メインコンテンツへスキップ
見出し画像

Episode 6『カウンターの影で、コーヒーは冷めない』

    午後三時。

    一日の中で、
    Café Solasがいちばん静かになる時間。

    昼の賑わいは過ぎ、
    夕方の足音はまだ遠い。

    窓から差し込む陽射しだけが、
    ゆっくりと店内を横切っていた。

    コーヒーミルも止まり、
    店内には小さなジャズが流れている。

    その静けさを破ったのは、ケンタだった。

    「……静かだな」

    カフェラテを一口飲みながら、ぽつりと呟く。

    アキラはカウンターを拭く手を止めず、小さく頷いた。

    「こういう時間も、この店には必要なんだ」

    「でもさ」

    ケンタは店内を見渡す。

    「お客さんが誰もいないと、ちょっとだけ落ち着かなくならない?」

    「最初の頃はな」

    アキラは少し笑う。

    「今は違う」

    「静かな時間も、この店の仕事だと思ってる」

    ケンタは店内を見回しながら頷いた。

    「……なるほどな」

    その隣では、
    タクヤが磨いたグラスを光にかざしている。

    何度も磨いているのに、
    まだ磨いている。

    その様子を見てケンタが笑う。

    「それ、もう十分きれいだろ」

    タクヤは苦笑した。

    「……手が止まると、余計なこと考えるから」

    「何かあった?」

    少しだけ沈黙。

    「昨日さ」

    タクヤは視線を落とす。

    「アイが話しかけてくれてたのに、
    仕事しながら適当に返事しちゃって」

    「聞いてるつもりだったんだ」

    「でもあとで思い返したら、
    返事だけして、中身は全然聞いてなかった」

    ケンタが苦笑する。

    「あー、それはある」

    「あるのかよ」

    「あるある」

    二人が笑う。

    アキラだけは何も言わない。

    ただ静かに、
    新しいコーヒーを淹れ始めた。

    お湯が豆を通る音だけが、
    店内をゆっくり満たしていく。

    ──────────

    窓際では、
    アイがスケッチブックを広げていた。

    テーブルには水のグラス。

    鉛筆だけが、
    静かに紙の上を走っている。

    カリ……

    カリ……

    規則正しい音。

    誰も邪魔をしない。

    タクヤが目を離すたびに、

    鉛筆だけは止まらない。

    カリ……

    カリ……

    まるで、
    言葉の代わりに何かを伝えようとしているようだった。

    タクヤは何度か視線を向ける。

    けれど、
    アイは一度も顔を上げない。

    「……話しかけないのか?」

    ケンタが小声で聞く。

    「今じゃない気がする」

    「怒ってる?」

    「たぶん」

    「でも帰らない」

    「うん」

    「それなら、大丈夫じゃないか」

    タクヤは少し笑う。

    「そうだといいけど」

    ──────────

    時間はゆっくり流れていく。

    窓の外では、
    夏の風が街路樹を揺らしていた。

    やがて。

    アイが鉛筆を止める。

    一枚の紙を見つめ、
    小さく息をつく。

    そして顔を上げた。

    「……タクヤ」

    「ん?」

    「見る?」

    少しだけ照れくさそうな笑顔。

    タクヤは立ち上がり、
    窓際へ向かう。

    スケッチブックを覗き込む。

    そこに描かれていたのは、
    自分だった。

    窓際に座り、
    グラスを磨いている横顔。

    少し伏せた視線。

    何か考え込んでいる表情。

    細い線だけで描かれているのに、
    不思議なくらい温度がある。

    タクヤはしばらく何も言えなかった。

    「……俺?」

    「うん」

    「よく見てるな」

    アイは少し笑う。

    「見てるよ」

    少しだけ間を置いて、

    「ずっと」

    その一言だけだった。

    でも、
    昨日聞けなかった言葉より、
    ずっと心に届いた。

    タクヤは静かに息を吐く。

    「……ごめん」

    アイは首を横に振る。

    「今日は聞いてくれたから」

    「それで十分」

    タクヤは照れくさそうに笑う。

    「ありがとう」

    「こちらこそ」

    二人はそれ以上何も言わなかった。

    でも、
    その沈黙は昨日とは違っていた。

    ──────────

    カウンターへ戻るタクヤ。

    さっきまで磨いていたグラスを手に取る。

    今度は、
    自然に笑っていた。

    ケンタがその様子を見て、
    小さく肩をすくめる。

    「よかったじゃん」

    「……うん」

    短い返事。

    それだけで十分だった。

    アキラは出来上がったコーヒーを二人の前へ置く。

    「飲め」

    「冷める前に」

    タクヤはカップを手に取る。

    湯気がゆっくり立ち上る。

    一口飲む。

    「……うまい」

    アキラは穏やかに微笑んだ。

    「想いも、コーヒーも」

    「冷めないうちに伝えるのが、一番だからな」

    誰も返事はしなかった。

    でも、
    その言葉は静かに店の中へ溶けていく。

    窓の外では、
    夕陽が少しずつ西へ傾いていた。

    カウンターの影は長く伸び、
    その先には、
    変わらず絵を描き続けるアイの姿があった。

    言葉は少なくてもいい。

    ちゃんと見ている人がいて、

    ちゃんと受け取る人がいる。

    カップから立ちのぼる湯気は、

    言葉にならなかった想いまで、
    静かに包み込んでいた。

    コーヒーは、まだ冷めない。

    きっと、
    二人の想いも。



     
     

    和人

     
     
    和人 52歳。 放送大学で学びながら、 小説『Café Solas』を執筆中。 就職氷河期世代として、 仕事・学び直し・健康・老後について考えています。 50代のリアルな日常と、 学び直しの記録を発信しています。 小説とエッセイを中心に更新中。

    あなたへのおすすめ