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🍮 Episode 7 『閉店後の仁義なき掃除戦 ― スティックのりと、女神の鉄槌 ―』

    最後の客を見送った。
    カラン――。
    ドアが閉まる。
    店内に、閉店後特有の静けさが戻ってきた。
    アキラはカウンターの時計を見る。
    「……よし」
    ケンタが嫌そうな顔をする。
    「その『よし』、何?」
    「掃除」
    「帰ろう」
    「まだ何もしてないだろ」
    「だから今なら間に合う」
    「逃げるな」
    「高校の頃から変わってねぇな、お前」
    タクヤが横から言った。
    「二人とも、掃除から逃げるときだけ仲がいい」
    「お前もだろ」
    「俺は逃げてない」
    「じゃあやれよ」
    「……今、心の準備をしてる」
    「一番ダメなやつじゃねぇか」
    三人は顔を見合わせた。
    そして、誰からともなくため息をついた。
    結局、掃除を始める。
    アキラはカウンター。
    ケンタは厨房。
    タクヤは客席。
    ――のはずだった。
    五分後。
    タクヤが床にしゃがみ込んでいる。
    「……何してる?」
    アキラが聞く。
    「これを直してる」
    タクヤが手にしているのは、真っ二つに折れたスティックのり。
    透明テープでぐるぐる巻きにされている。
    ケンタが厨房から顔を出した。
    「それ、いつから使ってんの?」
    「覚えてない」
    「もう寿命だろ」
    「まだ使える」
    「使えないから折れてんだろ」
    「折れただけで、機能は失われてない」
    「お前、のりに人生観持たせるなよ」
    アキラが笑う。
    「買えばいいじゃないか」
    「もったいない」
    「百円ちょっとだぞ」
    「金額の問題じゃない」
    「じゃあ何の問題だよ」
    タクヤは真顔で答えた。
    「ここまで一緒にやってきた時間の問題」
    一瞬、沈黙。
    ケンタが小さく呟いた。
    「……そこまで言われるとのりも幸せだな」
    「だろ?」
    「いや、褒めてねぇ」
    アキラが笑いながら首を振る。
    「まあ、好きにしろ」
    「うん」
    タクヤが、のりを持ち上げる。
    その瞬間――
    ポトッ。
    床に落ちた。
    コロコロ……。
    三人の視線が、同時に転がるのりを追う。
    タクヤが拾おうとする。
    アキラも手を伸ばす。
    ケンタもしゃがむ。
    三人の手が重なった。
    「……」
    「……」
    「……何やってんだ、俺ら」
    ケンタが笑った。
    アキラも笑う。
    タクヤまで吹き出した。
    そのとき。
    タクヤが、何気なくのりを持ち上げた。
    そして――
    無意識に。
    スッ。
    唇に塗った。
    「…………」
    「…………」
    「…………」
    三秒。
    誰も動かなかった。
    ケンタが震えながら言う。
    「……タクヤ」
    「ん?」
    「それ、リップじゃないぞ」
    タクヤの顔が止まる。
    ゆっくり、のりを見る。
    「……あ」
    アキラが腹を抱えた。
    「お前……!」
    ケンタも耐えきれない。
    「何してんだよ!」
    「いや、これは……」
    「何が『これは』だよ!」
    「疲れてた」
    「疲れてても塗らねぇよ!」
    タクヤが慌てて口元を拭く。
    「……味は?」
    アキラが聞く。
    「聞くな!」
    「いや、気になるだろ」
    「ならない!」
    ケンタはもう立っていられない。
    「ダメだ……今日の掃除、もうこれだけで元取った……」
    「元って何だよ」
    「知らん!」
    三人の笑い声が店内に響く。
    ――そのときだった。
    カサッ。
    笑いが止まる。
    三人が同時に床を見る。
    「……今の何?」
    ケンタが小声で言った。
    「知らない」
    アキラも小声になる。
    タクヤが耳を澄ます。
    カサ……。
    「……何かいる」
    「やっぱり?」
    「たぶん」
    三人がゆっくり顔を見合わせる。
    そして――
    黒い影が、棚の下を走った。
    「うわっ!」
    ケンタが飛び退く。
    「出た!」
    アキラが一歩下がる。
    タクヤは無言でモップを持った。
    「お前、何する気?」
    「戦う」
    「何と?」
    「何かと」
    「一番怖い答えだな!」
    影が再び動く。
    「来た!」
    「ケンタ、右!」
    「なんで俺!」
    「厨房から一番近い!」
    「理由が雑!」
    タクヤがモップを構える。
    「俺が追い込む」
    「待て待て待て!」
    アキラが止める。
    「店を壊すな」
    「じゃあどうする?」
    「……」
    三人が考える。
    沈黙。
    そしてケンタが言った。
    「掃除機は?」
    アキラが首を振る。
    「音で逃げる」
    「じゃあ、ほうき」
    「見失う」
    「じゃあ……」
    タクヤが手にしているものを見る。
    スティックのり。
    「これで――」
    「何をする気だ!」
    三人同時に笑い出す。
    「ダメだ、もう!」
    「今日の俺ら、どうかしてる!」
    そのとき――
    カラン。
    ドアベルが鳴った。
    三人の動きが止まる。
    「こんばんは」
    ミユキだった。
    傘を閉じながら店内へ入ってくる。
    そして、目の前の光景を見る。
    モップを構えたタクヤ。
    ほうきを持つアキラ。
    床にしゃがみ込んだケンタ。
    散らかった掃除道具。
    そして、ケンタの手にはなぜか殺虫スプレー。
    ミユキは数秒、黙って三人を見る。
    「……何してるの?」
    ケンタが答える。
    「掃除」
    「……そう」
    「掃除」
    「うん」
    ミユキが店内を見渡す。
    「どこを?」
    三人とも黙る。
    ミユキが床を見る。
    それから、三人を見る。
    「……掃除って、こういうものだっけ?」
    アキラが小さく笑った。
    「今日はちょっと特殊でな」
    「何が?」
    「敵がいる」
    「敵?」
    ケンタが小声で言う。
    「黒いやつ」
    ミユキの表情が変わる。
    「……ゴキ?」
    三人が同時に頷く。
    ミユキは少し考えた。
    そして――
    「私、帰っていい?」
    「待って!」
    ケンタが叫ぶ。
    「女神が逃げたら俺ら終わる!」
    「女神って誰?」
    「今のところミユキ」
    「勝手に決めないで」
    アキラが笑う。
    「まあ、見てるだけでいい」
    「何を?」
    「男三人がどれだけ役に立たないか」
    「……なるほど」
    ミユキが椅子に座る。
    三人を見る。
    「じゃあ、続けて」
    「見世物じゃねぇんだけど……」
    ケンタがぼやく。
    その瞬間。
    黒い影が、もう一度走った。
    「いた!」
    三人が同時に動く。
    「右!」
    「左!」
    「どっちだよ!」
    「俺にもわからん!」
    モップが空を切る。
    ほうきがテーブルに当たる。
    ケンタが椅子を避ける。
    タクヤが叫ぶ。
    「逃げた!」
    アキラが叫ぶ。
    「どこへ!」
    「そっち!」
    「そっちってどっち!」
    「……わからない!」
    ミユキが、とうとう笑い出した。
    「もう、いいから!」
    三人が止まる。
    ミユキは立ち上がった。
    そして、ほうきをアキラから受け取る。
    「掃除って、追いかけ回すことじゃないでしょ」
    「……はい」
    三人が素直に返事をする。
    「まず物を片付ける」
    「はい」
    「床を出す」
    「はい」
    「それから、落ち着いて探す」
    「はい」
    「三人とも、声が大きい」
    「……はい」
    ケンタが小声で呟く。
    「なんで高校の頃から、ミユキには勝てないんだろうな」
    アキラが笑う。
    「昔からだろ」
    タクヤも頷く。
    「俺たち、三人とも同級生なのに」
    「だから余計にだよ」
    ミユキが振り返る。
    「聞こえてるよ」
    「……はい」
    三人がまた同時に返事をした。
    ミユキは笑った。
    「ほら。やればできるじゃん」
    それから四人で掃除を始めた。
    今度は、本当に静かに。
    床を掃く。
    テーブルを拭く。
    椅子を戻す。
    厨房を片付ける。
    三十分後。
    店内は、すっかり元通りになっていた。
    アキラが店内を見渡す。
    「……やっぱり、きれいになると気持ちいいな」
    ケンタが腕を伸ばす。
    「最初からやればよかったな」
    タクヤが言う。
    「来週からは、閉店後すぐ掃除しよう」
    ケンタが振り返る。
    「それ、先週も言ってたぞ」
    「そうだっけ?」
    「言ってた」
    アキラが笑う。
    「三人とも、昔から口だけは立派だな」
    「お前もだろ」
    「俺は店主だから」
    「それ関係ある?」
    「ない」
    即答だった。
    三人が笑う。
    ミユキも笑う。
    ふと、タクヤが床を見る。
    「……ところで」
    「何?」
    「結局、あいつは?」
    全員が止まる。
    店内を見る。
    棚の下。
    厨房の隅。
    カウンターの裏。
    何もいない。
    「……逃げた?」
    ケンタが言う。
    アキラが首を傾げる。
    「たぶんな」
    タクヤが少し考える。
    「じゃあ、今日は俺たちの勝ち?」
    ミユキが笑う。
    「そういうことにしとけば?」
    ケンタが胸を張る。
    「勝ったな」
    アキラが頷く。
    「ああ」
    タクヤも頷く。
    「完全勝利」
    その瞬間。
    厨房の奥から――
    カサッ。
    四人が固まる。
    「…………」
    「…………」
    「…………」
    ミユキが静かに言った。
    「……帰ろうか」
    三人が即答した。
    「そうしよう」
    「賛成」
    「異議なし」
    カラン――。
    四人が店を出る。
    最後にアキラが振り返る。
    誰もいない店内。
    磨かれたカウンター。
    整えられた椅子。
    静かな灯り。
    そして――
    厨房の奥で、もう一度。
    カサッ。
    アキラはドアを閉めた。
    「……明日、考えよう」
    ケンタの声が聞こえる。
    「お前、店主だろ!」
    「だから明日だ」
    「逃げた!」
    タクヤが笑う。
    「高校の頃から変わってないな」
    「お前らもだろ!」
    夜のCafé Solasに、
    三人の笑い声が遠ざかっていった。
    そして店内には、
    きれいになった床と、
    使い古されたスティックのりだけが残った。
    ――それだけは、
    最後まで捨てられなかった。


     
     

    和人

     
     
    和人 52歳。 放送大学で学びながら、 小説『Café Solas』を執筆中。 就職氷河期世代として、 仕事・学び直し・健康・老後について考えています。 50代のリアルな日常と、 学び直しの記録を発信しています。 小説とエッセイを中心に更新中。

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