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#01 水の砂漠と砂の海 第一章 午後の会遇 Part 1

    【あらすじ】
    楽器に宿る過去の音楽を聴き取る不思議な力を持つ、カルタゴの少女エリッサ。ヌミディア人のアリシャトと固い絆を結ぶも、第三次ポエニ戦争の戦火が祖国と家族を無慈悲に奪い去る。 命からがらアレクサンドリアへ逃れた二人は、図書館の少女サヌラ、踊り子ネフェレトと出会い、遥かなるインドへの壮大な旅路へ。しかし、異国の女王の好意が引き金となり、過酷な宿命に直面したエリッサは心を壊し、旋律(ことば)を失ってしまう。 遺された三人は、エリッサの魂を救う「いかなる病も治す魔女」の伝承を追い、険峻なるヒンドゥークシュ山脈を越え、聖地バーミアーンの奇跡を目指す。運命に抗う少女たちの、音と祈りの交響詩。

    この記事は長編創作「水の砂漠と砂の海」の第一章「午後の会遇」のPart 1
    です。気に入って頂けたら、ぜひ続きをお読みください。
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    第一章 午後の会遇 Part1

     午後の日差しを浴びる庭園に、色とりどりの花や果実をつけた樹々が鬱蒼と茂り、甘い香りが漂っていた。木の枝をかき分けながら、ひとりの娘が急ぎ足で歩いている。淡い褐色の肌は瑞々しく輝き、しなやかな肢体は、まるでサバンナを駆ける羚羊のようだ。

     ゆったりとしたズボンと水色の薄手の上衣が、彼女の動きに合わせて軽やかに揺れる。肩から吊るした牛革製の鞘には、騎兵用の細身の剣スパタが収まっていた。足元のサンダルから延びる革紐はくるぶしからふくらはぎにかけて丁寧に巻かれ、膝下で固く結ばれている。束ねられた黒髪を包む濃紺のターバンの垂れ先が、そよぐ風にひらひらと舞っていた。

    「ちくしょう、迷っちまった」
     娘は苦々しい顔で舌打ちした。
    「どいつもこいつも庭を広げやがって。どこからが隣の家なのかさっぱり分かりゃしない。なんだってこの街の家には囲いがないんだ」
     
      その街は、地中海のほぼ中央に位置する、北アフリカから海に突き出した岬の上に築かれていた。北と東では市街地の大部分が海に面しており、東側には港が整備されている。陸地に面する南、西側は強固な城壁で防御され、さらに向こうには大きな湖があり、自然の要害となっていた。

     街は体系的な都市計画に基づき、碁盤状に整備されていた。市民たちが住む居住地区には大通りに面して四、五階建ての建物が立ち並び、一階部分は商店や飲食店になっている。公共の建物や市場が点在する中で、特に目立つのはさまざまな神を祭る神殿である。最も重要な主神バアル・ハモン神殿は、中心部で城塞化されたビュルサの丘に聳え立っていた。丘の外縁にはバアルの妻タニトの神殿があり、母親と子供の守護神として女たちの信仰をあつめていた。

     丘の周囲には有力者たちの邸宅が並び、美しい庭園が広がっている。しかし家々の敷地にはこれといった区切りがない。それほどまでに穏やかで平和な街なのだ。

     街の名はカルタゴ。北アフリカの一角に、紀元前九世紀にフェニキア人たちが建設した、二十五万の人口を抱えるこの時代屈指の大都市である。

    「親父たち、困ってるだろうな……」
     焦燥感にかられた娘は、なんとか落ち着こうと腰にぶら下げた皮袋を口につけ、中の水を一気に飲み干した。

     彼女は北アフリカの地中海沿岸からサハラ砂漠にかけての一帯を居住地とするヌミディア人の一員である。古くから広大な土地を移動しながら暮らす遊牧民で、娘も一族と共に草原を馬で駆け巡り、何百頭もの羊や山羊を追って育った。時には隊商を組み、遠く離れた都市やオアシス間で交易に従事することもある。彼らの交易品は、家畜の毛皮や乳製品など多岐にわたるが、最も重要な商品は広大な塩湖ジェリド湖で採れる塩だ。その対価として、生活に不可欠な穀物や布、金属製品などを手に入れるのである。

     湖近くのオアシスに本拠地となる定住地はあるものの、生活の大部分は、適時設営される野営地のテントで営まれている。今日は食料と生活品を買い出しに大都市カルタゴを訪れたのだった。大自然の中での暮らしに慣れた娘にとって、巨大都市の過剰な色彩と喧騒は、刺激的だった。

     初めて城壁の中に入った彼女は、華やかな喧騒に満ちたカルタゴ市の様子にすっかり心を奪われてしまった。大通りのワインや軽食を売る店からは食欲をそそる匂いが漂い、商店には色とりどりの布や鮮やかに彩色された陶器の皿や椀、ピカピカに磨かれた銅や錫の調理器具が売られている。あふれる商品に見とれている間に、父親や仲間達とはぐれ、彼らを探すうちに迷宮のような住宅街へと迷い込んでしまったのだ。

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    古代カルタゴの都市全景(復元予想図) 手前には世界を震撼させた円形の軍港「コトン」と商業港が見え、奥には都市の心臓部である「ビュルサの丘」がそびえる。AI-generated image


    「似たような植木だらけで目印にもなりゃしない。置いていかれたらやっかいだし、早く皆のところに戻らないと……」

     そう呟く彼女の耳に、遠くから空気を震わせる耳慣れない楽器の調べが届いた。そして、その音に乗って、喉を潤す冷たい水のように甘く切ない歌が重なる。聞いたことのない言葉による歌声は、海の向こうの異国の地から風とともに運ばれてきた香料のように、彼女の心を捉えて離さなかった。

     得体のしれない魅力に引き寄せられ、娘は自然と足を踏み出していた。旺盛な好奇心が木立をかき分け、草を踏みしめながら、音の出どころに向かって進んでいく。

     木漏れ日が地面にまだら模様を描き、その光の中を縫うように歩く娘の目に映るのは、さっきまで彼女を惑わせていたよそよそしい風景とはどこか違って見える。一歩進むごとに、音色は鮮明さを増し、歌声はよりはっきりと耳に届くようになった。

     突然、目の前の木々がまるで舞台の幕が上がるかのように途切れ、視界が大きく開けた。そこは澄んだ冷たい水を湛える人工の池を中心に据えた、美しいテラスだった。池の水面は、周囲の光を反射してきらきらと輝き、色とりどりの宝石を散りばめたようだ。池の脇には精巧な装飾が彫りこまれた大理石のベンチがあり、一人の小柄な少女が座っていた。

     彼女は優雅に楽器を爪弾きながら、紡ぎ出される調べに声を乗せている。歳の頃は十二歳ぐらいだろうか、幼さが残る顔立ちには、しかしどこか神秘的な雰囲気が漂っていた。乳白色の薄い亜麻布で織られたイオニア式キトンが、しなやかな体に優しく巻き付き、少女の動きに合わせてふわりと揺れる。肩に掛かった栗色の巻毛は、さざ波のように緩やかに波打ち、陽光を受けて艶やかな輝きを放っていた。

     澄み切った歌声は、乾いた風に乗って遠くまで運ばれ、天上まで届けと響き渡る。そのあまりの美しさに、息を呑んだ娘の手に思わず力が入り、握りしめていた小枝を折ってしまった。パキッという微かな音は、歌声と楽の音が織りなす緻密な空間に小さな亀裂を入れ、歌う少女の注意を引いた。
     突然の闖入者に気づいた彼女は、驚きと戸惑いから鳶色の瞳を大きく見開き、遊牧民の娘を凝視したまま動かなくなった。

    「あ、すまん、吃驚させちまった」
     娘は慌てて取り繕った。少女の顔がパッと明るくなり、満面の笑顔で微笑んだ。
    「こんにちは、お客様」
    「あ、えっと、こ、こんにちは」
    「きょうはどんなご用ですか?」
    「いや、あの、親父たちとはぐれて道に迷っちまったんだ。ごめん、邪魔したな」

     立ち去ろうとした娘は、二、三歩進んで背後を振り返った。先ほどの楽器と歌声がどうしても気になるのだ。少女は相変わらず大きな瞳で娘を見つめている。娘は少女が手にする楽器を指さした。
    「この楽器始めて見る、それからさっきのはどこの歌なんだ?」
    「これはね、ローマから来た楽器。パンドゥーラっていうの。」
    「ローマの楽器? なんだかゲンブリに似てるな…。」

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    左:ゲンブリを持つアルジェの楽人(1906年頃)
    Musicien nègre / by Jean Geiser / Public Domain (detail)
    右:パンドゥーラを演奏するミューズ、マンティネイア出土のレリーフの一部、BC4C
    Muse playing pandura / School of Praxiteles / cropped / CC BY 2.5

     ゲンブリは今も北アフリカのベルベル人がグナワ音楽に使用するロングネック・リュートだ。

    「そう、形は似てるね。でもゲンブリは表面に皮を張ってあるけど、この楽器は全部木でできているの。それからね、歌っていたのはローマの流行り歌」
    「ローマの歌なんて誰に習った?」
    「この楽器が教えてくれたの」
    「楽器が?」
    「そう、楽器はね、演奏された音楽をすべて覚えているのよ」

     少女は嬉しそうに話を続けた。
    「この楽器のもともとの持ち主は、ローマの植民市で暮らしていた女の人で、旅人たちが身体を休める宿屋の食堂で、この楽器を弾いて歌う仕事をしていたの。だからこの楽器には彼女の歌が染み付いているの」

     そう言って少女は手招きした。
    「ねえ、ちょっとこっちに来て」
     娘は甘いヴァニラの香りに包まれた少女に近づいた。彼女は楽器の絃を一本弾いた。柔らかな音を響かせながら細い糸は小刻みに振動する。

    「弾かれた絃が震えてるでしょ? この糸から楽器に伝わった震えは楽器そのものに染み込んでいく。そしていつまでも保たれるのよ」
    「楽器の中に今まで鳴らされた音楽が入ってるってことか?」
    「そう、それに歌声も覚えているわ。楽器と一緒に歌われた歌も、震えになって染み付いている。楽器の音に比べるとすごく小さいんだけど、耳をつけて注意深く聞いていると、歌われた言葉を聞き取ることもできるのよ」

     少女は楽器を耳にあてた。よく磨かれた白珊瑚のようなきめ細かい肌が共鳴板に密着する。瞼を閉じて楽器の内なる音を聞くその様子は、幽玄の世界からの神託を受けているようにも見える。

    「あんた、すごいな。なんだか神殿の巫女みたいだ」
    「そんなことないわよ。巫女たちが聞くのは今そこにいる神様の声。私は昔の人の歌声を聞くことしかできないんですもの」
     少女は空を仰いで微笑んだ。

    「私、エリッサと言う名前なの。あなたのお名前は?」
    「俺はアリシャトって言うんだ」
    「すてきな名前ね、『望まれしもの』っていう意味のポエニ語だわ。てっきり城壁の外の人だと思ってた」
    「いや、それは……」

     褐色の娘アリシャトが言い淀んだ時、二人の背後から声が聞こえた。
    「おい、エリッサ」
     アリシャトがくぐり抜けた植え込みとは逆の方向から、ひとりの少年が現れた。
    「またローマの歌を歌ってたな。遠くまで聞こえてきたぞ。いい加減にしろよ、奴らは俺たちの敵なんだぞ」
     少年の目は敵意に満ちていた。

    「そんなことないわ。ローマの歌や音楽はとっても素的よ。それにカルタゴとローマはもう二度と戦争はしないって和平協定を結んだじゃない。戦いは五十年も前に終わったのよ。私たちはローマはもちろん世界中と仲良くして、この世の全ての人と一緒に幸せにならなければならないの、お父様もそう仰ってたわ」
    「協定って、カルタゴを骨抜きにして身動き取れなくするための足枷じゃないか。お前はローマ人の約束を信じるのか?」
    「信じるわ、ローマは法律の国で、法のもとでの正義と平等が保障されてるんだから」
    「ローマの法なんか世界を支配するための道具でしかない」

     少年は苛立ちを隠さず少女に歩み寄った。
    「お前、それでもハンニバルのひ孫なのか?」
     彼の言葉に遊牧民の娘アリシャトは驚いた。
    「……ハンニバル!」

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    BC216年のカンナエの戦いで倒したローマ騎士たちの指輪を数えるハンニバル。1704年。
    Hannibal Slodtz Louvre / Sébastien Slodtz / Public Domain (detail)

     ハンニバル・バルカ。アルプスを越えてローマ本土に攻め入り、カンナエの戦いでは、当時世界最強とされたローマ軍を相手に殲滅戦を演じた、カルタゴの英雄である。ヌミディア人アリシャトにとっても、その名は単に過去の人物を意味するものではない。長老たちが語る昔話には、何度も畏怖すべき英雄として登場していたのだ。しかし目の前にいる天真爛漫な少女と、勇猛な戦士の姿はどうしても結びつず、戸惑わずにはおれなかった。

    「ところで誰だ、この小汚い野蛮人は」
     少年はアリシャトを睨みつけている。
    「失礼な。俺は誇り高きヌミディアの民だ」
     それを聞いた少年は露骨に嫌な顔をした。
    「裏切り者のヌミディア人か。汚らわしい。お前ら、以前はカルタゴの味方だったくせにローマに寝返ったよな。しかも近頃は近くの農村や隊商を襲って略奪を働いているという噂もあるぞ」

    「なんだと……」
     アリシャトの頭上に怒りの炎が燃え上がり、肩に吊るしたスパタに手を延ばそうとした。今にも斬り合いが始まりそうな二人の間にエリッサが割って入り、少年の前に立ちはだかった。
    「やめて、二人とも。略奪なんてしてるのはごく一部の人たちでしょう」

     堅く握りしめた小さな拳が震えている。
    「どこの国、どんな民族なんて関係ないわ。ヌミディアにだって悪いことをする人もいれば、友達になれる人だっている」
     エリッサはアリシャトに向かって微笑んだ。
    「そうよね、アリシャト」

     遊牧民の娘は少し顔を赤らめた。少年は吐き捨てるように言った。
    「僕の名前はハンノ。カルタゴ軍司令官ハスドルバル・ボエタルクの長男だ。それからそこにいるエリッサの婚約者だ。薄汚いヌミディア人め、もう二度とその姿を見せるなよ」
     ハンノの度重なる暴言に込み上げた怒りを、ゆっくりと息を吸い込むことでようやく飲み込んだアリシャトは、肩を震わせたまま二人に背を向けた。
    「邪魔したな」

     そう言って、もと来た道を戻ろうとしたが、一瞬足を止め、振り返らずに言った。
    「エリッサ、ありがとう。楽しかったよ」
     エリッサは、木立の中に消えていく娘の背中を追いながら微笑んだ。
    「ごきげんよう、アリシャト。また遊びに来て、約束よ」
     アリシャトはそれには答えず、茂みの中に消えていった。

    「なんかいけ好かない奴だな」
     娘の姿が見えなくなると、軍司令官ハスドルバルの息子ハンノは吐き捨てるように言った。
    「そんなことない。とても素的な方だったわ」
    「今日はもう帰る」
     プイッと背中を見せ、茂みの中に消えていった。

     一人残されたエリッサは、しばらくの間困惑した表情で座っていたが、遊牧民の娘との出会いにわくわくしたひと時を思い出すと、少し気持ちが楽になり、ローマの歌を口ずさみながらテラスの奥にある瀟洒な白亜の邸宅へと入っていった。


     お読みいただきありがとうございます。
     このお話は古代カルタゴの少女エリッサと、彼女の周りに集まった娘たちの「死と再生」の物語です。
     どうぞ最後までお付き合いください。

     
     
    大好きな音楽と歴史に関するファンタジー小説を書いています。子供の頃童話や絵本を読んだときに感じたワクワク感を、大人になっても味わえたら、と思って物語を作っています。本職は特殊音楽家です。

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