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☕ Café Solas — Season 8 Episode 8 「波の底で呼ばれた名前」

    ──沈んでいた“私”が、  
     ひと皿の温度で浮かび上がる夜。


    育児の波は、
    毎日をさらっていく。

    泣き声。
    ミルク。
    洗濯。
    離乳食。
    夜泣き。

    気づけば、
    自分の名前を呼ぶ
    どこにもなくなっていた。

    けれど、
    消えたわけじゃない。

    深く沈んだだけの“私”が、
    ひと皿の温度と、
    ひと口の香りで
    そっと浮かび上がる夜がある。

    Café Solas は、
    日々にさらわれた心が
    波の底から顔を出すための浅瀬。

    その夜、
    彼女は久しぶりに
    自分の名前の響きを思い出した。


    午後と夕方のあいだ。
    街の色が、ゆっくりと灰色に寄る時間。

    カラン♪

    扉の音が、店の空気をやわらかく揺らした。

    入ってきたのは、ベージュのコートを着た女性。
    肩のトートバッグの口が少し開いていて、
    そこから、小さな子供用の靴下が片方だけ覗いている。

    「……すみません」

    誰に向けたのか、自分でもわからない声。

    「どうぞ」

    アキラが、いつもの調子で答える。

    女性は小さく頭を下げ、窓際の席に腰を下ろした。
    サチが水を置く。
    グラスの表面に、店内の灯りが細く揺れた。

    「ご注文、お決まりでしたら」

    女性はメニューを開く。
    けれど、視線は文字の上を滑っているだけで、
    何かを選んでいる気配はない。

    少し間を置いてから、
    「……おすすめ、ありますか」
    と、ためらいがちに口を開いた。

    厨房の奥から、ケンタが顔を出す。

    「炙りトマトとチーズのプレート。
     今日みたいな日は、あれがいちばん落ち着きますよ」

    「それと、白ワインを少し温めたやつ。
     アルコール弱めで作れるんで」

    女性は、ほんの少しだけ目を見開いた。

    「ワインって……温めるんですか」

    「たまに。変だけど、悪くないですよ」

    ケンタは肩をすくめて笑う。

    女性は、迷うように一度メニューを見てから、
    小さく頷いた。

    「……じゃあ、それでお願いします」

    サチが静かに注文を通す。
    店の奥で、火の音と、コーヒーの香りが重なり始める。


    ◆ 数年前の春

    窓を開けると、風がカーテンを膨らませた。
    まだ子供はいない。
    まだ、“お母さん”と呼ばれていなかった頃。

    女性――紗英は、マグカップを片手にソファに浅く座っていた。
    向かい側で、夫の悠斗が袋菓子をつまみながら笑っている。

    「お前さ、味の言い方、ちょっと変だよな」

    「え?」

    「この前のワイン、“雨が降る前みたいな味”って言ってたろ」

    紗英は吹き出した。

    「だって、そういう感じだったんだもん」

    「わかるような、わからないような」

    悠斗も笑う。
    その笑い声の中に、自分の声がちゃんと混ざっていた。

    説明しなくても、
    そこに“私”がいた時間。


    ◆ 皿の上の温度

    「お待たせしました」

    サチが、炙りトマトとチーズのプレートを置く。
    赤いトマトの表面には軽い焦げ目。
    その上に、白いチーズがとろりと重なっている。

    小さな湯気が、皿の上で揺れていた。

    紗英はフォークを手に取る。
    少しだけ迷ってから、トマトとチーズを一緒に刺し、口へ運ぶ。

    熱が舌に触れる。
    そのすぐあとに、トマトの酸味が広がる。
    遅れて、チーズの丸い甘さが追いかけてくる。

    紗英の手が、そこで止まった。

    「……あ」

    声にならない声が漏れる。

    カウンターの向こうから、アキラが視線を向ける。

    「熱かったですか」

    紗英は、首を横に振った。

    「……いえ。
     なんか、思い出しそうで」

    自分でも説明できない言葉だった。

    もう一口。
    今度は、噛むたびに、何かがほどけていく感覚があった。


    ◆ 深夜二時の部屋

    暗い部屋。
    カーテンの隙間から、街灯の光が細く差し込んでいる。

    時計は、午前二時を少し回っていた。

    紗英は、泣き続ける子供を抱いている。
    背中をさすりながら、同じリズムで揺れる。
    何時間も座りっぱなしで、足の感覚が薄い。

    「大丈夫?」

    寝室のドアの隙間から、悠斗の声がする。
    眠そうな、でも責める色のない声。

    「うん。大丈夫」

    口が勝手にそう答える。
    その言葉だけが、毎晩の決まり文句になっていた。

    やがて、子供の泣き声が途切れる。
    小さな寝息に変わる。

    部屋が静かになる。
    その静けさの中で、ふと頭に浮かぶ。

    ――私、何が好きだったっけ。

    好きな音楽。
    好きな味。
    好きな匂い。

    昨日まで覚えていたはずのものが、
    急に遠くなる。

    思い出そうとすると、
    代わりに、明日の離乳食の段取りが浮かんでくる。

    そのたびに、
    胸の奥で、何かが少しずつ沈んでいった。


    ◆ グラスの向こう側

    店内に戻る。

    温めた白ワインが、小さなグラスで運ばれてくる。
    色は淡く、湯気は控えめ。
    けれど、鼻を近づけると、やわらかな香りが立ち上る。

    紗英は両手でグラスを包む。
    指先に、ぬるい温度が伝わる。

    ひと口、口に含む。

    「……あ」

    今度の「あ」は、少し違う響きだった。

    ケンタが、カウンター越しに問いかける。

    「強かったですか?」

    紗英は首を振る。

    「いえ。
     なんか……ちゃんと、入ってくる感じがして」

    「入ってくる?」

    「ここに」

    紗英は、自分の胸のあたりを指で軽く押さえた。

    「最近、何を飲んでも食べても、
     “味がする”って感じがあんまりなくて。
     お腹は満たされるんですけど……
     なんか、通り過ぎていくみたいで」

    言葉にしてみて、
    自分でも驚いたような顔をする。

    アキラが、炙りトマトの皿を下げながら口を開いた。

    「トマトって、火を入れると甘くなるんですよ」

    紗英は顔を上げる。

    「でも、酸味が消えるわけじゃない。
     ちゃんと中に残ってる」

    短い沈黙。

    「見えなくなっても、
     なくなったわけじゃないってことです」

    紗英は、グラスの中の揺れる液面を見つめた。

    店の中は静かだ。
    サチはカップを拭き、
    タクヤは窓際でノートを開いたまま、何も書かずに外を見ている。

    誰も、紗英の沈黙を急かさない。

    紗英は、ゆっくり息を吐いた。

    「……母になってから、
     “お母さん”って呼ばれることは増えたんですけど」

    そこで一度言葉を切る。

    「“紗英”って、
     自分の名前を呼ばれること、ほとんどなくなって」

    自分の名前を口にした瞬間、
    その音が、少しだけよそよそしく聞こえた。

    「前は、
     “雨みたいな味”とか、
     “夕方の匂いがするコーヒー”とか、
     変なことばっかり言ってたのに」

    紗英は、苦笑する。

    「最近は、
     “ちゃんと食べた?”とか、
     “もう寝た?”とか、
     そういう言葉ばっかりで」

    ケンタが、カウンターの中で手を止める。

    アキラは、少しだけ目を細めた。

    「火を入れる前のトマトも、
     それはそれでちゃんとトマトなんですけどね」

    アキラがぽつりと言う。

    「でも、火を入れたあとに出てくる甘さは、
     前とは違う甘さで」

    紗英は、黙って聞いている。

    「前の味が消えたわけじゃなくて、
     そこに、もう一層、重なっただけなんだと思います」

    紗英は、グラスを見つめたまま、
    小さく笑った。

    「……そうだったら、いいな」

    その声には、
    少しだけ“紗英”の響きが戻っていた。


    ◆ 波の底で呼ばれた名前

    会計を済ませ、
    紗英は扉の前で立ち止まる。

    カラン、と小さく鳴るベル。

    「……また、来てもいいですか」

    振り返りながら、
    少しだけ不安そうに尋ねる。

    アキラは、いつもの調子で頷く。

    「ええ。
     波が高くなったら、いつでも」

    紗英は、一瞬きょとんとしてから、
    ふっと笑った。

    「……はい」

    店を出る。

    夜風が頬を撫でる。
    遠くで、誰かの笑い声が聞こえる。

    歩きながら、
    紗英は自分の名前を、心の中でそっと呼んでみる。

    ――紗英。

    その音は、
    さっきより少しだけ、
    自分のものとして胸に落ちてきた。

    母になる前の“私”は、
    どこかへ流されてしまったのだと思っていた。

    けれど、
    完全にさらわれたわけじゃない。

    波の底の少し向こうで、
    まだちゃんと息をしていたのかもしれない。

    その温度を忘れないようにと、
    紗英はトートバッグの紐を握り直す。

    Café Solas の灯りは、
    背中の方で、
    変わらず静かに夜の途中を照らしていた。

     
     

    和人

     
     
    和人 52歳。 放送大学で学びながら、 小説『Café Solas』を執筆中。 就職氷河期世代として、 仕事・学び直し・健康・老後について考えています。 50代のリアルな日常と、 学び直しの記録を発信しています。 小説とエッセイを中心に更新中。

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