
教えてください、烏丸先生 #10 ローベルト・ヴァルザー
教えてください、烏丸先生 #10
第2章・第5話 ローベルト・ヴァルザー
鍵をかけると、静かになった。
ドアを閉める前に見た空は、目に優しい色だった。こんな日は雨になる。開いていた窓を閉める。まだ少しあたたかい座布団の上に、本を積み直した。
烏丸先生が、いなくなった。
残響が耳の裏に齧り付く。
「中学生の表現では無いな」
烏丸先生は、ふうと溜息をついた。見せてみろと言われて作文を三度も読まれた。国語の小鳥遊先生くらいにしか読まれたことないのに。臍の上のあたりに虫が這う。
「楠さんは、何かの影響を受けて書いているのかい」
昔から本は好きだったが、文章よりも言葉が好きだった。音。心地良い音は瞼の裏で爆ぜる。俺は最近読んだ中で一番好きな詩集を答えた。今日図書室に返却したばかりだ。
「ローベルト・ヴァルザー」
烏丸先生はヴァルザーの詩集を1週間読んだあと、俺に提案をした。
「楠さん、一緒に書こう」
肋骨に台風がきた。
俺が何かを言う前に、烏丸先生は「何か1行書け」と息を荒くして迫ってきた。仕方なくノートに書いたら、烏丸先生がそれを眺めたあと、次の行に書いた。烏丸先生の言葉でシャツの皺が増えた。
「続きは次回」
烏丸先生はそう言って、図書室を出て行った。
次も、その次も、烏丸先生は図書室にやってきては、俺のノートで1行ずつ音を並べた。
2月の国語の宿題は、卒業文集だった。クラスメートの名前も顔も知らない俺は、図書室に来た烏丸先生に相談した。
「一緒に書いてくれませんか」
俺はノートに卒業文集の下書きを書いた。
さよならは夜空の匂いがする。
僕は目を閉じて耳を澄ますんだ。
「卒業だな」
烏丸先生は俺の後にこう続けた。
牡丹の味がなくなったら
君の踊りで眠ってしまおう。
「卒業です」
俺は、最後に自分の音を鳴らした。
夢の名前を忘れる前に。
楠 飛晴
高校は定時制で、卒業後は小さい会社の事務職員として就職した。安月給だが、無理なく働ける職場だった。貯金をして、一人暮らしを始めた。お金は本に費やした。
烏丸先生からの手紙が届いたのは、去年の冬だった。ヴァルザーの小説の一文が書いてあった。
Da lag er im Schnee, wie einer, der sich müde gelaufen hat.
小説の中の詩人が雪の中で死ぬ場面。
ヴァルザーは自らが書いた詩人と同じように、散歩の途中で雪の中に倒れて、死んだ。
烏丸先生が、いなくなった。
通勤電車の中で窓の外を見た。駅を過ぎるたびに、景色が変わる。会社は駅から五分、ビルの四階、窓際の席。窓の外には、隣のビルの壁があった。
伝票を入力して、ファイルを閉じる。朝に買ったパンを昼に食べる。伝票を入力する。誰かが話しかけてきて、返事をする。定時に立ち上がる。
自分の部屋に戻り、机の引き出しを開けた。奥にあったくたびれたノートを出して開く。俺と烏丸先生の字が交互に並ぶ。卒業文集のあの日以降、ノートは白紙だった。
次に会った時に渡す、手紙の返事を書かなければ。
ペンを持ったが音が選べない。話したいことも聞きたいこともある。
時計の秒針が、ふくらはぎを揺らす。
夜の不協和音の中で、一行目を書いた。
教えてください、烏丸先生。
―第2章・完―
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