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Episode 9『雨とプリンと、さよなら未遂』


    夕方。

    天気予報では、
    「夜から雨になるでしょう」
    と言っていた。

    けれど。

    空は少しだけ気まぐれだった。

    西の空に残っていた光は、
    気づけば厚い雲に隠れている。

    そして。

    ぽつり。

    ガラス窓に、小さな水滴が落ちた。

    「……外れたな。」

    アキラが窓の外を見ながら呟く。

    雨は少しずつ強くなり、
    やがて店内にも、その音が届き始めた。

    カフェの中は、
    いつもより少し暗い。

    照明の柔らかな色が、
    雨の日特有の静けさを包んでいる。

    カウンターでは、
    アキラがカップを拭いていた。

    ケンタは仕込みを終え、
    厨房の奥で片づけをしている。

    タクヤは窓際の席で、
    タブレットを見ていた。

    誰も急いでいない。

    雨の日のSolasには、
    時間の流れが少しだけ遅くなる。

    その時だった。

    カラン——。

    ドアベルが鳴る。

    三人が顔を上げる。

    入口には、
    ひとりの女性が立っていた。

    傘は持っている。

    けれど、
    肩や髪の先は少し濡れている。

    まるで、
    雨宿りをする場所を探していたように。

    アキラはすぐに立ち上がった。

    「濡れる。」

    それだけ言って、
    タオルを差し出す。

    女性は少し驚いたあと、
    小さく頭を下げた。

    「……ありがとうございます。」

    その声は、
    少しだけ震えていた。

    ──────────

    女性は窓際の席へ座った。

    メニューを見る。

    でも、
    ほとんど迷わなかった。

    「……あの。」

    少し間。

    「前に、ここで……」

    言葉が止まる。

    アキラは何も急かさない。

    タクヤだけが、
    その声に反応した。

    顔を上げる。

    目が合う。

    一瞬。

    ほんの一瞬だけ。

    何かを確認するような時間。

    「ああ。」

    タクヤは、それだけ言った。

    理由も聞かない。

    近況も聞かない。

    そのまま厨房へ向かう。

    女性は少しだけ目を伏せた。

    ──────────

    厨房から、小さな音が聞こえる。

    器を出す音。

    スプーンを置く音。

    冷蔵庫を開ける音。

    雨音と混ざりながら、
    静かに時間が流れる。

    やがて。

    タクヤが皿を持って戻ってきた。

    クラシックプリン。

    少し硬め。

    ほろ苦いカラメル。

    昔から変わらない、
    Café Solasの味。

    女性の前へ置かれる。

    「……ありがとうございます。」

    タクヤは小さく頷く。

    それ以上は言わない。

    女性はスプーンを手に取る。

    でも。

    すぐには食べなかった。

    しばらく、
    プリンを見つめている。

    「……前も。」

    小さな声。

    「こうだったんです。」

    誰に向けた言葉なのか分からない。

    「食べようと思って来たのに。」

    少し笑う。

    「なかなか、食べられなくて。」

    タクヤは黙って聞いている。

    昔なら、
    何か言おうとしたかもしれない。

    でも今は違った。

    待つことができる。

    彼女は、
    ゆっくりスプーンを入れた。

    少しだけ抵抗がある。

    その感触。

    口へ運ぶ。

    一口。

    動きが止まる。

    目を閉じる。

    もう一口。

    今度は、
    少しだけ呼吸が戻った。

    「……同じだ。」

    その一言。

    タクヤは静かに頷いた。

    「はい。」

    それだけ。

    ──────────

    雨はまだ降っている。

    けれど、
    店内には不思議と静けさがあった。

    女性はプリンを食べ終える。

    皿には何も残っていない。

    スプーンを置く音が、
    小さく響く。

    アキラがそっとコーヒーを淹れる。

    何も聞かない。

    ただ、
    必要なものを置く。

    女性はカップを両手で包む。

    立ち上る湯気を見る。

    「……来てよかったです。」

    小さな声。

    「今日は、それだけ言いたくて。」

    タクヤは視線を少しだけ落とす。

    「そうですか。」

    短い返事。

    でも、
    冷たくはなかった。

    女性は少し笑った。

    「前は……」

    一瞬だけ言葉を探す。

    「ちゃんと、さよならを言いに来たつもりでした。」

    店内が静かになる。

    雨音だけが残る。

    「でも。」

    彼女はカップを見る。

    「言えませんでした。」

    タクヤは何も言わない。

    女性も、それ以上は続けなかった。

    ──────────

    しばらくして。

    雨は少しずつ弱くなっていた。

    女性は会計を済ませ、
    入口で一度振り返る。

    「……また来ます。」

    それだけ。

    ドアを開ける。

    外の雨音が一瞬だけ大きくなる。

    そして。

    ドアが閉まる。

    静けさが戻る。

    ──────────

    タクヤは皿を下げる。

    水で静かに流す。

    何も言わない。

    アキラはカップを拭いている。

    いつもと同じ動き。

    でも。

    少しだけゆっくりだった。

    ケンタが厨房から顔を出す。

    「……大丈夫だった?」

    タクヤは少し考える。

    「たぶん。」

    「たぶん?」

    「たぶんでいい気がする。」

    ケンタは何も言わなかった。

    アキラも、
    ただコーヒー豆を片づける。

    外を見る。

    雨はほとんど止んでいる。

    濡れた路面には、
    店の灯りが映っていた。

    Café Solasの中には、
    まだ少しだけ温度が残っている。

    言えなかった言葉。

    終わらせられなかった時間。

    戻ってきた理由。

    それらは全部、
    消えるわけじゃない。

    ただ。

    少しだけ形を変えて、
    明日へ進んでいく。

    雨上がりの夜。

    店の灯りは、
    いつもより少しだけ優しく見えた。

     
     

    和人

     
     
    和人 52歳。 放送大学で学びながら、 小説『Café Solas』を執筆中。 就職氷河期世代として、 仕事・学び直し・健康・老後について考えています。 50代のリアルな日常と、 学び直しの記録を発信しています。 小説とエッセイを中心に更新中。

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