
☕ Episode 5 『夏のはじまり、アイスコーヒーと彼女の決意』
朝の陽射しが、Café Solasの大きな窓いっぱいに差し込んでいた。
昨日までより少しだけ強い光。
まだ梅雨は明けていないはずなのに、
季節は確かに夏へ向かい始めていた。
カラン。
氷がグラスに落ちる澄んだ音が、静かな店内に響く。
アキラは丁寧にコーヒーを抽出し、
ゆっくりと氷の上へ注いでいく。
琥珀色の液体がゆらぎ、
白い冷気がふわりと立ちのぼった。
「……今年最初のアイスコーヒーだな」
その一言に、
厨房からケンタが顔を出す。
「もうそんな季節か」
「季節は、人が思うより正直だからな」
アキラは静かに微笑んだ。
タクヤは窓際でパソコンを閉じる。
「ホットを頼む人より、
アイスを頼む人の方が増えた。」
「数字で季節を感じるタイプか」
ケンタが笑う。
「仕事柄な」
店内に、穏やかな笑いが広がった。
──────────
昼過ぎ。
カラン。
ドアベルが鳴る。
「こんにちはー。」
明るい声とともにミユキが入ってくる。
「暑い……まだ六月なのに。」
「いらっしゃい。」
アキラは迷わず答える。
「今日は?」
「もちろんアイスコーヒー。」
「だと思った。」
ケンタが笑う。
グラスが置かれる。
透明な氷。
ゆっくり流れる琥珀色。
ミユキは一口飲み、
満足そうに目を細めた。
「やっぱりここのアイスコーヒー好き。」
その表情を見て、
ケンタはふとレジ横へ目を向けた。
「あ。」
昨日まで飾られていた缶バッジとは違う。
新しいキャラクターが並んでいる。
「また変わった?」
ミユキは苦笑する。
「気づいちゃった?」
「気づくよ。」
「昨日届いたの。」
ケンタは腕を組む。
「なあ。」
「ん?」
「推しってそんな簡単に変わるもんなの?」
ミユキは少しだけ考えた。
すぐには答えない。
氷が、小さく音を立てる。
「……変わった、じゃないかな。」
「え?」
「増えた、かな。」
ケンタは首をかしげる。
「好きだったものを嫌いになったわけじゃないの。」
「前から好きだったものは、今もちゃんと好き。」
「でも、新しく好きなものにも出会った。」
「だから、心の中が少し広くなっただけ。」
店内が少し静かになる。
アキラはコーヒーを淹れる手を止めない。
タクヤはその言葉だけを静かに聞いていた。
ケンタはぽつりと言う。
「そんな考え方もあるのか。」
ミユキは笑う。
「人って、変わるんじゃなくて、増えていくこともあるんだよ。」
「好きなものも。
大切な人も。
居場所も。」
その言葉に、
アキラがゆっくり頷く。
「変わることは、失うことじゃない。」
「新しい景色が増えることもある。」
ミユキは少しだけ照れくさそうに笑った。
「……実はね。」
「今日、一つ決めたことがあるの。」
ケンタが顔を上げる。
「決めた?」
「うん。」
「ずっとやりたいと思ってたことがあるの。」
「でも、『私には無理かな』って決めつけてた。」
「今日、このアイスコーヒー飲んでたら思った。」
「夏が始まるなら、私も始めてみようかなって。」
「何を?」
ケンタが聞く。
ミユキはいたずらっぽく笑う。
「まだ秘密。」
「成功したら話す。」
「失敗したら?」
「笑って。」
その返事に、
店内の空気がふっと和らいだ。
──────────
夕方。
ミユキは帰り支度をする。
「ごちそうさま。」
「また来るね。」
ドアベルが静かに鳴り、
夏の光の中へ消えていった。
少しの沈黙。
ケンタがアイスコーヒーを一口飲む。
「……なんかさ。」
「変わるって、悪いことばっかじゃないんだな。」
タクヤが笑う。
「ようやく気づいたか。」
「うるさい。」
アキラは空になったグラスを手に取る。
窓の外では、
木々の葉が夏の風に揺れていた。
「季節は止まらない。」
「だから人も、
少しずつ前へ進けばいい。」
その言葉に、
二人は静かに頷く。
グラスの中で、
最後の氷が小さく音を鳴らした。
今年最初のアイスコーヒー。
その一杯は、
夏の始まりだけではなく、
誰かが新しい一歩を踏み出す、
小さな合図にもなっていた。