
決めないままで
文化祭の片付けが終わるころには、校舎の窓はほとんど黒くなっていた。
廊下に残った段ボールの匂いと、ワックスの薄い匂いが混ざっている。
陽斗はガムテープを剥がしながら、何度目か分からない欠伸をした。
「まだ帰んないの」
後ろから声がする。振り返らなくても分かった。
「七海こそ」
「私は仕事残ってるし」
彼女は脚立を抱えたまま、廊下の窓へ寄りかかった。文化祭Tシャツの袖が少し捲れて、白い腕が蛍光灯に照らされている。陽斗はその光景を見ないように、床のガムテープを指先で丸めた。
昔からそうだった。
七海を見すぎると、会話がぎこちなくなる。
「陽斗、絶対わざと残ってるよね」
「は?」
「帰りたくない人の残り方してる」
七海は笑う。
陽斗も曖昧に笑い返した。図星だった。
家に帰れば父親がいる。
最近ずっと空気が悪い。
テレビの音だけが大きくて、会話はない。
だから文化祭の片付けは楽だった。
学校に残る理由になるから。
でも、本当はそれだけじゃなかった。
七海が残るから、自分も残っている。
それを口にした瞬間、全部終わる気がして、一度も言えなかった。
「ねえ」
「ん?」
「さっき、沙耶と屋上いたじゃん」
陽斗の手が止まる。
「……見てたのかよ」
「たまたま」
絶対うそだ、と思った。
夕方、陽斗は沙耶に呼び止められて、少し話しただけだった。
周りから見れば、告白でもしていたように見えたのかもしれない。
「付き合うの?」
七海は軽い調子で聞く。
「いや、別に」
「ふーん」
興味なさそうな返事。
でも陽斗は、その「ふーん」に少しだけ期待してしまう。もし七海が、本当に少しでも気にしてくれていたら。そんなことを考えてしまう自分が嫌だった。
「陽斗ってさ」
七海は窓の外を見たまま言った。
「優しいんじゃなくて、決めるのが怖いだけだよね」
陽斗は笑いかけて、やめた。
「……急になに」
「だってそうじゃん」
七海は脚立の脚を軽く蹴る。
「誰にも嫌われないようにして、ちゃんと傷つかない場所にいる感じ」
廊下の向こうで、誰かの笑い声がした。もうほとんどの生徒は帰っている。静かな校舎に、その声だけがやけに遠く響いた。陽斗は何も言えなかった。
図星だった。
七海のことを好きなまま、ずっと曖昧にしていること。
家へ帰る時間をわざと遅らせていること。
傷つくかもしれない選択を、いつも後回しにすること。
告白してしまえば、何かが変わる。
変わってしまう。
今みたいに放課後に話せなくなるかもしれない。
気まずくなるかもしれない。
嫌われるかもしれない。
だから陽斗は、ずっと「まだ決めていない」場所に立ち続けていた。
七海は欠伸をひとつして、脚立を持ち上げる。
「ま、別にいいけど」
「よくない言い方しただろ今」
「でも本当じゃん」
彼女はそう言って歩き出す。数歩進んでから、ふと思い出したみたいに振り返った。
「ねえ陽斗」
「なに」
七海は少しだけ笑う。
「決めないと、そのまま終わるよ」
廊下の窓の向こうで、校庭の照明がひとつ消えた。陽斗は、その光を黙って見ていた。