
☕ Café Solas — Season 8 Episode 7 「サチ──サチの夜」
夜の店内。
雨は降っていない。
けれど、窓の外の空気は少し湿っていた。
サチは、カウンターの奥でカップを拭いている。
いつもの動き。
いつもの場所。
布が、白い陶器をゆっくり滑っていく。
ケンタは厨房で何かを温めている。
タクヤは窓際に座っている。
アキラはレジ横で帳簿を開いていた。
誰も、特別な話はしていない。
店の中には、静かな音だけが残っている。
カラン。
扉が開く。
若い女が入ってくる。
二十代前半くらい。
細い傘を持っている。
少しだけ、緊張している。
「……あ、まだ大丈夫ですか」
「どうぞ」
アキラが答える。
女は小さく頭を下げ、窓際の席に座った。
サチは水を持っていく。
「ご注文、お決まりでしたら」
女は、その声に少しだけ顔を上げる。
「あ……じゃあ、カフェラテで」
「はい」
サチは頷く。
それだけ。
けれど女は、サチが離れたあとも、
少しだけその背中を見ていた。
~~~
数年前。
ファミレス。
テーブルの上には、ほとんど手のつけられていない料理。
向かい側では、誰かがスマホを見ている。
笑い声。
けれど、そのどれもが遠い。
「……ねえ」
サチは、小さく口を開く。
誰も気づかない。
「聞いてる?」
別の話題が始まる。
サチは口を閉じる。
水の入ったグラスだけが、やけに冷たい。
~~~
「……あの」
女が、サチを呼び止める。
カフェラテを置こうとした、その時だった。
「はい?」
サチは顔を上げる。
女は少し迷ってから、言った。
「前にも、どこかで会ったことありませんか」
サチは少しだけ考える。
「……たぶん、ないと思います」
「ですよね」
女は笑う。
少しだけ、照れたみたいに。
「なんか、ごめんなさい」
「いえ」
サチはそれ以上続けない。
ラテを置く。
女は、カップに手を添えたまま、
またサチを見る。
「でも」
小さく言う。
「なんか、“前から知ってる人”みたいで」
サチは、何も答えない。
ただ、少しだけ目を伏せる。
~~~
数年前。
教室。
窓際の席。
プリントが配られている。
「後ろ、回してー」
紙が回る。
サチの前で、一度止まる。
誰かが名前を呼ぶ。
「……あ、ごめん」
その声は、サチに向けたものではない。
プリントが渡される。
それだけ。
サチは、自分の名前が呼ばれた気がしていた。
違った。
ただ、それだけだった。
~~~
店内。
ケンタが厨房から顔を出す。
「サチ、これ運ぶ」
「あ、うん」
サチは皿を受け取る。
自然な動き。
何年も前から、そうしていたみたいに。
女は、そのやり取りを見ている。
少しだけ、不思議そうに。
タクヤは窓の外を見ている。
アキラは帳簿を閉じる。
静かな時間。
誰も、それを壊さない。
しばらくして、女が席を立つ。
レジの前。
財布をしまいながら、小さく頭を下げる。
「……ありがとうございました」
「ありがとうございました」
サチが答える。
女は、そのあと少し迷って、
それから言った。
「……また来ますね」
「はい」
短い返事。
けれど女は、少し安心したように笑った。
扉が開く。
カラン、と音が鳴る。
夜の空気が、少しだけ店に入ってくる。
女はいなくなる。
サチは、しばらく扉の方を見ている。
「どうした」
アキラが聞く。
サチは、少しだけ間を置く。
それから、小さく首を振った。
「……なんでもない」
そう言って、
またカップを拭き始める。
布が、白い陶器をゆっくり滑っていく。
店の灯りは、変わらない。
ただ今夜は、
サチの名前だけが、
いつもより少し長く、
店の中に残っていた。