
花のいのちはみじかくて、って誰が言ったのよ|第1話:ドレスの人
昭和二十六年、六月二十七日の夜は、酷くジメジメとしていた。
『主婦の友』の食べあるきの取材で二軒の料亭をハシゴし、男たちの間をすり抜け、浴びるように酒を飲み、喋り、私は今日もペン一本で戦いきった。
東京・下落合の自宅に戻り、ようやく机に向かったところで——ドクン、と心臓がひっくり返るような衝撃が走った。
冷や汗が吹き出し、激しい息切れが襲う。
(だめね……少し横にならなくちゃ……。明日の朝までに『めし』の続きを書き上げなきゃいけないんだから、今夜はしっかり休まないと……)
机にすがりつき、なんとか立ち上がろうとしたが、指先に力が入らない。視界がぐにゃりと歪み、真っ暗な底へ吸い込まれるように意識が途切れた。
(あーあ、明日の朝一番の原稿、遅れるって連絡しなきゃ……)
それが、私の最後の記憶だった。
◇
「……あの、大丈夫ですか?」
低くて、でもどこか柔らかい声が聞こえた。
その声は、意識の底から私を引きずり出すには十分な張りがあった。ただ、それは女に特徴的な高い声ではなかった。低く、喉の奥で静かに響くような声だ。
瞼を開ける。妙だった。
六月のジメジメした空気はどこへやら、部屋の中はまるで秋の始まりのようにひんやりとした涼しい風が、どこからともなく流れている。
仰向けになった視界の先、驚くほど高い天井には、見慣れた裸電球はない。代わりに、平べったいすりガラスのような灯りから発せられる明るい光が、部屋を昼間のように白く照らしていた。
「……ここは、どこ……?」
私は無意識に呟きながら起き上がり、寝ぼけた頭を振った。
そして、私の顔を心配そうに覗き込んでいる、その顔を見た瞬間、私は自分の目を疑った。
燃えるような、けれど深く知的なワインレッドのドレスを纏った、美しい女性の姿。
しかし、その顔立ちと、さっき耳にした声の残響が、私の脳内でどうしても結びつかない。
(え、女の人……? でも、さっきの声は……?)
混乱する脳裏で、それでも彼女の纏う衣服の美しさだけは強烈に網膜に焼き付いている。
「ここは僕のマンションですよ。僕が部屋にいたら、急に外でガタッと音がしたので外に出てみたら、あなたが倒れていたんです。流石にそのままにはできないので、僕の部屋に運んでベッドに横になってもらいました」
「……そう。助けていただいたのね、ありがとう。でもあの、失礼だけど……私、締め切りはどうなったの……?」
「締め切り……?」
ワインレッドのドレスを着たその人は、ぱちくりと大きな目を瞬かせた。長い睫毛の奥にある瞳が、困ったように揺れている。
「それにしても……あなた、ずいぶん小洒落た格好をしていらっしゃるのね。見たこともない仕立てだけど……どこの劇場の衣装かしら?」
「劇場……? いえ、これ私服ですけど。……っていうか、さっきから言ってる『締め切り』って何ですか?」
「何ですかって、明日の朝一番に渡さなきゃいけない原稿よ! 新聞の連載なの、『めし』っていうの。六月二十八日の朝よ? 遅れたら編集長にカンカンに怒られちゃうわ」
私が焦って布団を跳ね除けようとすると、その人はますます怪訝そうな顔をして、ポケットからひらべったい不思議な「黒い硝子の板」を取り出した。それを指先でちょんと触った瞬間、板の表面がパッと明るくなり、光がその綺麗な顔を照らす。
「ええと……六月? 何言ってるんですか、今日はもう七月三十一日ですよ。ほら」
差し出された光る板の画面を見て、私は息を呑んだ。
そこには、インクの滲みひとつない、妙に綺麗に整った文字で信じられない数字が並んでいた。
【2026年 7月31日】
「な、何よこれ……。七月? 二〇二六年……? 嘘おっしゃい、昨日は昭和二十六年の六月二十七日だったのよ!?」
「は!? しょ、昭和……!?」
今度こそ、わけのわからない単語の応酬に私の頭はついにオーバーヒートしそうになった。こめかみのあたりがズキズキと熱い。
「ちょっと、風に当たりたいわ……」
少し冷静になる必要があると思い、あたりを見回して窓を探した。けれど、見慣れた障子も木枠の窓もどこにも見当たらない。代わりに、天井から分厚い洒落た布のようなものが、床まで大きく垂れ下がっている場所があった。
私が戸惑って立ち尽くしていると、背後からその人がそっと足音を忍ばせて近づいてきた。
「あ、こちらです」
その人は、その布を左右にすっと開いた。
そこには、壁一面にはめ込まれた大きなガラスの窓があった。しかし——その先は、私がこれまで見たこともない世界だった。

私が知っている東京の闇は、どこにもなかった。
地平線の彼方まで、見たこともないほど高くて四角い塔が乱立し、そのすべてが赤や青、白の宝石を散りばめたような光を放っている。空を横切る高架線の上を、光の帯のような乗り物が轟音もなく滑り抜けていく。
「なによこれ……。ここ、どこなのよ……。浅草? 銀座? ……いや、日本じゃないわ。私、また巴里(パリ)にでも来ちゃったの?」
呆然と呟きながら、窓ガラスに映る自分の影を見て、私はハッとした。
慌てて自分の両手を見る。
さっきまで万年筆のインクが染み付き、四十七年分の疲れが刻まれていたはずの私の手が——まるでパリの街角でカフェの珈琲をすすっていたあの頃のように、白く、瑞々しく、パンと張りのある肌に戻っている。
「嘘……っ、私の手……? シワがないわ。それに、身体が軽い……?」
昭和二十六年、過労でぶっ倒れた文豪・林芙美子。
どうやら私は七十五年後の未来に、それも一番輝いていたあの頃の身体で放り出されてしまったらしい。
私はもう一度、目の前の「ドレスの人」を見た。
未来の驚愕。技術の進歩。戸惑い。
けれど、恐怖よりも先に、好奇心のほうが震えた。
私はそういう女である。恐ろしいものほど、近くで見たくなる。
「二〇二六年……。よく分からないけれど、面白いじゃない。締め切りもないなら、最高のバカンスだわ」
私はふっと笑い、それから改めて、目の前の人をじろじろと眺め回した。
さっきから引っかかっている。喉の奥で響くあの低い声と、この繊細なレースの襟とが、どうしても私の頭の中で一本に繋がらない。
「ねえ。ひとつ聞いてもいいかしら。不躾で悪いんだけどね」
「……はい」
「あなた、殿方(おとこ)?」
その人は一瞬だけ目を見開いて、それから少し困ったように、けれど逃げずに私を見返した。
「……はい。男です」
「あら、そう」
それだけだった。私は頷いた。驚いてやる義理もない。カフェーの女給をしていた時分、世間様の物差しに収まりきらない人間なんて、掃いて捨てるほど見てきたもの。
私はワインレッドの裾を指差した。
「ねえ、未来の男の子。世界が変わった話は後でじっくり聞くわ。それより先に——その可愛いお洋服、私にも着せてくれない?」
※本作は史実を素材としたフィクションです。実在の人物・出来事に取材した箇所がありますが、作中の言動および展開は創作です。
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