
☕ Café Solas スピンオフ「欠けたピースの記憶(メモワール)」第4話「真夜中のカウンター(温度)」
閉店後の店には、昼とは違う静けさがある。
無音ではない。
誰かが帰ったあとの余韻が、まだ店の中に残っているような静けさだ。
カチ。
時計の針が進む。
午前0時を少し回っていた。
看板の灯りは消えている。
窓の外には、雨上がりの道路。
濡れたアスファルトが、街灯をぼんやり映していた。
「……終わったぁ」
ケンタがカウンターに突っ伏した。
「疲れた?」
アキラが笑う。
「地味に混んでたからな、今日」
「お前が限定メニューなんか出すからだろ」
タクヤはグラスを拭きながら言った。
「でも、評判よかったじゃん」
「お前、褒められるとすぐ調子に乗るよな」
「悪いかよ」
「別に」
そんな、いつものやり取り。
三人とも高校時代から変わらない。
誰かが余計なことを言って。
誰かが突っ込んで。
最後には、なんとなく笑っている。
ただ。
深夜のSolasでは、その声も少しだけ小さかった。
店が眠りにつく時間。
昼間には聞こえない音まで、よく聞こえる。
冷蔵庫の低い駆動音。
時計の針。
雨水が軒先から落ちる音。
そして。
誰もいなくなった席に残る、わずかな気配。
「……なあ」
ケンタが、ふいに言った。
「最近さ」
少し間を置く。
「あれ、増えてない?」
アキラとタクヤが、同時に顔を上げる。
「あれ?」
「忘れ物」
ケンタは、忘れ物棚を見る。
「前から、こんなにあったっけ?」
アキラも棚を見る。
鍵。
傘。
古い本。誰かの手袋。
どれも、特別なものではない。
「どうだろうな」
タクヤが言う。
「単に気づいてなかっただけかもしれない」
「そうかなぁ」
ケンタは首を傾げた。
「なんか、違う気がするんだよな」
「何が?」
「……わからない」
ケンタは笑った。
「ただ、最近ちょっと気になる」
アキラは棚を見つめた。
理由はない。
けれど。
自分も、同じことを感じていた。
「……トリニティの頃は」
アキラが、ぽつりと言った。
「あんな棚、なかったよな」
タクヤの手が止まる。
「……まあな」
ケンタが顔を上げる。
「やっぱ関係あるのかな」
「何が?」
「この店」
「Solasになってからってこと?」
「うん」
アキラは少し考えた。
「だったら嫌だな」
「なんで?」
「そういう店みたいじゃん」
ケンタが笑う。
「もう十分、そういう店だろ」
「……やめろ」
タクヤが小さく笑う。
三人の笑い声が、静かな店内に広がった。
けれど。
その笑い声が消えたあと。
誰も、すぐには次の言葉を口にしなかった。
忘れ物棚。
その奥。
まだ誰も気づいていない何かが、そこにあるような気がした。
その時。
カラン。
入口のベルが鳴った。
三人が一斉に振り向く。
「……え?」
ケンタが立ち上がる。
鍵は閉めたはずだった。
入口には、一人の男が立っていた。
四十代くらいだろうか。
濡れた傘を手にしている。
「あ……すみません」
男は、申し訳なさそうに頭を下げた。
「もう閉店ですよね」
「……ええ」
アキラが答える。
「でも、まだ片付けてるところなんで」
男は店内を見回した。
その目が、ゆっくりと窓際へ向く。
何かを探しているようにも見えた。
けれど。
すぐに視線を戻した。
「昔、この辺で働いてたんです」
男が言った。
「そうなんですか」
「ええ」
男は少し笑う。
「この店を見つけて……まだ残ってたんだなって」
アキラは、男の言葉を聞きながら店内を見た。
Solasは、まだ新しい店だ。
それでも。
この人には、何か別のものが見えているようだった。
「……座ります?」
アキラが言う。
男は少し驚いた。
「いいんですか?」
「一杯くらいなら」
男は小さく頭を下げた。
「じゃあ……お願いします」
男がカウンターに座る。
深夜の店に。
一人だけ、客が増えた。
アキラはコーヒーを淹れ始める。
お湯が落ちる。
豆の香りが広がる。
湯気が、ゆっくりと上がっていく。
「……いい匂いですね」
「ありがとうございます」
「昔、よく行ってた店に似てるんです」
ケンタが反応する。
「昔の店?」
「もう、なくなっちゃいましたけどね」
男は笑った。
その笑顔は穏やかだった。
でも。
どこか疲れていた。
アキラはカップを男の前に置いた。
男は、両手でカップを包む。
しばらく、そのまま動かなかった。
まるで。
手のひらに伝わる温度を確かめるように。
その瞬間。
キィン。
アキラの耳の奥で、細い音が鳴った。
視界が、ほんの少し揺れる。
店内の色が遠くなる。
そして。
知らない景色が、一瞬だけ浮かんだ。
寒い部屋。
誰もいない。
窓の外に、コンビニの明かり。
終電は、もうない。
帰りたくない。
でも。
帰る場所もない。
机の上には、冷めたコーヒー。
スマートフォンを手に取る。
誰かに電話しようとする。
けれど。
指が止まる。
誰にかければいいのか。
もう、わからない。
――声が聞きたい。
その感情だけが残った。
アキラは、息を呑む。
「……っ」
「アキラ?」
ケンタが気づいた。
「大丈夫か?」
「……うん」
アキラは目を閉じる。
もう景色は消えていた。
男は何も知らない。
ただ。
目の前のコーヒーを、ゆっくり飲んでいる。
そして。
「……温かいな」
男が呟いた。
それだけだった。
けれど。
その言葉が、アキラの胸に残った。
温かい。
ただ、それだけ。
それなのに。
さっき感じた、あの孤独と。
どこかでつながっている気がした。
男はコーヒーを飲み終えると、静かに立ち上がった。
「ありがとうございました」
「こちらこそ」
アキラが答える。
男は少し迷ってから、入口へ向かった。
そして。
扉の前で立ち止まった。
「……また来てもいいですか?」
アキラは笑った。
「もちろん」
男は小さく頷いた。
「じゃあ……また」
カラン。
ベルが鳴る。
男の姿が、雨上がりの夜へ消えていった。
扉が閉まる。
静寂が戻る。
「……なんだったんだろうな」
ケンタが呟く。
タクヤは、しばらく何も言わなかった。
やがて。
「わからない」
そう言って、窓の外を見る。
「でも」
少し間を置く。
「何かを置いていったのかもしれないな」
アキラは、カウンターを見る。
男が座っていた場所。
空になったカップ。
そこには、まだ少しだけ湯気が残っていた。
アキラはカップに触れる。
まだ、温かい。
さっきまで。
確かに、誰かがここにいた。
それだけのこと。
なのに。
その温度が。
なぜか、しばらく消えなかった。