
Episode 3 『いつもの席、知らない気持ち』
午後。
やわらかな陽射しが、窓際の席をゆっくりと照らしている。
コーヒーの香り。
静かに流れるピアノ。
Café Solasには、今日も穏やかな時間が流れていた。
その窓際の席で、タクヤはノートPCを開いている。
……はずだった。
画面には編集ソフトが開かれたまま、一時間以上ほとんど進んでいない。
「……珍しいな。」
カウンターで豆を挽いていたアキラが、小さくつぶやく。
「何が?」
厨房からケンタが顔を出す。
「タクヤが仕事をしていない。」
「えっ。」
ケンタが窓際を見る。
確かに、タクヤは画面を見ているようで見ていない。
マウスも動かない。
「……壊れた?」
「失礼だな。」
タクヤがようやく反応する。
「ちゃんと考え事してる。」
「もっと珍しいじゃん。」
「お前な。」
店内に小さな笑いが広がる。
・・・
しばらくして。
タクヤがコーヒーカップを手に取り、小さく口を開いた。
「なあ。」
「ん?」
「例えばだけどさ。」
「例えば?」
「誰かのことを、気付くと考えてることってあるじゃん。」
ケンタが動きを止める。
「……あるのか?」
「例えばだって。」
「誰かが店に来る時間を覚えてたり。」
「……うん。」
「帰ったあとも、その席を見ちゃったり。」
ケンタはゆっくりアキラを見る。
アキラは黙ってドリップを続けている。
「それってさ。」
タクヤは少し笑った。
「なんなんだろうな。」
・・・
ケンタが腕を組む。
「それはあれじゃない?」
「どれ。」
「バグ。」
「またそれか。」
「いやだって、お前そういう話しないじゃん。」
「しないな。」
「だからレアケース。」
タクヤは苦笑する。
「自分でもそう思う。」
「昨日まで何とも思ってなかった席なのに。」
「今日は妙に気になる。」
「変だよな。」
・・・
アキラがお湯を注ぎ終える。
静かな音だけが店内に響く。
「変じゃない。」
二人が振り向く。
アキラはカップを差し出しながら言った。
「人は景色を見てるんじゃない。」
「そこにいる人を見ている。」
ケンタが目を丸くする。
「なんか今日、名言出た。」
「事実だ。」
アキラは続ける。
「だから、人が変われば。」
「同じ席でも違って見える。」
タクヤは静かにコーヒーを見つめる。
「……そういうものか。」
「そういうものだ。」
・・・
そのとき。
カラン。
ドアベルが鳴る。
「こんにちは。」
アイだった。
店の空気が少しだけ柔らかくなる。
「こんにちは。」
アキラが迎える。
ケンタが笑顔になる。
タクヤは一瞬だけ姿勢を正した。
その小さな変化を、
誰にも気付かれないようにしたつもりだった。
「……あ。」
ケンタだけは見逃さなかった。
「何?」
「いや別に。」
ニヤニヤしている。
「絶対何か思っただろ。」
「思ってない。」
「嘘つけ。」
アイはそんな二人を見て首をかしげる。
「今日も仲良しですね。」
「毎日こんな感じ。」
アキラが苦笑する。
・・・
午後の時間は、ゆっくり過ぎていく。
アイは窓際の席でコーヒーを飲みながら、スケッチブックを開いている。
タクヤは向かいの席で仕事を始めた。
今度はちゃんと画面が動いている。
けれど。
時々。
ほんの一瞬だけ。
視線が上がる。
その先には、
スケッチに夢中になっているアイの横顔があった。
・・・
夕方。
アイが帰る。
「また来ます。」
「いつでも。」
アキラが微笑む。
ドアベルが静かに鳴る。
カラン。
店内に静けさが戻る。
タクヤは無意識に、
アイが座っていた席へ目を向けた。
そこには、
飲み終えたカップだけが残っている。
「……。」
「見てるな。」
ケンタが笑う。
「見てない。」
「いや見てた。」
「見てないって。」
「見てた。」
「うるさい。」
店内に笑い声が響く。
・・・
閉店後。
カップを片付けながら、
アキラは窓際の席を見る。
「知らないうちに始まるものほど。」
静かにつぶやく。
「本人が一番、気付くのが遅い。」
その声は、
誰に聞かせるでもなく、
コーヒーの残り香の中へ溶けていった。
窓の外では、
街灯がひとつ、
静かに灯り始めていた。