
☕ Café Solas スピンオフ「欠けたピースの記憶(メモワール)」 第2話:書きかけの楽譜ー未練ー
音が、途中で途切れていた。
まるで、
言葉を飲み込んだまま、
その先へ進めなくなったように。
午後のCafé Solas。
昼の忙しさが過ぎた店内には、
カップの触れ合う小さな音と、
遠くで流れるピアノのBGMだけが残っていた。
ケンタがカウンターに肘をつく。
「……なんかさ」
アキラが顔を上げる。
「昨日のこと、まだ引っかかってるんだけど」
「だろうな」
「いや、“だろうな”じゃなくてさ」
ケンタは少し身を乗り出した。
「絶対、あれ普通じゃないだろ」
タクヤがコーヒーを淹れながら、淡々と答える。
「普通かどうかで言えば、普通じゃないな」
「じゃあ――」
「だからって、全部関わる必要はない」
ケンタが口をつぐむ。
アキラは、ほんの少しだけ視線を落とした。
その日の夕方。
店は少しだけ混んでいた。
最後の客を見送ったあと、
アキラがテーブルを片づけていると、
一枚の紙が残されていることに気づいた。
「……また忘れ物か」
手に取る。
少し黄ばんだ紙。
角が折れている。
そこに書かれていたのは、
五線譜だった。
数小節だけ、
短いメロディが書かれている。
そして――
途中で止まっていた。
「楽譜?」
ケンタが覗き込む。
「誰かの作曲かな」
タクヤが振り返った。
その瞬間、
表情がわずかに変わる。
「……見せろ」
アキラが紙を渡す。
タクヤは、しばらく何も言わなかった。
指先で、書かれた音符をなぞる。
字は決してきれいではない。
けれど、迷いはなかった。
音符の並びには、
その先へ続こうとした意思がある。
それなのに、
そこで止まっている。
「……中途半端だな」
タクヤが呟いた。
その言葉と同時に、
頭の中で音が鳴った。
未完成の旋律。
繋がりそうで、
繋がらない。
何度も書き直した跡。
消して。
また書いて。
それでも思ったような形にならない。
あと少し。
あと少しで届きそうなのに――
その距離だけが、
どうしても埋まらない。
やがて、
ペンが止まる。
長い沈黙。
そして、
楽譜は閉じられる。
もう続きを書くことはない。
「……はぁ」
タクヤが小さく息を吐いた。
アキラとケンタが黙って見ている。
ケンタが尋ねた。
「何、感じた?」
タクヤは少し考えてから答える。
「……未練」
「未練?」
「やりきれなかったものの未練」
淡々とした声だった。
けれど、その言葉だけが妙に重く残った。
ケンタが楽譜を見る。
「これさ」
「うん」
「やっぱり、何かあるんだよ」
「あるだろうな」
「だったら――」
「やめとけ」
タクヤが言葉を重ねる。
ケンタが止まる。
「それ以上は、ただの詮索だ」
「でも、気になるだろ」
「気になるのと、踏み込むのは違う」
タクヤは静かに言った。
「本人が置いていったものなら、
本人が置いていった理由もある」
ケンタは何も返さなかった。
しばらくして、
アキラが口を開く。
「……タクヤは、気にならないのか?」
一瞬だけ、
タクヤの動きが止まった。
楽譜を見る。
「……気になるよ」
低い声だった。
「でもな」
タクヤは紙をカウンターに置く。
「これは、たぶん……終わってる」
「終わってる?」
「本人の中でな」
ケンタが黙って楽譜を見る。
タクヤは続けた。
「完成しなかったんじゃない」
少しだけ間を置く。
「終わらせたんだよ」
その言葉に、
誰もすぐには返せなかった。
「諦めたのかもな」
ケンタが言う。
「違う」
タクヤは即答した。
「……選んだんだよ」
その一言だけが、
店内に残った。
そのとき、
店内に流れていたピアノの音が耳に入った。
完成された曲。
途切れることなく続いていく旋律。
タクヤは、もう一度だけ楽譜を見る。
途中で止まった、
ほんの数小節。
完成された曲よりも、
なぜかそちらのほうが強く残っていた。
「……これ、どうする?」
アキラが尋ねる。
ケンタは少し考える。
「探すか?」
「やめとけ」
またタクヤだった。
「これは、返すものじゃない」
「なんでだよ」
タクヤは楽譜から目を離さない。
「たぶん、これは――」
少しだけ言葉を探す。
「置いていったものだから」
「忘れたんじゃなくて?」
「……たぶん違う」
タクヤは静かに答えた。
「ここに、残していったんだと思う」
意図的に。
ここへ。
誰かに見つけてもらうためだったのか。
それとも、
誰にも見つけられないためだったのか。
それは、
誰にもわからない。
アキラはしばらく楽譜を見つめていた。
そして、ゆっくりと頷く。
「……じゃあ、そのままにしておこう」
楽譜を折らないように、
そっと棚へ戻す。
前に置かれた忘れ物の隣へ。
二つの記憶が、
静かに並んだ。
カラン。
ドアベルが鳴る。
新しい客が入ってくる。
「いらっしゃいませ」
アキラがいつもの声で迎える。
ケンタも厨房へ戻る。
タクヤはカウンターの中で、
もう一度だけ棚を見る。
そして、
何も言わずに仕事へ戻った。
日常は続いていく。
未完成のままでも、
終わることはある。
けれど、
終わったからといって、
そこにあった時間まで消えるわけではない。
棚の片隅で、
書きかけの楽譜は静かに残っていた。