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#21 水の砂漠と砂の海 第七章 渓谷の魔女 part 3

    この記事は長編歴史ファンタジー「水の砂漠と砂の海」の第七章「渓谷の魔女」の Part 3 です。気に入って頂けたら、ぜひ第一章からお読みください。
    ● 第一章「午後の会遇」の Part 1 を読む。
    ● 全体を見渡せるマガジン「水の砂漠と砂の海」を見る。

    第七章 渓谷の魔女 part 3

     娘たちの共同生活が始まった。先王が言った通り、軒下には数日おきに薪と食料が運ばれた。しかし雪と氷に閉ざされたこの村の冬は厳しく、零下二十度を下回ることも珍しくない。何日もの間、ほとんど外出できなくなることも十分考えられる。

    「みなさんの協力が必要です。エリッサ様はご自身の苦痛から自分を守ろうとしていらっしゃる。いろいろな刺激からできるだけ遠くに離れようとして、感情が麻痺して薄くなり、何に対しても無関心になってるんです。自分の中から全く感情が無くなったように感じてらっしゃるはずです。以前お好きだったという歌や音楽にも、興味を失ってしまっているのだと思います」

    「で、どうするんだ」
     アリシャトは性急に問うた。
    「心を安定させるための土台作りから始めなければなりません。今のエリッサ様は自分から助けを求めたり、行動を起こしたりすることが難しい状態です。周囲からの優しい働きかけが欠かせないんです」
    「僕たちはどんなふうに振る舞えば良いんでしょう?」

    「まず心を落ち着かせてあげることです。わたくしたちがずっと側にいて、見守っているという心理的な安心を提供して差し上げましょう。質問したり、何かをさせようとはしないでください。一緒にご飯食べようとか、そろそろ寝ようか、といった感じで具体的に誘ってあげてください」

     アリシャトとサヌラはアハルヤーの言葉に従い、できるだけ刺激しないように、優しくエリッサを導こうとした。二人とも彼女のためだったらなんでもしたいと思っていたのだ。最初のうちは全く無表情だったエリッサだが、しだいに呼び掛けると目を動かしたり、時には小さく頷くようになった。

     小屋に暮らし始めて一ヶ月ほど経ったある日アハルヤーは言った。
    「そろそろ次の段階に入ります。エリッサ様が自発的に行動できるように手助けをするんです。手を洗ったり、散歩したり、一緒にできそうなことに誘ってあげてください。でも決して無理強いはだめです。あくまでエリッサ様ができる範囲でお願いします」

     アリシャトは何度もエリッサを散歩に誘った。外は寒いので小屋の周りをぐるぐると回るだけだったが、エリッサは無言で歩き続けた。サヌラも食事の際に皿を並べたり、洗った服を畳んだりするなど、いろいろな家事を一緒にやろうと持ちかけた。エリッサは次第に様々なことができるようになってきた。

     ある日アリシャトが名前を呼ぶと、エリッサは小さな声で「うん」と返事をした。アリシャトは心の底から嬉しかった。あの時以来一言も喋らなかった彼女が、ついに言葉を口にしたのだ。それから少しずつエリッサは言葉を取り戻していった。

    「……怖いの」
     エリッサが小さな声で言った。
    「何が怖いんだ?」
     アリシャトが聞き返すと、エリッサは大きく首を横に振った。彼女は自分のミスに気付いて、エリッサの肩を抱いて優しく寄り添った。
    「怖かったんだね。でも大丈夫。エリッサは大丈夫だから。俺たちが側にいるから」
     エリッサは静かに頷いた。

     メナンドロスの家には、冬になって農作業が暇になった村人が、入れ替わり立ち替わり毎日のように訪れていた。彼らは静かに仏教について語るメナンドロスの話を、彼がかつては王だったと言うことも知らずに聞き入り、代わりに薪や食料を置いて帰っていった。彼らの前にいるのは、穏やかな眼差しと、深い知恵に満ちた言葉で仏教の教えを静かに説く一人の求道者に過ぎなかった。

     メナンドロスも、一人ひとりの村人の疑問に真摯に向き合い、彼らの日常の悩みや苦しみを聴いては、苦悩からの解放の道を指し示した。 
     やがて、メナンドロスの元を訪れる人々の中から、自らの人生を仏の教えに捧げたいと願う者たちが現れ始めた。一人の若者が「自分も仏教に帰依し、出家して人々の助けになりたい」と、訴えたのを皮切りに、家族を持つ者、年老いた者もまた、メナンドロスを師として、修行の道に入りたいと懇願するようになった。前王はそれぞれの事情を聞き、家族や生活に支障がない者にだけ、俗世を捨てることを許可した。いつの間にか、彼の隠棲の小屋は、小さな修行の場へと変わりつつあった。

     倉庫を改造したエリッサたちの小屋では、夜になるとアハルヤーがアリシャトとサヌラの言葉に耳を傾けていた。エリッサが寝てしまい、彼女の世話をする必要がなくなると、つい身の上話をしてしまうのだった。

     ある時アハルヤーはサヌラに語った。
    「サヌラ様、あなたがその細い肩に背負っているものは、あまりにも大きく、重すぎる荷です。かつて、知識の宝庫であったアレクサンドリアの図書館に集められた、あらゆる時代の文献に記された世界中の思索と叡智が、まるで巨大な渦のようにあなたの中で膨れ上がり、あなた自身を圧迫してしまっているのです。本に書かれた枯れた言葉で、あなたの瑞々しい心を埋め尽くしてはいけません。世界の重さを一人で背負うとすれば、器は割れてしまうのです。

     その膨大な知識は貴重な人類の遺産ですが、同時にあなたを縛る鎖にもなっています。一旦、その重い荷を下ろし、心の安息を得てください。世界全体の知識や運命を一人で背負う必要はありません。むしろ、あなたが、そしてあなたを囲む愛する周りの人たちが、心から大切にしている、ごく身近で、真に価値あるもの…、それは、愛情、友情、あるいは静かな日々の営みかもしれません…、それらを守り育んでいくことこそが、今のあなたには最も必要なことではないでしょうか。世界の重圧から離れ、内なる平和を取り戻すことで、あなたの本当の力が発揮されると信じています」

     またあるときは所在なさげなアリシャトにこう告げた。
    「アリシャト様、あなたの胸には、揺るぎない正義の炎が燃えています。その真っ直ぐで清らかな心は、多くの人々にとって希望の光となるでしょう。しかし、その貴い光はローマに対する激しい憎しみという暗い影に覆われてしまっています。

     歴史の流れを見れば明らかです。ローマはこれから未曾有の繁栄を遂げるでしょう。それが百年続くか二百年続くかは判りません。しかしどんなに強大な帝国も、一本の蝋燭の炎と同じ、いつかは油が尽きて静かに消え去り、滅び去る運命にあります。あなたが手を下さずとも、その因縁は避けられないのです。

     滅びゆくものへの復讐や憎悪に、あなたの限りある一生を捧げるのはあまりにももったいないと、わたくしは思います。あなたのその強い意志と能力は、もっと未来へと繋がる大切な目的のために使うべきではないでしょうか。憎しみから解放され、あなたが本当に望む、より平和で調和に満ちた世界を築くことに、その情熱を注いでいただければと願います」

     サヌラもアリシャトも、思いのほか素直にアハルヤーの言葉を聴いてしまっている自分たちに驚いた。それまで彼女たちの中で燻っていた思いが、冷たい真冬の空気にさらされて浄化されていくような気がした。
    「アハルヤーってやっぱり魔女だったんですね」
     サヌラはアリシャトに言った。
    「ああ、俺もそう思うよ」
     とアリシャトは答えた。

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    バーミアーンの春。彼方にヒンドゥークシュを望む。
    Photo by the Author / © Fudaraku Kaito 2013

     春が近づくにつれて、エリッサの状態はだんだん良くなっていった。笑うことこそなかったが、喋る言葉が増えてきて、身の回りのことも自分でできるようになってきた。アリシャトが叩く枠太鼓に合わせて、小さな声でハミングすることもあった。このままいけばきっと大丈夫だ、と二人は思った。

     ある朝、一緒に朝食の支度をしていたサヌラがアハルヤーに話しかけた。
    「アハルヤーさんのおかげで、エリッサさん、すごく落ち着いてきましたね」
    「お二人を信頼し切ってらっしゃるからだと思います。もともとあらゆることを受け入れ、それを周りに返していく強さをお持ちなのでしょう」
    「そう言えば、エリッサさんの名前の由来知ってますか」
    「いえ、存じ上げませんが」
     サヌラは語り始めた。

     「エリッサというのは、カルタゴを建国したと伝えられる女王ディードーの幼い頃の名前なんですよ。言い伝えによると、テュロスで巫女として神に仕えていた彼女は、父王の死後、兄であるピュグマリオーンに命を狙われ、家臣らと共に船で逃亡するんです。航海の末、辿り着いたのがカルタゴの地でした。周辺を支配している王に、自分たちが暮らせるだけの土地を譲って欲しいと頼むと、王は嘲笑い、一頭の牝牛の皮で覆えるだけの土地ならば与えると答えます。一計を案じた彼女は牝牛の皮を引き裂いて、数百メートルの細長い紐に結んで、それで丘を取り囲み、約束通り土地を手にした、という伝説が伝えられてます」
    「そうなんですね…」
     アハルヤーは静かに頷いた。

     食事を終えると、アハルヤーは唐突にアリシャトに尋ねた。
    「アリシャト様、エリッサ様のお母様の形見の腕輪をお持ちでしょうか?」
    「ああ、持っているが、どうするんだ?」
    「エリッサ様にお渡しして、もう一度お母様の声を聞いてもらいます」

    「バカな、あの地獄をもう一度見せると言うのか! そんなことをしたら折角良くなってきているエリッサが、また元の状態に戻ってしまう」
     アリシャトはアハルヤーに掴みかからんばかりの剣幕だ。

    「確かにエリッサ様には辛いことかもしれませんが、乗り越えなければならないのです。痛みを麻痺させたままでは、彼女の魂はカルタゴの燃える炎の中に囚われてしまいます」
     サヌラが二人の間に割って入った。
    「……どのようにするんですか」
     と、冷静に問いかけた。

    「お母様が亡くなった場面に相対してもらいます。カルタゴの滅亡はとても痛ましい出来事でしたが、亡くなった人々の声をもう一度聞いてもらうのです。その上でなんとかして自分の意志の力で記憶を整理しなければならない。それができない限りエリッサ様の不安や苦痛はずっと今のまま、心の奥底で何度でも繰り返してしまうのです」
    「それで本当に治るのか?」
    「治る、とわたくしは信じています」

    「エリッサ」
     アリシャトの呼びかけにエリッサは力無く答えた。
    「なあに、アリシャト?」
    「これに触れてくれ」
     アリシャトは丁寧に布に包まれた黄金の腕輪を取り出すと、エリッサの右手に握らせた。

    「何をするの!いや、やめて、離して!」
     エリッサは大きな叫び声をあげた。再び彼女の目の前に陰惨な光景が浮かび上がる。
    「ごめん、エリッサ、我慢してくれ!」
    「嫌よ、嫌よ、お母様が殺される。ローマ兵が恐ろしい顔で笑ってる。ああ、子供たちが死んでいく。赤ちゃんまで殺されている……」

     エリッサは大きく目を見開いて絶叫する。大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。アリシャトは逃れようとする彼女の小柄な体を両腕で抱き締めた。サヌラとアハルヤーは彼女の手を握り締め、なんとか苦しみを和らげようとしている。
    「エリッサ、エリッサ、エリッサ」
     アリシャトは何度も繰り返して名前を呼んだ。その時、エリッサの心に全く違った声が聞こえてきた。

    「エリッサ、エリッサがいいわ」
     嬉しそうなイミルケの声だ。
    「この子の名前かい」
     今度は父であるハミルカルの声。
    「そうよ、カルタゴを作ったディードーの幼い頃の名前よ」
     イミルケは赤ん坊の顔を見ながら微笑んだ。

    「カルタゴは女が作った国だから、この子にもみんなに愛される優しさと、苦難に負けない強い心を持った女性になって欲しいの」
     妻の提案にハミルカルは賛成した。
    「エリッサか、とても良い名前だと思うよ。この子はきっと君よりも美しく賢い女性に育つだろうね」
    「一言多いわよ」

     笑い合う両親の声が、エリッサの心を揺さぶった。
    「お母様、お父様、そして愛しいカルタゴ……」
     エリッサは母親の腕輪を抱えて、何度も何度も撫でさすった。目からは涙が流れてきたが、それは悲しみの発露ではなく、彼女の心を溶かしていく暖かな流れだった。

     翌朝、エリッサは小鳥の声で目覚めた。寒さに閉ざされていた渓谷に、春が訪れたのだ。降り積もった雪は溶け始め、山頂の氷も解き放たれ、澄みきった清らかな流れとなって大地を潤していく。それは、凍てついていた彼女の心と同じように、温かくゆっくりと溶けていったのだ。

     エリッサの表情に穏やかな光が戻っていた。以前の純粋な少女の面影を残しながらも、その顔つきはどこか大人びたようだ。絶望を乗り越えた彼女には凛とした強さが宿っていた。瞳の奥には、過去への追憶と共に、未来への静かな決意が秘められているようだった。

     遅れて起きてきた娘たちに、エリッサは笑顔で挨拶した。
    「おはよう、アリシャト。おはよう、サヌラ。そしておはよう、アハルヤー。みんなみんな、ありがとう。心配かけてごめんなさい。こんなあたしを支えてくれて本当にありがとう」

     アリシャト、サヌラ、アハルヤーの三人は、嬉しさで顔をくしゃくしゃにして、代わる代わるエリッサを抱擁した。エリッサはまた泣きそうになった自分が少し恥ずかしくなり、出入り口にあった水瓶を手に取った。
    「あたし、水汲んでくるね」

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    19世紀に描かれたバーミアーンの磨崖仏。衣の美しいドレープが描写されている。
    Illustration from a publication by Iwan Lawrowitsch Jaworski, 1885 / Public Domain

     エリッサが駆け足で丘を降りるていくと、同じ道を登ってくるメナンドロスの姿があった。
    「おはようございます、メナンドロスさん」
    「おはよう、エリッサさん」
     メナンドロスは笑顔でエリッサを迎えた。
    「もう大丈夫なようですね」
    「はい、みんなのお陰です」

     メナンドロスは満足そうに頷くと、北西に見える崖を指さした。
    「あそこに断崖絶壁が見えるでしょう。私はあそこに仏の姿を刻もうと思っているんです。国の富ではなく、民の祈りの象徴として慈悲の面立ちを刻み、この渓谷を仏の里にしてしまおうかと」
    「あんなところに? たったお一人で」
    「何人かの弟子たちが手伝うと言ってっくれてますが、基本的には私一人です。私が死んだら、弟子の誰かが引き継いでくれるかもしれない。その後もさらにその後も何代にも渡って引き継がれていったら、素晴らしいと思いませんか?」

     メナンドロスは笑って瞼を閉じた。
    「私には見えるんですよ。朝日を浴びて輝く仏の姿が。きっとそれはこの世界に生まれた全ての生き物に救いをもたらすだろうと思います」
     エリッサは驚いた。でもこの人だったらできるかもしれない、そしてこの渓谷が第二の仏の故郷になるのかもしれない。

    「ところで、これからどうしますか。この村に残ってもらっても構いませんよ」
     エリッサは少し考えてから答えた。
    「あたし、テュロスに行ってみたいんです。カルタゴは滅亡しましたが、テュロスにはフェニキア人がまだ住んでいると聞いています。もしかしたらご縁のある方がいるかもしれない」
    「良いですね。それならば一つお願いがあるんですが」
    「なんですか?」

    「アハルヤーを一緒に連れて行ってもらえませんか。彼女はまだ若く特別な才能を持っている。こんな老人の世話をして一生を終わらせるのは忍びないんです。それにあなたたちのことをとても気に入っているようなのです」
    「え、それはもう、アハルヤーさんさえよろしければ」
    「ありがとうございます、よろしくお願いします。あれには私からそう伝えておきましょう」

     先王はゆっくりと坂を登って行った。水瓶を頭に乗せたエリッサは飛沫をあげる小川に辿り着くと、瓶を流れに浸して水を汲んだ。水はまだ氷のように冷たい。 見渡すと辺りの樹々の枝には薄緑の芽が角ぐみはじめ、水面には小さな魚の姿もあった。遠くに見える真っ赤なチューリップの蕾に、エリッサは小さな声で「おはよう」と言った。


     お読みいただきありがとうございます。

     古代カルタゴの少女エリッサと、彼女の周りに集まった娘たちの「死と再生」の物語、ここで一旦筆を置きます。

     近い将来この続きを執筆しようと構想中です。バーミアーンからバクトリア、アンティオキア・マルギアナから砂漠を超えてヘカトンピュロスを目指し、アルボルズ山脈を越え、カスピ海と黒海を渡りニコメディアへ、そしてハンニバル終焉の地リビュッサ、再び地中海に出てカルタゴの故地テュロスに至る長い旅になると思います。

     どうぞご期待ください。

     
     
    大好きな音楽と歴史に関するファンタジー小説を書いています。子供の頃童話や絵本を読んだときに感じたワクワク感を、大人になっても味わえたら、と思って物語を作っています。本職は特殊音楽家です。

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