反応が妙だった。インパラは逃げない。ジャッカルは近づかない。草の中の雌ライオンは顔だけを上げ、狩りの姿勢をとらない。遠くの若い象は、鼻をゆっくり揺らしている。彼らの意識の漣が、睦子の中へばらばらに飛び込んでくる。死にゆくもの。死なないもの。苦い、噛むな。近い?遠い。人ではない、いやヒトだ。睦子は独り言を漏らした。
    「何、それ」

     男が顔を上げた。ひどい顔だった。造作そのものが美しくないというだけではない。発熱で目は潤み、唇は乾き、頬には赤黒い斑が浮いていた。鼻の下に血が滲み、白目には細い出血斑が走っている。シャツの袖口にも血痕がついていた。転んだ時の擦過傷ではない。皮下から滲む血の匂いだった。睦子の獣医としての部分が、瞬時に人間としての嫌悪を押しのけた。発熱。嘔吐。出血傾向。倦怠。意識混濁。感染症。しかも、ただの熱中症や食中毒ではない。ウイルス性出血熱。エボラ、あるいはそれに近い何か。

    「動かないで!」
     英語で叫び、すぐ日本語に直した。
    「そこで動くな!」

     男は睦子を見た。理解しているのかどうか分からなかった。その目には、助けを求める色よりも、見られたことへの怯えがあった。人間に見られることを怖がる目。睦子は、その種類の恐怖をあまり知らない。彼女は自分より強いものには媚びる。美しいもの、賢いもの、速いもの、巨大なものには素直に頭を下げる。自分より弱いものには苛立つ。弱いものは守られるより先に、自分が弱いことを曝け出すべきだと、どこかで思っていた。
     
     けれど、この男の目は、弱さを見せる目ではなかった。最初から、自分が見られる資格すらないと思っている目だった。睦子は舌打ちした。それは男に対してではなく、一瞬だけ彼を見下した自分に対してだった。バックパックから防護具を取り出す。獣医として野生動物の血液や糞便を扱うため、最低限の感染対策用具は持っていた。手袋、マスク、ゴーグル、簡易フェイスシールド。完璧ではない。だが何もないよりはマシだった。
     男はまた吐いた。胃液と血が混じったものが地面に落ちた。その瞬間、周囲の獣たちの意識がいっせいに後ろへ引いた。だめ。苦い。死の水。でも、あれは死なない。睦子は距離を保ったまま言った。

    「名前は?」
     男の唇が動いた。
    「……たいら」
    「平さん?」
     かすかに頷く。
    「下の名前は?」
    「……庸」

     その声は、乾いた紙を裂くようだった。たいらよう。随分凡庸な名前だと思った。この草原で死にかけるには、あまりに日本の狭い部屋に似合う名前だった。

    「庸、いつから具合悪い?」

     庸は答えようとしたが、言葉の代わりに咳が出た。咳の端に赤いものが混じった。睦子は衛星電話をかけた。現地協力者へ状況を伝える。日本人男性。重度発熱。嘔吐。出血傾向。意識混濁。ウイルス性出血熱疑い。搬送支援要請。相手は最初、観光客の熱中症だと思ったようだが、出血の話をすると声が変わった。庸は地面に座り込んだ。睦子は距離を保ったまま、経口補水パックを投げた。

    「飲める?」
     庸はパックを見た。それから睦子を見た。
    「……触らない方が、いいです」

     睦子は眉を挙げた。瀕死の人間が、他人への感染を気にしている。自分の命より、相手の迷惑を先に勘定している。それが彼の善良さなのか、長年の自己否定が形を変えたものなのか、睦子にはすぐには判断できなかった。

    「分かってる。だから投げた」
    「すみません」
    「謝るな。今は謝る体力も惜しめ」

     庸は小さく頷いた。その頷きさえ、誰かの許可を得ているようだった。時間が経つにつれて、症状は明らかに進んだ。顔色は灰色へ近づき、目の奥の光が薄くなる。唇の端に血が滴り、汗滴が赤黒い斑を濡らす。睦子は体温、呼吸、皮膚の乾湿、意識の混濁を観察しながら、搬送が間に合わない可能性を計算していた。
     
     だが、奇妙なことが起きた。庸の周囲に、獣たちが集まり始めたのである。まずインパラが数頭、距離を取って立った。次にジャッカルが低い姿勢で現れた。さらに遠くから象の母子が近づいてきた。普通ならあり得ない。人間が高熱を出し、血の匂いを放ち、死に近づいている時、動物はもっと単純な反応を示す。避ける。狙う。騒ぐ。だが彼らは、庸を中心に、見えない円を描くように立っていた。獣たちの意識が睦子へ流れ込む。
     見ろ。熱が食われている。血の中の棘が折れている。苦いものが、小さくなっている。死の臭いが薄れてゆく。―睦子は息を呑んだ。
     
     元来獣は比喩を使わない。彼らは詩人ではない。彼らは世界を、匂いと距離と危険で読む。だが人間の言葉に置き換えるなら、それは確かにそうとしか言えなかった。
     死が殺されている。―庸の身体の中で、何かが病原を殺している。最初に変わったのは呼吸だった。荒く浅かった呼吸が、少しずつ深くなる。次に皮膚の色が変わった。灰色が引き、赤黒い斑が薄くなる。鼻の下の出血は止まり、唇の端に滲んでいた血も固まり始めた。
     
     睦子は時間を確認した。数十分前まで、搬送を待つ間に死ぬかもしれないと思った男が、今、目の前で回復し始めている。

    「庸、聞こえる?」
     男は両瞼を薄く開けた。
    「……はい」
    「気分は?」
    「……気持ち悪いです。でも、さっきより」
    「熱は?」

     睦子は体温計を渡した。庸は手袋越しに受け取り、脇に挟んだ。数分後、表示された数字を睦子へ見せた。三十八度台まで下がっていた。

    「ふざけてる」
     睦子は思わず呟いた。
    「すみません」
    「だから謝るなって言ってるでしょ」

     庸はまた小さく頷いた。その時、若い象が鼻を伸ばした。睦子は鋭く手を挙げ、制した。 近づくな。触るな。まだ分からない。―だが象の意識は静かだった。このヒトは危なくない。でも異端だ。睦子は一瞬、言葉を失った。群れを持たないもの、という意味でもない。獣は時に人間より残酷に正確なことを言う。慰める気もない。だから嘘をつかない。
     
     庸は草の上に座り、ぼんやりと象を見ていた。怖がってはいない。少なくとも、街で人に見られる時のような硬さはなかった。彼は獣の前では、少しだけ楽に呼吸していた。睦子はそれが気に入らなかった。なぜ、人間に怯える男が、象やジャッカルの前では落ち着いているのか。なぜ、明らかに草原に似合わないこの男に、獣たちは牙を向けないのか。その苛立ちは、やがて好奇心になった。

    「あんた、過去に変な病気したことある?」
     庸は少し考えた。
    「……たぶん、あります」
    「たぶん?」
    「病院では、狂犬病かもしれないって言われたことが。あと、マラリアかもって言われたことも。でも、どっちも、いつのまにか治りました」

     睦子は声を失った。
    「狂犬病が、いつのまにか治っただって?」
    「違ったのかもしれません」
    「普通は、違ったのかもしれません、で済ませる話じゃない」
    「すみません」

     謝罪が口癖になっている人間ほど扱いにくいものはない。叱るとさらに謝り、優しくすると恐縮し、黙っていると自分が悪いと思い込む。睦子はそういう男が嫌いだった筈だ。だが、庸の身体はそんな心理とは無関係に回復を続けていた。
     
     搬送車が来た時、庸は自力で立てるようになっていた。現地スタッフは完全防護に近い装備で駆けつけたが、症状を見て困惑した。地面に残る血と吐瀉物、睦子による画像やバイタル、通信記録。証拠はある。だが目の前の男は、重篤なウイルス性出血熱患者には見えなかった。特に簡易検査結果は混乱した。陽性に近い反応を出したかと思えば、再測定では陰性に寄る。感染した痕跡はある。だが、病原体は急速に消えている。まるで体内で何かが、病を見つけるたびに追いつき、捕まえ、跡形もなく消している様だった。睦子はそれを医療者として見ていた。獣の声を聞く者としても見ていた。
     
     翌日、隔離施設の簡易ベッドで、庸は目を覚ました。熱はない。出血も止まっている。食欲さえ戻っていた。彼は目覚めると、まず看護師に謝った。次に睦子に謝った。最後に、施設の床を汚したことまで謝った。

    「もういい」
     睦子は椅子に腰を下ろし、腕を組んだ。
    「あなた、何なんですか」
     庸は答えられなかった。
    「僕にも分かりません」
    「分からないで済む身体じゃない。新型の出血熱みたいな症状が出て、数時間で勝手に治るなんて、普通じゃない」
    「普通じゃないのは、昔からです」

     冗談ではなかった。睦子は庸を見た。醜い男だと思った。顔の造作は変わらない。体型も、話し方も、オドオドした目も変わらない。だが、彼の身体の奥には、野生動物でさえ警戒する程の何かがある。草食獣が食うなと感じ、肉食獣が狩るなと見送り、象が異端と評した何か。弱い。だが、死なない。見下すにはあまりに弱く、侮るにはあまりに強い。睦子は、その矛盾に奇妙な敬意を抱き始めていた。

    「日本に帰ったら、会わせたい人がいる」
    「誰ですか」
    「占い師」
     庸は困ったように瞬きをした。
    「占い、ですか」
    「馬鹿にしてる?」
    「いえ。むしろ、僕が聞きたいくらいです」
    「何を?」
    「どうして僕は、こんなに不幸なのに、死なないのか」

     睦子は、そこで初めて庸から目を逸らした。彼の声には涙がなかった。恨みも、怒りも、芝居がかった絶望もなかった。ただ、長いあいだ同じ問いを心の中で転がし続けた人間の、擦り切れた静けさがあった。睦子は少しだけ呼吸を整えた。
    「私も訊きたいことがある。どうして私は哺乳類までしか話せないのか。どうして鳥も爬虫類も魚も、私の中では黙ってるのか」
    「すごいですね」
    「何が」
    「動物と話せることです」

     睦子はその素直さに、また少し苛立った。自分がどれほどその能力の不完全さに傷ついてきたか、この男には分からない。

    「あなた、彼女いるでしょ?熱でうなされながら言ってた。イヴさん、すみません、って何回も」
     庸の顔が赤くなった。
    「大切な人なの?」
    「分かりません」
    「便利な言葉ね、分かりませんって」
    「本当に、分からないんです」
     庸は膝の上で手を握った。その手は、まだ少し震えていた。
    「僕は、誰かを好きになる資格があるのかも分からないので」

     睦子は笑うのをやめた。施設の外では、夜の草原が低く鳴っていた。虫の声。遠くの獣の声。風。哺乳類たちの意識は、薄い霧のように彼女の中へ流れてくる。睦子は目を閉じた。動物は時々、腹立たしいほど詩人になる。いや、詩人なのは人間の方だ。獣たちはただ、ありのままの関係を嗅いでいるにすぎない。

    「帰国したら、そのイヴって子を誘いなさい」
    「断られると思います」
    「断られてから言いなさい」
    「はい」
    「あと、私のことを助けてくれたとか思わなくていい。あなたを見つけたのは、私じゃなくて獣たちだから」
    「獣たち」
    「そう。あいつらが教えたの。草の中に変な人間がいるって」

     庸は少しだけ笑った。睦子はその笑いを初めて見た。美しい笑顔ではなかった。寧ろ笑うことに慣れていないせいで、顔はぎこちなく歪んだ。だがその歪みの奥に、睦子は獣たちが彼を避けなかった理由を少しだけ見た気がした。彼には牙がない。爪もない。群れもない。けれど、他者を食おうとする匂いがない。それはサバンナでは弱さだった。人間の世界では、もっと残酷な弱さだった。だがもしかすると別の場所では、まったく違う意味や能力を持つのかもしれない。
     
     帰国の手続きを進める間、睦子は久しぶりにアイコへ連絡を入れた。簡単な事情だけを送る。アフリカで拾った日本人男性。ウイルス性出血熱様症状。自然軽快。哺乳類の異常反応。自分の能力の限界についても相談したい。返事は、すぐに来た。

    《連れていらっしゃい。彼だけではなく、飢えた女の子も》

     睦子はスマートフォンの画面を見つめた。飢えた女の子、イヴのことを。まだ名前も聞かせていない。睦子は、背中に冷たいものが落ちるのを感じた。やはり、あの人は嫌いだ。何もかも見通している。
     
     翌朝、草原はあまりにも明るかった。赤土の上に夜の冷えが少し残り、遠くでキリンが首を上げ、インパラの群れが風に向かって立ち、象の母子がゆっくりと水場へ歩いていた。庸は窓越しにそれを見ていた。人間から最も遠い場所へ来たつもりだった。けれど、そこで彼を見つけたのは、人間ではなく獣の声を聞く女だった。
     
     逃げてきた先で、ヒトの縁はまた追いついた。救いなのか、次の災厄の始まりなのか、庸にはまだ分からなかった。ただ、自分の身体の奥で、あの冷たい火がまだ燃えていることだけは分かった。死を殺す火。けれど、人の孤独までは焼けない火―

     帰国前夜、庸はイヴへ短いメッセージを送った。
    《帰ったら、会ってもらえませんか》
     しばらくして、返事が来た。
    《生きて帰ってきたらね》
     庸はその文を何度も読んだ。睦子は横から覗き込み、鼻で笑った。
    「よかったじゃない。生きて帰る理由ができた」
    「はい」
    「今度は謝らないのね」
    「……すみません」
    「だから謝るな」

     庸は俯いた。けれど、その口元には、ほんの少しだけ笑みが残っていた。
     
     その頃、東京の古い邸宅で、細木アイコは灯りを消した書斎に座っていた。机の上には、四柱推命の命式も、易の卦も、古い仏典も開かれていない。彼女は道具を必要としていなかった。ただ、遠い草原から伸びてくる三本の線を見ていた。死なない男。満たされない女。獣の声を聞く女。
     
     三本の線は、まだ互いを知らずに揺れている。だが、程なく同じ門を潜る。アイコは、自分の未来だけは見えない。それでも、今夜だけは、自分がその門の内側に立つことになると分かった。彼女は小さく呟いた。
    「来なさい。まだ、柵が縺れないうちに」
     庭の風もないのに、軒先の金属片が一度だけ鳴った。

    第3話  リラと亮平
    https://note.com/genius_surgeons7/n/n46b90109d1a8


    この記事が参加している募集

     
     
    私は東京🗼麻布&大阪🏥梅田で開業している実在の美容外科専門医です。全国の有名美容外科医や形成専門医が失敗した手術を極力メスや異物を用いず独自技術で日々修正に臨み、業界一の症例数と品質を誇っています。失敗された方々の悲痛な声を代弁し、不幸の連鎖に終止符を打つ使命感で記事を認めます。

    あなたへのおすすめ