
花のいのちはみじかくて、って誰が言ったのよ|第2話:クローゼットは巴里よりも遠く
「……えっ? 僕の服をですか?」
彼は目を丸くして、自分自身のワインレッドのドレスと、私の着ている野暮ったい寝巻きを交互に見比べた。
「そうよ。そんな素敵な仕立ての服、見たことがないもの。せっかく若返ったんだし、ちょっと着てみたいじゃない」
「わ、若返った……? っていいますか、あの、そもそもあなたは一体……?」
彼が後ずさりしながら尋ねてくるのも無理はない。私は自分の無作法に気づき、ポンと手を打った。
「あら、名乗ってなかったわね。私は林芙美子よ。君は?」
「……はい? はやし、ふみこ……? あの、作家の?」
「そうよ。『放浪記』の林芙美子。……まあ、こんなことを言っても信じられないでしょうけどね。安心して、私だって自分が七十五年も未来に吹っ飛ばされたなんて、これっぽっちも信じちゃいないわ」
「えっ……? でも、現にあなたはここに……」
「いいから、名前」
「……あ、すみません。瀬川奏(せがわ かなで)です」
「かなで。……あら、可愛い名前じゃない」
奏は一瞬、虚を突かれたような顔をした。それから何か言いかけて、結局やめて、小さく頭を下げた。
私は自分の若返った手のひらを、自嘲気味に見つめる。
「私ね、きっとあの机の上で死んだのよ。心臓が嫌な音を立てたもの。だからこれは、死ぬ間際に私の脳味噌が見せている、酷く都合のいい夢よ。痛いところはないし、外の景色は巴里みたいにピカピカだし、おまけに身体は一番元気だった頃に戻ってる。閻魔様か誰か知らないけれど、随分と粋な計らいをしてくれるじゃない」
私は顔を上げ、呆然としている奏に向かってニヤリと笑ってみせた。
「だからね、奏ちゃん。これが夢だろうが死後の世界だろうが、私はこのバカンスを骨の髄までしゃぶり尽くすって決めたの。どうせなら、一番綺麗な服を着て、美味しいものを食べてやりたいのよ。……というわけで、さっきのお願い、聞いてくれるわよね?」
圧倒されたように瞬きを繰り返していた奏は、やがて毒気を抜かれたように小さく息を吐いた。
「……なるほど。状況はよく分かりませんけど、あなたのその凄まじいバイタリティだけは伝わりました。……とりあえず、服ですね。じゃあ、こちらへ」
奏が案内してくれたのは、同じ部屋の壁際だった。奏が壁と一体化したような白い取っ手に手をかけ、左右にパタパタと扉を折りたたむように開くと——。
「わあ……っ!」
思わず、乙女のような歓声が漏れてしまった。

壁に備え付けられた大きなクローゼットの中に、ずらりと色とりどりの衣服が吊るされている。フリル、レース、リボン。クラシカルな花柄から、少し退廃的な雰囲気を持つゴシック調の黒いドレスまで。
それはまるで銀座の高級百貨店——いや、巴里の裏路地にある秘密のブティックのようだった。
「これ、全部奏ちゃんの服なの!? 男の人なのに、ずいぶんとお洒落で可愛らしい趣味をしてるじゃない!」
私が無遠慮にドレスの袖を指先で摘むと、奏は少し照れたように、けれどどこか誇らしげに鼻の頭を掻いた。
「ありがとうございます。僕、こういうクラシカルなデザインが好きで……『アクシーズファム』っていうブランドなんですけど」
「アクシーズ……ファム? 仏蘭西(フランス)の言葉? やっぱり、西洋からの舶来品なのね」
「いや、日本のブランドですよ。普通にショッピングモールとかで買えます」
「しょっぴんぐ・もーる? 何よそれ。巴里のパサージュ(屋根付きの商店街)や、百貨店みたいなものかしら?」
「あー、まあ、色んなお店がたくさん入ってる、すごく大きな百貨店みたいなものですね」
彼は少し噛み砕くように教えてくれた。
私は信じられない思いで、一着の深いビリジアンのドレスを手に取った。
触れてみて、さらに驚く。絹(シルク)のように滑らかで艶があるのに、指の間をすり抜けるような異様な軽さだ。
「これ、何の生地? 絹じゃないわよね。人造絹糸(レーヨン)にしては、しなやかすぎるし……」
「あ、それはポリエステルですね。丈夫だし、シワになりにくいんですよ」
ポリエステル。聞いたこともない魔法のような言葉を反芻しながら、私はそのビリジアンのドレスを胸に当ててみた。胸元には繊細な編み上げの意匠が施され、裾に向かってふわりと広がる形になっている。
「これ、着てみてもいいかしら?」
「ええ、どうぞ。……あ、でも背中にファスナーがあるから、手伝いますよ」
彼に言われるがままに寝巻きを脱ぎ捨て、そのドレスに袖を通す。
「じゃあ、上げますね」
背中側で、ジジジ……と小さく滑らかな音がした。
昭和初期にも線ファスナーはあったが、もっとゴツゴツしていて噛みやすく、ドレスの背中に使えるような代物ではなかった。こんなに細く、柔らかく、布地と一体化するような留め具があるなんて。
おまけに、脇のあたりには伸縮するゴムの糸(シャーリング)が縫い込まれており、息を吸うと私の身体の線に合わせてぴったりと布地が寄り添うのだ。
締め付けられていないのに、綺麗なくびれが出る。
「……信じられない。これ、本当に私の身体に合わせて仕立てたわけじゃないのよね?」
「はい、既製品です」
ただ、裾は余った。
床に届くどころではない。爪先がすっかり布の下に隠れてしまっている。私は片足を上げて、余った裾を軽く蹴ってみせた。
「ちょっと長いわね」
「……あ。すみません、僕、背があるので」
「いいのよ、そんなこと」
私は肩をすくめた。丈の合わない服なんて、慣れている。そもそも私は、はじめから寸法の合った服など一度も持ったことがないのだ。
「……うん。すごく似合ってますよ、芙美子さん」
奏に促され、壁にはめ込まれた大きな姿見の前に立つ。
そこに映っていたのは、少し勝ち気な吊り目がちの目元はそのままに、ビリジアンのクラシカルなドレスを着た、若き日の「モダンガール」の姿だった。
裾は、やはり余っている。
肩の縫い目も、本来あるべきところより指一本ぶん外にある。よく見れば、丈が合っていないことは誰の目にも分かるだろう。
けれど、そんなことはどうでもよかった。
(ああ、私……本当に若返ったのね)
戦中戦後の苦しい時代、モンペを履いて泥泥になりながら、文字通り命を削って原稿用紙に向かっていた四十七歳の私。
鏡の中にいるのは、パリの街角でカフェの珈琲をすすり、一番自由を謳歌していた頃の私だった。
「ふふっ……悪くないわね。ねえ、なんだか私、ずいぶんいい気分よ」
くるりとターンをすると、ポリエステルの軽い裾が花びらのようにふわりと舞う。
私は振り返って、ワインレッドのドレスを着た恩人を見た。
この子には、まだ何ひとつ返していない。
——まあ、いいわ。
返すのは、あとでいい。今はもらうほうが先である。
※本作は史実を素材としたフィクションです。
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