
Horizon of You ―水平線のむこうのあなた― 第1話 夕凪の世界
あらすじ
大切な人が生きる世界を守るため、渚は自らの意志で別の時空へと渡った。辿り着いたのは、想いがそのまま風景になる「概念の海」。終わらない夏の夕暮れ、風が止まり、波が息をひそめた永遠の夕凪の中で、渚はたったひとり、遠い世界へ届けと祈りを送り続けていた。
ある日、誰もいないはずの浜辺で、渚は自分の名前を呼ぶ声を聞く。振り返っても、誰もいない。けれど心は確かに、いないはずの背中を先に見つけていた——。
水平線の向こうには、もうひとつの孤独な世界があった。そこには、まだ見ぬ渚を想い続ける青年・湊がいて。想うことが存在になる世界で、二つの孤独が出会うとき、時を越えた恋の輪が、静かに閉じていく。
プロローグ
「いない」という言葉ほど、儚くて、脆いものはない。
そのことを私は、世界でいちばん静かな海辺で知った。
私の名前は、渚。波が辿り着く場所、という意味の名前。誰がつけてくれたのか、もう確かめる術はないけれど、気に入っている。
私には、自分から手放してきた世界が、ひとつある。
覚えているのは、夏の夜。遠くで鳴っていた祭囃子。目の前の信号が赤から青に変わる、その狭間のような一瞬に、世界の継ぎ目が、ほどけて見えた。
きれい、と思った。
怖さよりも先に、その言葉が、胸からこぼれた。
大切な親友の笑顔を、ひとつだけ胸に抱いて、私は継ぎ目の向こうへ跳んだ。彼女の名前は、夏海。彼女の生きる世界は、私がいなくなることで、本来のかたちを取り戻す。もつれた糸を辿っていくと、結び目はいつも私の場所にあった。だから選んだ。糸を断つのではなく、自分ごと、世界の外側へ抜けることを。理由は、それだけで、じゅうぶんだった。
怖くなかった、と言えば嘘になる。
でも、不思議な確信があった。理由のわからない、根拠のない、けれど胸の奥で鐘のように鳴り続ける確信が。
——あなたの選択は、ちゃんと誰かに届く。
誰の声だったのだろう。記憶のどこを探しても、そんな言葉をくれた人はいなかった。それなのに、その声はいつも私の中にあった。物心ついた頃から、まるで生まれる前から知っていたみたいに。
私はその声を信じて、跳んだ。
光が溶けて、音が遠ざかり、生まれ育った世界が一枚の絵のように薄くなっていった。
辿り着いた先で、何が待っていたのか。誰もいないはずの世界で、どんな奇跡が始まったのか。
ここから語るのは、水平線のむこうの、あなたの物語。
想うことが存在になる場所で生まれた、ひとつの恋の物語だ。
夕凪の世界
風が、止まっている。
最初に気づいたのは、そのことだった。頬に触れる空気がぴくりとも動かない。髪は一本も揺れず、まるで世界全体が息を止めて、何かを待っているようだった。
目の前には、海があった。
夕暮れの海。波打ち際まで歩いても、波は崩れない。水面は窪んだり盛り上がったりしたまま、彫刻のように静止している。波も、息をひそめていた。
空はオレンジと藍色の境目で固まっていて、太陽は水平線の少し上、沈みかけの位置から動かない。永遠に終わらない夕凪。永遠に明けない黄昏。空気には、かすかに夏の匂いが滲んでいた。蝉の声も入道雲もないのに、肌が覚えている。ここは、終わらない夏の夕暮れなのだと。
「……ここが、私の渡った先」
呟いた声だけが、静寂の中に波紋を広げた。
砂浜は柔らかく、足跡は私のものしかない。振り返ると、足跡は浜辺の途中から始まっていた。まるで私が、その地点で世界に「生まれた」かのように。
最初の数日——日が沈まないので正確には「数回の眠り」だけれど——私はこの世界を歩いて調べた。浜辺はどこまでも続いていた。内陸へ向かえば草原があり、丘があり、一本の灯台のような白い塔が立っていた。けれど人はいない。鳥も、虫も、生き物の影はひとつもない。
ただし、奇妙なことに、不自由はなかった。
お腹が空いたと思えば、塔の中のテーブルに温かい食事が現れた。眠りたいと思えば、清潔なベッドが待っていた。子供の頃に大好きだった、祖母の家の毛布の匂いまで再現されていた。
「想ったものが、現れる」
何度かの実験のあと、私は理解した。この世界の法則は、たったひとつ。心に思い描いたものが、そのまま風景になる。物になる。世界になる。
最初に想い出したのは、ギターだった。
目を閉じて、手のひらの記憶を辿る。ネックの太さ。弦の張り。ボディの、空みたいな色。目を開けると、膝の上に、スカイブルーのギターがあった。傷の位置まで、私の覚えているとおりに。
弦を、ひとつ弾いた。止まった世界に、音が、まっすぐ立ち上った。涙が出た。私はやっぱり、音の側の人間なのだ。どの世界に渡っても。
概念の海。私はこの世界をそう名付けた。
物質の法則ではなく、想いの法則で編まれた海。きっとここは、肉体を持つ世界と、もっと抽象的な何かの世界との、あいだにある場所なのだ。
だとすれば、ひとつ、試したいことがあった。
私は毎日、夕凪の浜辺に立つ。波打ち際のいちばん際、止まった波が砂を噛んだまま固まっている、その境界線に素足を置いて。ギターを抱えて、目を閉じる。
夏海。
親友の名前を、胸の真ん中に灯す。彼女の笑い方、慌てたときに前髪を触る癖、泣き虫のくせに誰より強いところ。そして、世界でいちばん好きな、彼女の歌声。ひとつひとつ思い出して、想いを旋律に編んでいく。歌うのは、昔から苦手だった。歌は彼女の領分で、私は弾く側。だから祈りも、声ではなく、弦で編む。
——元気にしてる? 私はここで、ちゃんと生きてるよ。あなたの世界は、もう大丈夫。だから前を向いて。ねえ、ちゃんと歌ってる? あなたの声で、あなたの夏を。
編み上げた旋律を、両手で包むように胸から取り出す。すると想いは、淡い光の球になる。蛍よりも柔らかく、星よりも近い光。
私はその光を、水平線へ向かって放つ。
光は止まった海の上を滑り、オレンジの空を横切って、水平線の向こうへ消えていく。届いているかどうか、確かめる術はない。それでも私は信じていた。世界と世界のあいだに想いの通り道があるのなら、私の言葉はきっと、何かのかたちで夏海に届く。メールでも、夢でも、ふとした胸騒ぎでもいい。
それが、私の日課だった。たったひとりの世界で、唯一の、祈りに似た仕事。
その日も、私はいつものように光を放った。
光が水平線に溶けるのを見届けて、目を閉じ、小さく息を吐く。送信を終えたあとはいつも、胸の中に静かな空洞ができる。想いを送るたび、自分の一部が削れていくような、心地よくて少し寂しい感覚。
そのときだった。
「——渚」
名前を、呼ばれた。
心臓が、止まった波よりも固く凍りついた。
声は、背後から聞こえた。低くて、穏やかで、夕暮れの色をした声。知らない声のはずなのに、なぜか懐かしくて、耳にした瞬間、目の奥が熱くなった。
私は振り返った。
誰も、いなかった。
夕凪の浜辺。私だけの足跡。固まった波。動かない太陽。世界は一秒前と何ひとつ変わらない。
それなのに。
それなのに私の心は、確かに「見て」いた。振り返るより速く、音が意味になるより先に、心だけが先回りして、そこに立つ誰かの背中を見つけていた。少し癖のある髪。海を見つめる広い背中。輪郭だけの、けれど確かな、人のかたち。
「……誰?」
静寂が答えだった。
私はその場に膝をついた。砂が膝を受け止める感触だけが、現実だった。
幻聴だ。そう思おうとした。何回目かもわからない眠りと祈りの繰り返しの中で、孤独が限界を越えて、ありもしない声を生み出したのだ。当然のことだ。だって、ここには誰もいないのだから。
——いない。
その言葉を心の中で発音した瞬間、胸の奥で、何かが小さく軋んだ。
奇妙な軋みだった。嘘をついたときの罪悪感に、よく似ていた。
私は立ち上がり、声のした方角をもう一度見つめた。止まった夕凪の浜辺には、オレンジの光が満ちているだけ。
けれど、その夜——眠りの時間、白い塔のベッドの中で、私は気づいてしまった。
想ったものが現れる世界で。
「いない」はずの誰かの背中を、私の心が先に見つけてしまった世界で。
その出来事は、いったい何を意味するのだろう?
答えの代わりに、あの声が耳の奥で何度も再生された。
——渚。
たった一言。それだけの奇跡が、私の世界を、静かに塗り替え始めていた。