
Episode 5:距離のとりかた — The Space Between Us
午後のCafé Solas。
雨上がりの街には、
まだ少しだけ湿った空気が残っていた。
店内には、いつものピアノの音。
ただ、今日は少しだけ静かだった。
アキラは豆の仕入れへ。
ケンタは厨房で新作フィナンシェの試作。
タクヤは外で打ち合わせ。
珍しく、カウンターには三人の女性だけが並んでいた。
ミユキ。
佐知。
そして、スケッチブックを広げたアイ。
アイは黙ったまま、ペンを動かしている。
ミユキが、その手元を覗き込んだ。
「また人描いてるの?」
「うん」
アイは顔を上げずに答える。
「でも、顔じゃないかも」
「顔じゃない?」
「その人がいる場所を描いてる感じ」
ミユキは少し不思議そうに笑った。
「相変わらず難しいこと言うね」
「そうかな」
アイは首を傾げる。
「人って、距離で変わるから」
その言葉に、
佐知がゆっくりカップを置いた。
「距離……」
「うん」
アイが続ける。
「近すぎると見えなくなるものもあるし、
遠すぎると見失うものもあるから」
少しの沈黙。
窓の外を、車の音が通り過ぎる。
ミユキがぽつりと言った。
「私、昔から距離を取るのが癖だったんだよね」
佐知が顔を向ける。
「人と仲良くなるのが嫌だったわけじゃない」
「でも?」
「近づかれると、怖かった」
ミユキはカップを両手で包む。
「期待されるのも。
頼られるのも。
知らないうちに相手を傷つけるのも」
「だから最初から少し離れておく」
佐知が静かに言う。
ミユキは小さく頷いた。
「そうすると、失敗しない気がしてた」
アイがペンを止める。
「でも、寂しくなかった?」
その問いに、
ミユキは少し笑った。
「……なるよ」
「でも、寂しいって認める方が怖かった」
店内に、コーヒーの香りが広がる。
佐知がゆっくり口を開いた。
「私は逆だったかもしれない」
「逆?」
「人との距離が分からなかった」
佐知は少し遠くを見る。
「嫌われたくなくて。
必要とされたくて」
「相手に合わせすぎていた」
「近くにいるつもりなのに、
本当の自分はどこにもいないみたいだった」
ミユキが静かに聞く。
「今は?」
佐知は少し考える。
「今は……」
「近くにいることと、自分を失うことは違うって分かった気がする」
アイが微笑む。
「ソラスって、そういう場所なのかもね」
「どういう?」
ミユキが聞く。
アイは窓の外を見る。
「無理に近づかなくてもいい場所」
「でも、いなくなったら気づいてくれる場所」
その言葉に、
三人とも少し黙る。
やがてミユキが笑った。
「それ、いい距離感かもね」
「近すぎない」
「でも、ちゃんと届く」
佐知が頷く。
「手を伸ばしたら届くくらい」
「でも、相手が自分で歩いてくる余白もある」
アイはスケッチブックに、一本の線を描いた。
「このくらい」
「何それ」
ミユキが覗き込む。
「人と人の間」
「線一本?」
「うん」
アイは笑う。
「でも、その線があるから向こう側が見えるんだと思う」
その時。
カラン。
ドアベルが鳴った。
「ただいま」
アキラが戻ってくる。
「……珍しいな」
三人が振り返る。
「何が?」
ミユキが聞く。
アキラは店内を見る。
「三人とも、同じ場所にいる」
「どういう意味?」
佐知が首を傾げる。
アキラは少し考えてから答えた。
「近すぎず」
「遠すぎず」
「それぞれの距離で、ちゃんと繋がっている」
ミユキが笑う。
「また難しいこと言ってる」
「そうか?」
「そうだよ」
「でも……」
佐知が続ける。
「たぶん、合ってると思います」
アキラは小さく頷いた。
夕方。
窓から差し込む光が、
四人の間に柔らかな影を作る。
人と人の間には、
見えない距離がある。
近づきすぎても壊れるものがあり、
離れすぎても届かないものがある。
大切なのは、
その間にある空白を、
怖がらないこと。
Café Solasは今日も、
誰かが自分の距離を取り戻す場所だった。
―― The Space Between Us