
MBA僧侶の寺院ブランド論⑨終〜持続可能な寺院をつくるために〜

このnoteでは、MBAで学んだことをお寺での実践と重ねながら、伝統組織の運営・学び直し・越境する中で見えてきたことを言葉にしています。
MBA僧侶の寺院ブランド論(全9回)
①お寺に経営学を使うことの違和感
②お寺を木で考えると見えるもの
③お寺をブランドで考える意味
④ブランドの扇はお寺運営の奥義
⑤仏教の翻訳としての「人生の給水所」
⑥住職はなぜやめる決断が一番難しいのか
⑦土壌を知るとは、声を聴くこと
⑧寺院エコシステムをどう育てるか
⑨持続可能な寺院をつくるために
【今日の学び&お礼】
この「寺院ブランド論」シリーズも、いよいよ最終回です。持続可能な寺院とは何か。9回分で使ってきた根・幹・枝葉・実・種という言葉を一度回収しながら、今の私なりの結論を書きます。
何はともあれ最終回です。自分なりに頑張って向き合ってきました。ここまでお付き合いいただき有難うございました!
本シリーズは創作対象ビジネス部門の応募作品でもあります。多くの方に届いていただくと嬉しい限りです。
これからも寺院の活性化、伝統組織と人のあり方。
理論と実践を行き来しながら精進してまいります。
今後ともよろしくお願いいたします☺️
⭐️『MBA僧侶の寺院ブランド論(全9回)』の第9回、最終回です。
1.最終回にあたって
この連載は、「経営学をお寺に使うことの違和感」から始まりました。
MBAで学んだパーパス、ブランド、戦略、マーケティング、組織論。どれも興味深く、お寺にも活用できそうに見えました。実際、多くの学びがありました。
けれど、学べば学ぶほど不思議な感覚もありました。経営学を学びに行ったはずなのに、最後に見えてきたのは経営学そのものではなく、お寺の姿だったからです。
経営学のフレームワークを通して見えてきたのは、円蔵寺という一つのお寺であり、そこで受け継がれてきた祈りであり、仏教という2500年続く根っこでした。
振り返ってみると、この連載で書いてきたことは、経営学をお寺に当てはめる話ではありませんでした。むしろ、お寺を見つめ直すために経営学を使った記録だったのだと思います。

その中で、私は一つの結論にたどり着きました。
持続可能な寺院とは何か。
その問いに対する、今の私なりの答えです。
2.持続可能な寺院とは、変わらない寺院ではない
お寺の未来について考えるとき、私たちはつい「伝統を守る」という言葉を使います。もちろん、それは大切なことです。
しかし、伝統を守ることと、変わらないことは同じではありません。むしろ、正反対なのではないかと思うようになりました。
仏教は2500年続いてきました。インドから中国へ。中国から日本へ。その長い歴史の中で、言葉も変わりました。文化も変わりました。建築も変わりました。儀礼も変わりました。伝え方も変わりました。
もし本当に何も変わらなかったのなら、仏教はとっくに歴史の中に埋もれていたはずです。それでも続いてきた。
なぜでしょうか。
それは、根を守るためだったのだと思います。
変わらなかったから続いたのではありません。根を守るために、変わり続けてきたから続いた。
だから私は思うのです。
持続可能な寺院とは、変わらない寺院ではありません。根を守るために、変わり続けられる寺院です。

3.木の姿で考える、持続可能性
この連載では、お寺を一本の木として考えてきました。
土壌があり、根があり、幹があり、枝葉があり、実がなり、種が残る。そして、それらを育てる庭師がいる。
持続可能性もまた、この木の姿で考えることができます。
根が弱れば、お寺はお寺でなくなります。幹がなければ、何を目指しているのか分からなくなります。枝葉が増えすぎれば、木全体が疲弊します。実がならなければ、人々に価値を届けられません。種が残らなければ、ご縁は次につながりません。そして、水が流れなければ、木は枯れます。

つまり、お寺の持続可能性とは、一つの要素だけで語れるものではありません。
これらすべてが循環し続けること。
それが持続可能な寺院なのだと思います。
一つひとつ、振り返っていきます。
4.根を守る——信仰の持続可能性
お寺の根は、仏教であり、宗派の教えであり、祈りと供養です。
円蔵寺の場合、日蓮宗、法華経、お題目、満願祖師、鬼子母神様への祈り、法事や供養の積み重ねが根にあたります。
ここが薄まれば、お寺はお寺ではなくなります。寺ヨガや落語会、オレンジカフェを行っていても、根が仏教につながっていなければ、ただのコミュニティスペースになってしまいます。
信仰の持続可能性とは、活動を増やすことではありません。
どの活動も、仏様とのご縁へつながっているかを問い続けることです。

5.幹を育てる——翻訳の持続可能性
「人生の給水所」は、仏教の代わりではありません。
仏教の根を、現代の浦和に生きる人々に届く言葉へ翻訳したものです。
ただし、翻訳は一度やれば終わりではありません。時代が変わり、地域が変わり、人々の悩みや不安が変われば、届け方も更新されなければなりません。
幹を育てるとは、根を変えることではありません。
根の意味を見失わず、現代に届く言葉と行動に立ち上げ続けることです。

6.枝葉を整える——活動の持続可能性
枝葉とは、法事、祈祷、寺ヨガ、落語会、オレンジカフェ、御朱印、YouTube、note、ホームページなどの具体的な活動です。
枝葉は多ければよいわけではありません。増えすぎると、住職が燃え尽き、幹に栄養が届かなくなります。
⑥「住職はなぜやめる決断が一番難しいのか」で書いたように、剪定が必要です。
剪定とは、古いものを捨てることではありません。本質を残しながら、今の時代に届く形へ整えることです。
活動の持続可能性とは、何を増やすかだけでなく、何をやらないかを決めることです。

7.実と種を巡らせる——関係性の持続可能性
⑧で扱った寺子屋参加録、ベンチ、メディア、遠方からの来寺は、実と種の循環を示しています。
実とは、参拝者が受け取る価値です。
ほっとする。心が整う。相談できる。また歩き出せる。
種とは、その体験が次のご縁につながることです。
再訪、口コミ、友人紹介、家族への共有、御祈祷への関心、鬼子母神様への関心、新聞やテレビへの広がりなどが種にあたります。
関係性の持続可能性とは、一回限りの集客ではありません。
ご縁が巡り続ける仕組みを育てることです。

8.水路を整える——財務という、祈りの場を残す責任
②では、木を育てる雨は、日々の読経や修行だと書きました。けれど、雨が降っても、その水を根まで届ける水路が整っていなければ、木は十分に育ちません。
財務とは、まさにこの水路です。
お寺にとって財務とは、利益を最大化するためのものではありません。
祈りの場を未来へ残すための水路です。
お布施、維持費、参加費、墓地管理料、永代供養料。これらは単なる売上ではありません。
本堂を守る。境内を整える。法要を続ける。僧侶が学び、修行し、地域に向き合い続ける。檀家さんや参拝者が安心して手を合わせられる場を、次の世代にも残していく。
そのための水路です。
水が流れなければ、木は枯れてしまいます。どれほど立派な根があっても、本堂を守り、境内を整え、法要を続ける環境がなければ、次の世代へつなぐことはできません。
財務を整えることは、信仰を売ることではありません。
信仰の場を未来へつなぐ責任です。

9.翻訳と継承の歴史——お寺から見える持続可能性
経営学の言葉をあえて借りるなら、仏教の歴史は、翻訳と継承の歴史であり、ある意味でブランドが育ち続けてきた歴史でもあるのかもしれません。
仏教は変わらなかったから続いたのではありません。根を守るために、変わり続けてきたから続いたのだと思います。
これは、お寺だけの話ではないかもしれません。
現代の企業もまた、短期的な売上や、流行りのパーパス、SNSでの見せ方に振り回されることがあります。本当に持続可能な組織をつくるためには、自分たちの根を見つめる必要があるのだと思います。
自分たちの根は何か。何を守るために変わるのか。誰にどんな実を届け、どんな種を未来へ残すのか。
お寺は、数百年続く超長寿組織です。その知恵が、少しでも参考になるなら嬉しく思います。

10.自分の木を見つめる問い
ここまで、円蔵寺のことを中心に書いてきました。
ただ、この木の比喩は、円蔵寺だけのものではありません。お寺であっても、神社であっても、家業であっても、会社であっても、長く続く組織には、それぞれの木があるのだと思います。
自分たちにとって、根にあたるものは何か。
その根は、今を生きる人に届く言葉へ翻訳されているか。
枝葉は、幹につながっているか。
届けている実は、次のご縁という種になっているか。
その木を枯らさないための水路は、きちんと整っているか。
この問いに、すぐ答えが出る必要はないと思います。
大切なのは、問い続けることです。
私自身も、円蔵寺という木を前にして、これからも同じ問いを持ち続けていきたいと思っています。

11.円蔵寺という木を、未来へつなぐ
最後に、円蔵寺の話に戻りたいと思います。
ここまで偉そうなことを書いてきましたが、円蔵寺はまだブランドとして確立しきっていません。持続可能な寺院になれたわけでもありません。
私自身も、未熟な庭師です。
枝を切り間違えることもあります。土壌の声を聞き漏らすこともあります。思うように実がならない年もあるでしょう。
それでも、問い続けたいと思っています。
根は何か。幹は育っているか。枝葉は整っているか。実は届いているか。種は残っているか。そして、水路は流れているか。

そして、この「人生の給水所」という言葉の出発点も、やはり私自身の後悔にあります。
あの日、
「お前は口だけで、何もしてくれねーじゃないか」
と言われた私が、こうして住職として歩いていることも、不思議なご縁です。もしあの出来事がなければ、「人生の給水所」という言葉も生まれていなかったかもしれません。
人生を歩いていれば、立ち止まりたくなる日があります。もう歩けないと思う日があります。誰かに話を聞いてほしい日があります。
そんなとき、少しだけ腰を下ろし、水を飲み、また歩き出せる場所でありたい。
それが円蔵寺です。
経営学は、お寺の根を置き換えるものではありません。根を守り、幹を育て、枝葉を整えるための道具です。

寺院ブランド論は、完成した理論ではありません。円蔵寺という木を育てながら、これからも問い続けていくための地図です。
今日も境内のベンチに、誰かがふと腰を下ろします。鬼子母神様に手を合わせる人がいます。法事で亡き方を偲ぶ時間が流れます。寺ヨガで呼吸を整える人がいます。落語会で笑い声が響きます。
その何気ない風景の一つひとつが、円蔵寺という木を育てています。
仏教という豊かな根を、浦和という土壌の中で、現代の人々に届く形へ翻訳し続けること。
人生の給水所であり続けること。
そのために私はこれからも、地域の皆さまとともに、そして仏様とともに、この木を育てていきたいと思います。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。

寺院ブランド論(全9回)
①お寺に経営学を使うことの違和感
②お寺を木で考えると見えるもの
③お寺をブランドで考える意味
④ブランドの扇はお寺運営の奥義
⑤仏教の翻訳としての「人生の給水所」
⑥住職はなぜやめる決断が一番難しいのか
⑦土壌を知るとは、声を聴くこと
⑧寺院エコシステムをどう育てるか
⑨持続可能な寺院をつくるために
