
☕️ Episode 7|名前のない記憶
午後三時。
ソラスの店内は、
少しだけ時間がゆるんでいた。
窓際ではミユキが手帳を開き、
アイはラテの泡にスプーンで模様を描いている。
ケンタは仕入れた豆を確かめながら、
袋の口を軽く叩いた。
カウンターの端。
サチが、小さなマグにお湯を注いでいる。
その動きは静かで、
いつもと変わらない。
でも——
どこか、触れない方がいいものがあるようにも見えた。
「ねえ」
アイが、ふと思い出したように言う。
「サチってさ、いつからここ来てたんだっけ」
ミユキが顔を上げる。
「けっこう前だよね。オープンしてすぐくらい?」
サチの手が、少しだけ止まる。
ほんの一瞬。
それから、また動き出す。
「……どうだろ」
はっきりしない返事。
でも、否定でもない。
ケンタが横から口を挟む。
「気づいたらいたよな」
「それ、雑すぎない?」
ミユキが笑う。
サチは少しだけ考えて、
マグの縁を指でなぞる。
「でも」
小さく言う。
「ここで呼ばれるようになったのは……この名前が初めてかも」
空気が、少しだけ変わる。
誰もすぐには言葉を返さない。
「……サチって名前?」
アイが確認するように聞く。
サチはうなずく。
「うん」
タクヤがカップを拭きながら言う。
「なんかいいな、それ」
軽い言い方。
でも、変に踏み込まない距離。
ケンタも続く。
「呼びやすいしな」
「そこ?」
ミユキが笑う。
少しだけ、空気が戻る。
サチも、つられて笑った。
「前はさ」
ぽつりと続ける。
「名前で呼ばれること、あんまりなかったから」
言い切らない。
それ以上は、置かない。
アキラがカウンターの中で手を止める。
少しだけ視線を上げる。
でも、何も聞かない。
「ここだとさ」
サチが、ゆっくり言う。
「普通に“サチ”って呼ばれるじゃん」
「呼ぶな」
ケンタが即答する。
「いや今も呼んでたけど?」
「それは例外」
「都合いいな」
小さな笑いが広がる。
サチは、その空気の中で
ほんの少しだけ息を吐いた。
「……それが、ちょっと嬉しかったんだよね」
それだけだった。
午後の光が、少し傾く。
***
閉店後。
静かな店内に、
洗い物の音だけが残っている。
サチがマグを拭いている。
一つずつ、丁寧に。
アキラが、ふと口を開く。
「……前にさ」
サチは手を止めないまま聞いている。
「見たことある気がするんだよな」
少し間。
「高校のとき」
サチの手が、ほんの少しだけ止まる。
「文化祭の準備でさ」
アキラは棚に視線を向けたまま続ける。
「窓際で、ずっと何か書いてたやつがいて」
「誰とも話さないけど、帰らないやつ」
サチは、何も言わない。
「……あれ、たぶん」
言いかけて、止める。
少しだけ迷って——
「似てた」
サチは、マグを一つ置く。
そして、やっと顔を上げる。
「たぶん」
小さく言う。
「それ、私だと思う」
静かな肯定。
「そのときは」
少しだけ考えてから続ける。
「呼ばれること、なかったけど」
それ以上は言わない。
アキラも、深くは聞かない。
「そっか」
それだけ。
沈黙。
でも、重くない。
***
翌朝。
カラン♫
「おはよ、サチ」
ケンタが何気なく言う。
「おはようございます、サチさん」
タクヤも続く。
「おはよー」
アイとミユキも手を振る。
サチは、一瞬だけ驚いた顔をして——
それから、いつもより少しだけやわらかく笑った。
「……おはよう」
その名前は、
今日もちゃんと、
ここにあった。