
【鈴の物語 第一部】 抜け忍 第二十話
さくらの花も散り、葉桜の緑が映える季節になると、番(つがい)の鳥や虫たちの動きも活発になった。
楓は変わらず、大翼と未来姫の警護を任されており、淡々と過ごしていた。
しかし、主君を想う気持ちは日々募り、楓の心を苦しめていたのも、確かである。
それを察している三蔵と大翼。三者三様の思いが交差していた。
城中、奥の間。
三蔵と大翼は奥の小座敷にいる。そこには囲炉裏の火が爆ぜる音だけが響いていた。
「では、伏見は油断ならぬ次第と申すのだな」
「如何にもでございまする。治部殿の動き、日ごと活発になっておりまするゆえ」
「ふむ…ここ加治田も安穏としておれぬな…」
「御意」
軍師であり、『霞の里』の頭でもある三蔵は山城国へ手練れの者達を放ち、逐一動静を窺っていた。
浅く溜息をつくと、大翼は茶を飲み干した。
「三蔵、楓はどうじゃ」
「…芳しく、ありませぬな」
囲炉裏の薪が、ぱちりと音を立てて爆ぜた。
「今宵、書院へ参るよう申し伝えよ」
「御意に…」
「鈴を…」
「はっ。鈴がなにか?」
大翼は少し考え、視線を落とした。
「いや、独り言じゃ、捨て置け」
言葉を飲み込んだ大翼は、火箸で火床をつつく。
囲炉裏の火は、消えていた──。
半刻後。
三蔵は馬上にて、下城途中であった。
胸中にて、万の思案を巡らし、憐憫なる楓をくノ一の鑑と考え、なにもしてやれぬ己の無力さを、せまる闇に溶かすように深く息を吐いた。
その三蔵の脇から、修練帰りの佐助が現れた。
「わしの脇を取るとは、腕をあげたな」
「お頭様」
ふふっと笑い、馬の鼻面を撫でる。
「丁度良い、佐助。鈴にわしの小屋へ参るよう伝えてくれぬか」
「承知仕りました」
佐助は跳ぶように走っていった。
(わしの思惑通りならば、楓はもう帰って来ぬ…)
夕焼けを浴びながら、三蔵は小屋に入った──。
暫くすると、戸口に声がかかる。
「鈴でございまする」
「入れ」
戸が開くと、すっかりと日は落ち、草の夜露が月明かりで光って見えた。
敷居を跨ぐと右膝をつく。
「これより城へ参り、お屋形様と未来姫様の警護を申し付ける。」
「はっ!。…なれど楓様が」
「楓には既に申し付けてあるゆえ、案ずることはない」
「御意っ!」
「急かないでもよい。先に楓が居るからの」
「ははっ!」
「それと…」
三蔵は一旦言葉を切ったが、覚悟を決め鈴に申し付けた。
「楓が動いても、お主は未来姫様の元を離れる事、まかりならぬ」
「御意っ!」
「頼むぞ」
鈴は即座に気配を消し、闇の中に紛れていく。
開け放した戸口から、春の夜の夜露を含んだ風が舞い込んできていた。
三蔵は忍刀を抜き、仕上げを確かめると、影を置いて消え去った。
鈴は走りながら考えていた。
(なぜ、楓様が動いても、未来姫様の元から離れてはいけぬのか…解せぬ。三蔵様には深き思慮があると読んだ)
その思慮を聞きたくともきけぬ。
それ以上を聞かぬのが、忍びの掟だからだ──。
薄い月明かりがぼんやりと城を照らしている。
大翼は書院の文机の前で考えに耽っていた。
「楓はおるか?」
「はっここに」
「未来は寝所か?」
「姫様は、今はお休みになられておりまする。さざ波のような穏やかな寝息を立てておられまするゆえ、案ずるに及びませぬ。」
楓は頭を垂れたまま、鈴を転がすような声で応えた──。
大翼と楓。
この後、楓の姿を見た者は居ない。
鈴は、最後に見た楓の後ろ姿が忘れられなかった。
掛け違えた幸せ。
二人の間には届きそうで届かない距離があった。
大手門に潜む影が、走り去る楓を捉え、懐の忍刀を抜く。
殺気に満ち溢れた目で、楓を亡き者にしようと構えた者こそ、三蔵であった。
里の頭として、「抜け忍」は掟に従ってもらわなければならぬ。
楓の癖も動きも熟知しておる。外すことはなかろうと、心に念仏を唱えたその刹那、三蔵の喉元に匕首のひんやりした冷たさが襲った。
「……生かすも殺すも我次第也…」
(夜霧殿っ!?気づかなんだっ)
夜霧の刃には底しれぬ殺気が乗っている。
その殺気に、三蔵は身動き一つ取れぬ。
(このような殺気、勝てる見込み無し)
手に握っていた、忍刀を離すと同時に、夜霧の殺気も消え、そして、楓も消えていた。
残された者の心に、その笑顔を残して──。