
Horizon of You ―水平線のむこうのあなた― 第2話 いないはずの背中
声を聞いた日から、世界が変わった。
正確に言えば、世界は何も変わっていない。風は止まったまま、波は固まったまま、太陽は沈まないまま。変わったのは、私のほうだった。
浜辺を歩いていて、ふと視界の端に人影を感じる。振り向く。誰もいない。塔の階段を上っていて、すぐ後ろに足音を聞く。立ち止まる。静寂だけが続く。食事のテーブルで、向かいの椅子が、ほんの少し引かれている気がする。
「やめて」
私は声に出して言った。自分自身に向かって。
「期待しないで。ここには誰もいない。誰も来ない。私はそれを承知で、この世界を選んだの」
そうだ。私は選んだのだ。夏海の生きる世界を守るために、自分の存在を、その世界の外へ持ち出した。孤独は対価ではなく、前提だった。覚悟の上だった。
だから、新しい誰かを想う資格なんて、私にはない。
役目を終えた人間は、静かに、誰の物語も乱さずに、余白の中で生きていくべきなのだ。
そう言い聞かせて、私は日課を続けた。夏海への想いを編み、光にして、水平線へ放つ。祈りだけが、私と世界をつなぐ細い糸だった。
けれど。
気配は、消えるどころか、日に日に確かさを増していった。
最初の異変は、足跡だった。
ある朝、浜辺に出た私は、波打ち際に点々と続く足跡を見つけた。私のものより大きい、裸足の足跡。歩幅の広い、男の人の歩き方。足跡は水平線へ向かってまっすぐ伸び、止まった波の手前で、ふつりと途切れていた。
私は自分の足を、いちばん近い足跡に重ねてみた。私のつま先が、その足跡の土踏まずにも届かない。
「……誰の?」
風のない世界で、足跡が自然に消えることはない。私が眠っているあいだに、誰かがここを歩いたのだ。水平線へ向かって。海の上へ消えるように。
二つ目の異変は、風だった。
夕凪の祈りの最中、ふいに、頬を何かが撫でた。
息を呑んで目を開ける。髪が、ひと房だけ、ふわりと持ち上がって、落ちた。
風だ。止まっているはずの風が、吹いた。
ただし、その風には温度がなかった。夏の風のかたちをしているのに、熱がない。まるで遠い世界の夏から、感触だけが届いたような、抜け殻の風。
おかしいのは、その熱のない風に触れた瞬間、私の胸に浮かんだ感情だった。
懐かしい、と思ったのだ。
知らない誰かの、知らない夏を、私は懐かしいと感じた。理屈の通らない郷愁が、胸の奥からあふれて止まらなかった。
三つ目の異変は、空だった。
いつものように光を放ったあと、ぼんやりと夕焼けを見上げていたとき、オレンジの空から、何かが剥がれ落ちた。
花びらのような、薄い光の欠片。それはゆっくりと舞い降りて、止まった海の上に、音もなく着水した。
欠片が水面に触れた瞬間、景色が、流れ込んできた。
——白い灯台。きしむ螺旋階段。窓辺に並べられた、無数の硝子瓶。瓶の中には、淡く光る何かが、ひとつずつ、大切に閉じ込められている。それを見つめる、誰かのまなざし。優しくて、孤独で、ずっと何かを待っている、まなざし——
「……今のは、何?」
景色は一瞬で消えた。けれど胸の奥には、確かな余韻が残っていた。あの灯台を、私は知らない。私の塔とは違う。あの硝子瓶も、あのまなざしも、私の記憶のどこにもない。
それなのに、オレンジの空から落ちてきた記憶の欠片は、まるで私に宛てられた手紙のように、まっすぐ私の胸に届いた。
誰かの記憶が、この世界に、落ちてきている。
私はその夜、塔の窓から動かない星空を見上げながら、ずっと考えていた。
この世界の法則は、想うことが存在になること。なら、足跡も、風も、記憶の欠片も、誰かの「想い」が形になったものだ。
でも、誰の?
私はあの背中の人を知らない。会ったこともない。想いようがない。私の想いだけでは、あの足跡の大きさも、熱のない夏の風も、見知らぬ灯台の記憶も、説明がつかない。
つまり——想いの発信源は、私だけではない。
気づいた瞬間、鳥肌が立った。
この世界の外の、どこかに。
私を想っている誰かが、いる。
「そんなはず、ない」
私は首を振った。私の存在は、元の世界の因果から切り離された。私を覚えている人は、夏海を除けば、もうどこにもいないはずだった。それに、あの気配は夏海のものではない。あの声は、男の人の声だった。
——渚。
あの声を思い出すたび、胸の真ん中が、ぎゅっと掴まれたように苦しくなる。苦しいのに、嫌ではない。むしろ、もう一度聞きたいと、心のどこかが願ってしまっている。
「だめだって、言ってるのに」
私は毛布を頭まで被った。役目を終えた人間に、新しい物語は要らない。期待すれば、失ったとき、孤独は前より深くなる。「いない」ことに慣れたほうが、ずっと楽に生きられる。
いない。あの人は、いない。
心の中で、もう一度はっきりと唱えた。
そのとき。
『——「いない」という言葉ほど、儚くて、脆いものはないよ』
声が、した。
今度は耳ではなかった。胸の内側で、直接、響いた。あの夕暮れ色の声が、まるでずっと隣にいたかのような近さで。
私は毛布をはねのけて飛び起きた。部屋には誰もいない。当たり前だ。でも、声の余韻は確かに胸に残っていて、心臓は痛いくらいに高鳴っていた。
儚くて、脆い。
その通りだった。私は「いない」という言葉で心に蓋をしようとするたび、蓋の薄さを思い知らされていた。だって、想うことが存在になる世界で、「いない」と強く想うことは——「いない誰か」の輪郭を、誰よりも鮮明に描いてしまうことなのだから。
打ち消そうとすればするほど、あの人は、確かになっていく。
私は窓辺に立った。眼下には夜の浜辺と、止まった海。そして水平線。
ほんとうは、あの水平線の先には、何もないのかもしれない。
でも、と私は思った。震える自分の胸に手を当てて、認めるしかなかった。
想った瞬間に、あなたは、そこに現れていく。
私はもう、始まってしまった何かを、止められそうになかった。
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