
☕ Café Solas スピンオフ「欠けたピースの記憶(メモワール)」 第3話:片方だけのイヤリング-偽り-
雨の日は、
店の中にあるものが
いつもより少しだけよく見える。
窓を打つ雨。
濡れた傘。
カウンターに置かれた、
誰かの忘れ物。
そして――
そこにないものまで。
午後のCafé Solas。
客は少なかった。
窓の外では雨が細く降り続いている。
ケンタはカウンターの中で、
暇そうにグラスを磨いていた。
「……雨の日って、時間長くない?」
「長さは変わらない」
アキラはコーヒーを淹れながら答える。
「わかってるよ。
そういう意味じゃなくて」
「じゃあ、どういう意味だ」
「……暇ってこと」
「それはわかる」
タクヤが本から顔を上げる。
「二人とも、同じこと言ってる」
「お前は暇じゃないのか?」
「本読んでる」
「それ、仕事?」
「違う」
「じゃあ暇じゃん」
「そうなるな」
三人の会話が、
そこで途切れる。
雨音だけが残った。
しばらくして、
アキラが棚の整理を始めた。
そこには、
この店に置き忘れられていったものが
いくつか並んでいる。
傘。
ハンカチ。
文庫本。
小さなキーホルダー。
そして――
透明な袋に入った、
ひとつのイヤリング。
アキラが手に取る。
白いフェイクパール。
小さく、
控えめなデザインだった。
「……また片方か」
ケンタが覗き込む。
「最近、片方だけ多くない?」
「そうか?」
「靴下とかイヤホンとかさ。
片方だけって、なんか寂しくない?」
タクヤが本から目を上げる。
「片方だけだからって、
持ち主が寂しいとは限らないだろ」
「……まあ、そうだけど」
アキラはイヤリングを眺める。
綺麗だった。
ただ、
片方しかない。
それだけだった。
そのとき。
カラン――♪
ドアベルが鳴った。
若い女性が入ってくる。
傘を閉じ、
濡れた髪を軽く整える。
「いらっしゃいませ」
アキラが声をかける。
女性は軽く頭を下げ、
空いている席へ向かう。
その途中で、
ふと棚を見る。
ほんの一瞬。
視線が止まった。
けれど、
何も言わなかった。
コーヒーを一杯。
女性は静かに飲んでいた。
何度か、
耳元に手をやる。
右耳。
そして左耳。
その仕草に、
アキラが気づく。
でも何も言わない。
やがて女性は会計を済ませ、
店を出ていった。
カラン――♪
ドアが閉まる。
ケンタが棚を見る。
「……あの人じゃない?」
アキラがイヤリングを見る。
「かもしれないな」
「声かければよかったのに」
「忘れ物かどうか、わからないだろ」
「でも耳、触ってたじゃん」
「だから?」
ケンタは少し考える。
「……探してたんじゃないかな」
タクヤが本を閉じた。
「たぶん、そうだろうな」
「じゃあ――」
「でも、たぶんはたぶんだ」
ケンタがタクヤを見る。
「お前、そういうとこ細かいよな」
「お前が雑なんだよ」
「俺たち高校の頃からずっとそれだな」
「お前が変わってないだけ」
「お前もだろ」
アキラが苦笑する。
「二人とも、昔から同じだな」
「アキラもだろ」
「俺は違う」
「どこが?」
「……コーヒーを淹れてる」
「逃げたな」
「逃げた」
三人の間に、
小さな笑いが落ちる。
その後。
アキラはイヤリングを袋から出した。
「一応、確認しておくか」
ケンタが覗き込む。
「これ、さっきの人のだと思う?」
「わからない」
「でも――」
ケンタが手を伸ばす。
「ちょっと待て」
タクヤが止める。
「何?」
「触る必要あるか?」
「いや、別に……」
ケンタは手を引っ込める。
「なんとなく」
「その“なんとなく”で、
最近お前、いろいろ踏み込みすぎ」
「……そうかな」
「そうだよ」
少し空気が変わる。
ケンタがイヤリングを見る。
「でもさ」
「何だよ」
「片方だけ残すって、
何か理由があるんじゃないか?」
タクヤは答えない。
「大事な人からもらったとか」
「……」
「別れたとか」
「……」
「それとも――」
「ケンタ」
アキラが静かに呼ぶ。
「それ以上はやめよう」
「なんで?」
「まだ何もわからないから」
「でも、気になるだろ」
「気になる」
アキラは認めた。
「俺も気になるよ」
ケンタが少し意外そうな顔をする。
「じゃあ――」
「だからこそ、勝手に物語を作らない」
ケンタは黙った。
アキラはイヤリングを見つめる。
「片方しかないものを見ると、
人は勝手にもう片方を想像する」
「……もう片方?」
「何を失ったのか。
誰と別れたのか。
何があったのか」
アキラは袋を閉じる。
「でも、本当は何もないかもしれない」
タクヤが静かに頷く。
「落としただけかもしれない」
「そう」
「買ったときから片方だった可能性だってある」
「それはないだろ」
ケンタが笑う。
「イヤリングだぞ」
「じゃあ、お前は何だと思う?」
「……」
ケンタは黙った。
「わからない」
「それでいい」
タクヤが言った。
雨音が少し強くなる。
ケンタはしばらく黙っていた。
やがて、
小さく息を吐く。
「……俺さ」
「ん?」
「困ってる人を見ると、
何とかしなきゃって思っちゃうんだよ」
アキラは何も言わない。
「昔からそうだっただろ」
タクヤが言う。
「お前、文化祭でも、
誰かが困ってると勝手に首突っ込んでた」
「お前らも手伝っただろ」
「巻き込まれただけ」
「結果的には三人でやったじゃん」
「そうだったな」
三人とも少し笑う。
アキラがコーヒーを淹れ直す。
「助けたいと思うこと自体は、悪くない」
湯が豆を通る。
静かな音。
「ただ――」
一拍。
「相手が何を望んでいるかは、相手にしかわからない」
ケンタは、
黙って聞いている。
「だから、まず待つ」
「……待つ」
「そう」
アキラはイヤリングを棚へ戻す。
「見つけたことだけ、ここに残しておけばいい」
「それでいいのかな」
「いいんじゃないか」
タクヤが答える。
「必要なら、持ち主が取りに来る」
ケンタは少し考える。
「来なかったら?」
「来なかったら、来なかったってことだ」
「冷たいな」
「そうか?」
タクヤは少し笑う。
「俺たちが勝手に意味をつけるより、
ずっと優しいと思うけどな」
夕方。
雨が少し弱くなった。
その頃、
店のドアが開いた。
さっきの女性だった。
「あの……」
アキラが顔を上げる。
「はい」
女性は少し迷ってから、
耳元を触った。
「さっき、
ここにイヤリングを忘れてませんでしたか?」
アキラは棚を見る。
白いパール。
「これですか?」
女性の顔が明るくなる。
「はい」
袋を受け取る。
そして、
少しだけ笑った。
「よかった……」
ケンタが聞く。
「大事なものだったんですか?」
女性はイヤリングを手に取り、
少しだけ考えた。
「……母にもらったんです」
三人が静かに聞く。
「だから、片方だけでも見つかってよかった」
それだけ。
女性は深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
ドアベルが鳴る。
カラン――♪
女性は帰っていった。
ケンタが棚を見る。
「……母親からか」
タクヤが頷く。
「そうみたいだな」
「俺、全然違うこと考えてた」
「何を?」
「……いや」
ケンタは笑った。
「言わない」
アキラも少し笑う。
「それでいい」
タクヤがコーヒーを飲む。
「今日の教訓だな」
「何?」
「片方しかないからって、残りまで勝手に作るな」
ケンタが苦笑する。
「お前、たまにいいこと言うな」
「たまに?」
「たまに」
「高校の頃から?」
「高校の頃から」
アキラが二人を見る。
「そこは変わらないな」
三人の間に、
小さな笑いが広がった。
閉店後。
アキラは棚を整理する。
イヤリングがなくなった場所だけ、
小さな空間ができていた。
そこには何もない。
ただ、
何もなくなっただけ。
アキラはその空間をしばらく見つめる。
そして、
何も置かずに扉を閉めた。
雨上がりの夜。
濡れた路面に、
店の灯りが映っている。
片方だけだったイヤリングは、
もう片方のもとへ帰った。
けれど。
最初から最後まで、
そこにあった物語を知っている人は
誰もいない。
知らないままでいることも、
ときには優しさなのかもしれない。
Café Solasの灯りは、
静かに夜の街を照らしていた。