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Episode 8 『アキラ、記憶のページをめくる』


    閉店後のCafé Solas。

    最後のお客様を見送り、
    ドアベルの余韻だけが静かに店内へ残っていた。

    窓の外では、昼間の熱気がようやく和らぎ始め、
    夏の夜風がガラスを優しく揺らしている。

    ケンタは先に帰り、
    アイもミユキも、それぞれの「またね」を残して店をあとにした。

    店内には、アキラひとり。

    シンクには洗い終えたカップが並び、
    カウンターには、まだ片づけきれていない数客のカップが残されている。

    いつもの閉店作業。

    いつもの静かな時間。

    ……のはずだった。

    アキラは、カップへ伸ばしかけた手を止めた。

    視線は、バックヤードの奥へ向いている。

    何かに呼ばれたように。

    ゆっくりと歩き出す。

    棚の一番奥。

    普段は動かすことのない段ボール箱。

    少しだけ埃をかぶっている。

    アキラは両手で引き寄せ、
    静かに床へ置いた。

    ガムテープを剥がす乾いた音だけが、
    店内へ小さく響く。

    箱の中には、
    古いメニューの試作品、
    使わなくなったカップ、
    色褪せた紙袋。

    その下に、一冊のノートがあった。

    黒い表紙。

    角は少し丸くなり、
    長い時間を過ごしてきたことが伝わってくる。

    アキラは、それをゆっくり手に取った。

    「……久しぶりだな。」

    誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。

    表紙を撫でる。

    少しざらついた感触。

    静かに開く。

    紙の擦れる音。

    それだけで、
    時間がゆっくり巻き戻っていくようだった。

    ──────────────────

    一ページ目。

    コーヒー豆の特徴。

    抽出時間。

    湯温。

    書き込みは細かく、
    何度も書き直された跡がある。

    さらにめくる。

    「人は、味より先に空気を覚える。」

    そんな一文が残されていた。

    アキラは少しだけ笑う。

    「……昔から、同じこと考えてたんだな。」

    さらにページをめくる。

    今度は店の間取り。

    窓際の席。

    カウンターの配置。

    照明の位置。

    「午後三時、西日が気持ちいい席。」

    「一人でも落ち着ける距離。」

    「話しかけられたくない人の席。」

    今のSolasと、
    驚くほど似ていた。

    「こんな頃から考えてたのか……。」

    自分でも少し驚く。

    けれど。

    ページをめくるたび、
    途中で終わっている。

    書きかけ。

    消した跡。

    余白。

    完成しなかった言葉。

    書きたかった未来だけが、
    静かに置き去りになっていた。

    アキラの指先が、
    その余白をゆっくりなぞる。

    「……ここで止まったか。」

    その声は、
    夜の店内へ静かに溶けていった。

    ──────────────────

    カラン。

    不意にドアベルが鳴る。

    「……まだいたのか。」

    振り返ると、
    タクヤが立っていた。

    「ああ。」

    「財布忘れた。」

    苦笑しながら店へ入ってくる。

    ふと、
    カウンターのノートに目を留めた。

    「それ。」

    アキラはノートへ視線を戻す。

    「昔のノート。」

    「見ても?」

    「いいよ。」

    タクヤは向かいへ座り、
    静かにページをめくり始めた。

    店内には、
    紙をめくる音だけが響く。

    一枚。

    また一枚。

    途中で手が止まる。

    「……全部、途中なんだな。」

    「そうだ。」

    「続きは?」

    「ない。」

    短く答える。

    「書かなかった。」

    タクヤは少しだけ考え込む。

    「なんで?」

    アキラは少し笑う。

    「忙しかった……っていう理由もある。」

    「でも。」

    「たぶん、それだけじゃない。」

    静かな沈黙。

    アキラは窓の外を見る。

    「別のことを始めた。」

    「別のこと?」

    「人と話すようになった。」

    「コーヒーを淹れるようになった。」

    「誰かの話を聞く時間が増えた。」

    「ノートを開く時間より、
    目の前の人と向き合う時間のほうが多くなった。」

    タクヤはノートを閉じる。

    「じゃあ。」

    少し笑う。

    「置いていったんじゃない。」

    「歩き出したんだ。」

    アキラはその言葉に、
    ゆっくり目を細めた。

    「……そうかもしれない。」

    ──────────────────

    「コーヒー、飲むか。」

    「うん。」

    アキラはドリッパーへ豆を入れる。

    お湯を注ぐ。

    ふくらむ粉。

    立ちのぼる香り。

    静かな夜ほど、
    この音はよく響く。

    タクヤはカップを受け取る。

    一口。

    ゆっくり味わう。

    「……変わらないな。」

    「何が?」

    「味。」

    「前と同じだ。」

    アキラは苦笑する。

    「そうか。」

    「たぶん。」

    少し間が空く。

    タクヤは、
    閉じられたノートを見つめながら言った。

    「さっきのさ。」

    「ん?」

    「書かなかった続きを。」

    「今、この店で毎日書いてる気がする。」

    その一言に、
    アキラは何も返さなかった。

    返す言葉が見つからなかった。

    湯気だけが、
    静かに二人の間を漂っていた。

    ──────────────────

    タクヤが帰る。

    「お疲れ。」

    「ああ。」

    ドアベルが鳴る。

    静寂が戻る。

    アキラはもう一度、
    ノートを開いた。

    途中で終わっている文章。

    その下には、
    まだ白い余白が残っている。

    指先で、
    そっとなぞる。

    ペンは持たない。

    書き足そうとも思わない。

    静かにノートを閉じる。

    そして、
    残っていたカップをひとつずつ洗い始めた。

    いつもと同じ動き。

    けれど、
    どこか少しだけ穏やかな表情で。

    ノートの続きを、
    彼は書かなかった。

    その代わりに。

    この店で交わした言葉。

    誰かへ差し出した一杯。

    笑顔のあとに残る静かな余韻。

    そのすべてが、
    あの日書けなかった物語の続きを、
    少しずつ描いていた。

    ページの上ではなく。

    誰かの記憶の中へ。

    Café Solasという場所そのものが、
    アキラの書き続けている一冊のノートだった。

    店の灯りが、ひとつ消える。

    夏の夜風が、
    小さく窓を揺らした。

    物語は、
    まだ終わっていない。

    明日もまた、
    新しい一ページが、
    静かに始まるのだから。


     
     

    和人

     
     
    和人 52歳。 放送大学で学びながら、 小説『Café Solas』を執筆中。 就職氷河期世代として、 仕事・学び直し・健康・老後について考えています。 50代のリアルな日常と、 学び直しの記録を発信しています。 小説とエッセイを中心に更新中。

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