
🍮 Episode 8 :『夜空に咲かぬ花火と、心に灯る夏
昼過ぎから、街はどこか浮き立っていた。
浴衣姿の人たちが駅へ向かい、屋台の準備を知らせる音楽が遠くから聞こえてくる。
年に一度の花火大会。
夏が本当に夏になる日だった。
Café Solasでも、その話題でもちきりだった。
「ケンタ、今日は落ち着かないな」
ドリップを終えたアキラが笑う。
「そりゃそうだろ。やっとだからな」
ケンタは照れくさそうに頭をかいた。
「五年越し、だっけ?」
「うん。一回目は俺が熱を出してさ。そのあと仕事だったり、台風だったり……なんだかんだ毎年行けなくて」
その話を聞いていたタクヤが小さく笑う。
「だから今年は絶対行かせようと思って、観覧席まで押さえたんだよ」
「お前、そういうとこだけ妙に気が利くよな」
「"だけ"はいらないだろ」
店内に笑い声が広がる。
そこへ、控えめな足音が近づいた。
「こんにちは」
ミユキだった。
淡い藍色の浴衣が、とてもよく似合っている。
ケンタは一瞬言葉を失い、それから照れ隠しのように笑った。
「……反則だろ、それ」
「え?」
「いや、なんでもない」
ミユキは首をかしげながら笑う。
その笑顔だけで、ケンタは今日一日を楽しみに待ってきた理由を思い出した。
「じゃあ、行ってきます」
「楽しんでこい」
「写真、撮ってこいよ」
「来年の宣伝に使うから」
「それはイヤ」
四人は笑いながら店をあとにした。
◇
夕方。
閉店準備を終えたソラスには、アキラとタクヤだけが残っていた。
外は少しずつ暗くなり、窓の向こうには花火を待つ人たちの姿が見える。
「そろそろ始まる頃か」
時計を見るアキラ。
「うまく見えてるといいな」
タクヤがそう言った、その時だった。
空が一瞬だけ白く光る。
そして。
ゴロゴロ……
遠くで雷が鳴った。
「……嫌な音だな」
次の瞬間。
バラバラバラッ——
激しい雨が窓を叩いた。
まるで空がひっくり返ったような豪雨だった。
「うわ……」
タクヤがスマホを開く。
画面には速報が表示されていた。
『花火大会 荒天のため中止』
二人は顔を見合わせる。
誰も悪くない。
それでも、残念だった。
アキラは静かにスマホを取り上げる。
『終わったら寄れよ。コーヒー淹れとく。』
短いメッセージだけ送った。
◇
三十分ほど経った頃。
カラン——
ベルが鳴る。
扉の向こうには、ずぶ濡れになったケンタとミユキが立っていた。
「おかえり」
アキラは、それだけ言った。
ケンタは苦笑いを浮かべる。
「……ダメだった」
「うん」
「開始五分前で中止だってさ」
「うん」
それ以上、慰める言葉はなかった。
言葉よりも、温かいコーヒーのほうが似合う夜だった。
アキラは二人の前に湯気の立つカップを置く。
「ありがとう」
ミユキが小さく微笑む。
しばらく誰も話さなかった。
雨音だけが静かに店を包んでいた。
やがてタクヤが立ち上がる。
「ちょっと待ってて」
奥の棚を開け、紙袋を抱えて戻ってくる。
「実はさ」
中から取り出したのは、小さな手持ち花火だった。
「もしもの時用」
ケンタが吹き出す。
「お前、保険かけてたのか」
「なんとなくね」
アキラが窓の外を見る。
さっきまでの豪雨が嘘のように、小雨へと変わっていた。
「……やるか」
「え?」
「夏を、やり直そう」
その一言に、ミユキが嬉しそうに笑った。
◇
店の裏手。
雨上がりのアスファルトは、まだ少しだけ濡れていた。
四人はしゃがみ込み、小さな火を灯す。
パチッ。
細い光が夜を照らした。
「打ち上げ花火には負けるな」
ケンタが笑う。
「比べる相手が大きすぎるよ」
ミユキが笑い返す。
しばらく四人は何も話さず、揺れる火を見つめていた。
線香花火の小さな光は、誰かに見せるためではなく、自分たちだけのために咲いていた。
ぽつり、とケンタが言う。
「……あんなに楽しみにしてたのにな」
その声には、少しだけ悔しさが混じっていた。
ミユキは消えかけた火を見つめながら、静かに首を振る。
「私はね」
「うん?」
「花火を見たかったんじゃないよ」
ケンタが振り向く。
「ケンタくんと、夏を過ごしたかっただけ。」
その言葉に、ケンタは何も返せなかった。
ただ照れくさそうに笑って、小さく頷く。
「……そっか」
線香花火が、最後に一度だけ強く輝く。
そして、静かに消えた。

店へ戻ると、アキラがホットコーヒーを淹れ直した。
夏なのに、不思議と温かいものが飲みたくなる夜だった。
雨はまだ、細く降り続いている。
誰も急いで帰ろうとはしなかった。
ミユキが窓の外を眺めながら、小さくつぶやく。
「今年の夏、終わっちゃったね」
その言葉に、アキラは首を横に振る。
「いや。」
三人が顔を上げる。
「今日から先、毎年この日を思い出す。」
少し笑って続けた。
「花火は見られなかったけど、いい夏だったって。」
誰も返事はしなかった。
でも、その沈黙は、とてもあたたかかった。
夜空には、一発の花火も咲かなかった。
それでも。
Café Solasには、この夏いちばんやさしい光が灯っていた。
