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Photo bysuito15

「自己」は負わされるものなのか|『わたし』とは何か─縁起の視座から問い直す⑨

    前回は、「自己」という『わたし』が抱え込んできたものを見てまいりました。

    「自己」は、単なる一人称ではありませんでした。「自」と「己」が結びつくことで、東アジアの思想において、内へ向かい、見つめられ、問われ、深められる『わたし』として現れてきました。

    決して避けられてきたものでも、拒まれてきたものでもなく、深められてきたものだったと言えるでしょう。

    ところが日本の歴史における近代以降、この「自己」という『わたし』は、別の響きを帯びていきます。

    『わたし』とは何か─縁起の視座から問い直す。連載9回目の今回は、「自己」の後篇です。
    前篇で見た「自己」の深さを受けながら、今回は、近代以降に強まった「自己」の重さを見つめて、縁起の視座から見た「自己」について考えてみたいと思います。

    現代にあふれる「自己像」

    現代に生きる私たちは、日常の中で、実に多くの「自己」という言葉を使っています。

    たとえば、「自己実現」「自己表現」と言えば、『わたし』の可能性を開き、外へ表していく意味があります。「自己形成」「自己啓発」と言えば、『わたし』を育て、高め、鍛えていく意味があります。これらの言葉には、「自己」に対する前向きで、発展的な響きがあります。

    また、「自己評価」「自己分析」と言えば、『わたし』を見つめ、測り、問い直す意味があります。「自己管理」「自己責任」と言えば、『わたし』を律し、整え、引き受ける意味があります。ただし、ここまで来ると、単に『わたし』を開いていくというよりも、『わたし』を管理し、評価し、責任あるものとして保たなければならないという、少し硬い印象も加わってきます。

    このように見てみると、現代の「自己」は、実に多くの場面に現れています。『わたし』を開花させる自己。『わたし』を鍛える自己。『わたし』を問い直す自己。『わたし』に責任を持つ自己。

    ただし、「自己責任」あたりから、その響きには少し揺らぎも感じられます。責任を持つ自己であると同時に、責任を負わされる自己でもあるからです。

    その揺らぎがさらに深まると、「自己嫌悪」「自己否定」「自己不信」「自己喪失」といった言葉に示されるように、『わたし』はもはや開かれ、高められるものではなく、否定され、疑われ、見失われていくものとして感じられます。

    つまり現代の「自己」は、単なる抽象的な自己観を表す言葉ではありません。むしろ、私たちが日々の生活の中で抱えている、さまざまな自己像の現れであると言えるでしょう。

    社会の中に現れている自己像

    このような自己像は、ただ内面の問題として語られているわけではありません。
    たとえば、教育の中で、私たちは『わたし』の考えを持つことを求められます。労働の中で、自己管理や自己責任を求められます。契約の中で、判断し、選び、引き受ける一人の主体として扱われます。家族や人間関係の中でも、『わたし』としてのあり方を説明し、調整し、時に主張することを求められます。

    また、社会の中では『わたし』に対する評価があります。学歴、仕事、能力、成果、態度、表現、生活の仕方。そこでは、私たちはただ生きているだけではなく、『わたし』としてどのような自己像を持っているのか、どのような自己像を形成してきたかを、絶えず問われているように感じることがあります。

    つまり、現代の「自己」は、ただ心の内側にあるものとして語られているのではありません。教育、労働、契約、責任、評価、社会的立場の中で、私たちは常に、ある種の「自己を持つ者」として扱われています。

    その意味で、現代の自己像は、私たちの生活の実感に深く結びついていると言えるのではないでしょうか。

    私たちは、自己を語りたいから語っているだけではありません。自己を考えたいから考えているだけでもありません。社会の中で生きる以上、自己を持つこと、自己を示すこと、自己を負うことを、どこかで求められている。

    自己実現をしなければならない。
    自己啓発をしなければならない。
    自己責任で選ばなければならない。
    自己管理できなければならない。

    それは、ただ『わたし』を大切にしているということだけではないように思います。
    むしろ、どこかで「自己」を持ち、「自己」を整え、「自己」を示し、「自己」に責任を負わなければならない。そうした思いや言葉に囲まれるうちに、私たちはいつの間にか、ある種の自己像を気にし続け、背負わされるようになっています。

    そこに現代に生きる私たちにとって「自己」が重く感じられる一つの要因があると思うのです。

    近代西洋的自己観と「自己」

    では、このような自己像は、どのような自己観から生まれているのでしょうか。

    幕末以降、日本は西洋文明と本格的に出会いました。そして明治以降、政治、法律、教育、哲学、心理学、労働、経済、社会制度、文化に至るまで、さまざまな分野で西洋の制度や思想を受け入れていきました。その過程で、西洋の言葉も翻訳され、日本語の中に入り、私たちの生活の中にも浸透していきました。

    その中で、日本の明治以降の自己観もまた、西欧近代において形成された自己観の影響を強く受けるようになります。

    ただし、ここで言う「近代西洋的自己観」とは、西洋思想全体における自己観のことではありません。日本が明治以降に、制度や学問や社会生活を通して受け入れてきた、西欧近代において形成された自己観のことです。

    この近代西洋的自己観は、独立した個人、権利と責任の主体、社会の一単位、能力を伸ばすべき存在、管理され評価される対象としての「自己」を形づくってきました。

    たとえば、ego は、考え、判断し、欲し、選び取る中心としての『わたし』です。self は、それ自身であり、変化の中でもなお保たれる『わたし』です。subject は、世界に向かって立ち、判断し、行為する主体としての『わたし』です。individual は、一人の独立した個人としての『わたし』です。identity は、時間や経験が変わっても同じであり続ける『わたし』です。

    ego や self には、自ら考え、自ら欲し、自らを保とうとする方向が強く見えます。特に subject、individual、identity には、主体、個人、同一性として、近代社会の中で扱われる『わたし』の姿が強く見えます。

    これらの自己に関わる諸概念は、日本語の中では、「自己」という一語の周辺に折り重なってきました。日本語に「自己○○」という語が多く見られるのも、そのためだと思われます。

    さらに大切なのは、この近代西洋的自己観の奥に、ものごとを「あるもの」として捉える前提があることです。

    自己がある。主体がある。個人がある。同一性がある。責任を負う自己がある。

    そのように、自己を「あるもの」として立てるからこそ、『わたし』は、選び、判断し、行為し、責任を負う主体として捉えられます。また、自己は「あるもの」であるからこそ、『わたし』は、尊厳、自由、責任、権利、主体性を持つものとして具体的に形づくられていきます。この点も、見過ごすことはできません。

    制度の中に組み込まれた「自己」

    また明治以降、日本が受け入れた近代西洋的自己観は、純粋に思想としてだけ探究されてきたものだとは言いがたいところがあります。むしろそれは、教育、法律、労働、契約、責任、評価、生活様式の中に組み込まれながら、私たちの生活に浸透していったと言う方がよいでしょう。

    言い換えれば、それは、制度の中に取り入れられた「自己」でもありました。

    西欧型近代国家の中では、一人ひとりは国民として数えられます。法律の中では、個人が尊重され、同じように権利を持ち、責任を負う個人として扱われます。学校教育の中では、自ら学び、自ら考え、能力を伸ばす主体として育てられます。労働や経済活動の中では、自分の能力を示し、成果を出し、評価を受ける存在として活動しています。

    現代の社会はこのような「自己」を前提にして動いています。それらは大きな意味があり、簡単に否定されるべきものではありません。

    けれども、こうした自己理解は、私たちがこれまで東洋の思想や日本語の感覚の中で培ってきた『わたし』のありようと、そのまま重なると言い切れるでしょうか。

    前篇で見たように、東洋で培われてきた自己理解には、「自ら」と「自ずから」という二つの大きな方向がありました。

    そして、何よりその両方向を同時に育む土壌がありました。

    しかし、明治以降に受け入れられた近代西洋的自己観は、どちらかといえば「自ら」の方向へ大きく傾いていました。そして、その傾きは「あるもの」としての自己を立てやすく、制度の中にも組み込まれやすいものでした。

    こうして「自己」は、あらかじめ確立されたものとして設定されやすくなります。そうなると、自己とは所有し、管理し、確立し、評価できる対象として映ってきます。その結果、自己形成の制度化も、その自己観を前提とした教育・労働・評価の仕組みも、設計しやすくなっていくのです。

    自己を理解しなければならない。自己を管理しなければならない。自己を肯定しなければならない。自己責任で選ばなければならない。

    こうした言葉に囲まれている時、私たちは自ら自己を深めていくようでありながら、どこかで自己を負わされているのかもしれません。

    ここに、現代における「自己」の重さがあります。

    それは、単に「自己」という言葉が増えたということではありません。東洋において「自ら」と「自ずから」の柔らかな往復運動の中で培われてきた「自己」が、明治以降、制度化された「自らの自己」によって強く塗り替えられた。
    その思想的な"ずれ"こそが、現代における「自己」という言葉に、どこか重さを与えているのではないでしょうか。

    縁起の視座から見た「自己」

    では、縁起の視座から見れば、「自己」はどのように読み直せるのでしょうか。

    縁起とは、ものごとは、さまざまなものごとが関わり、重なり合わさって成っていると説く、生成の原理であり、仏教の根本思想です。

    この視座に立てば、ものごとは固定されたものとして「ある」のではありません。さまざまなものごとが関わり、重なり合う中で、そのつど「成っている」のです。

    『わたし』もまた、固定された自己として「ある」のではありません。身体の状態、経験、記憶、言葉、歴史、人との関係、社会の制度、時代の空気。そうしたものが重なり合う中で、そのつど『わたし』と「成っている」のです。

    ですから、この視座に立てば、「自己」は決して無いものでも、否定されるべきものでもありません。

    では、縁起の視座から見た時、「自己」は、どのような働きを帯びた『わたし』として見えてくるのでしょうか。

    「己」は、内へ向かい、省みられ、修められる『わたし』を示していました。そこでは、自らの言葉や行いを点検し、自らを律し、自らを整える方向が強く働きます。
    その「己」に、「自」が結びついて「自己」となる時、まず見えてくるのは、自ら己を省みる働きです。

    しかし、「自」には「自ら」だけでなく、「自ずから」という『わたし』の方向もあります。そして、縁起の視座から見れば、「自ら」は「自ずから」と別方向に切り離されてあるのではなく、「自ずから」に包まれて成っています。

    なぜなら、「自ら」とは、孤立した意志と言うのではなく、さまざまな縁の中で、自ずから立ち上がってくる意志を言うのでからです。

    ですから縁起的な「自己」とは、自ずから成っている『わたし』を顧みる『わたし』として読むことができるのではないでしょうか。

    ここで、「かえりみる」という語にも注意しておきたいと思います。「省みる」と書けば、内へ向かって自らを点検し、反省し、修めるという響きを持ちます。それに対して「顧みる」と書けば、足もとへ立ち返り、いまこの身がどのような場に置かれ、どのような状況や関わりの中にあるのかを見つめ直すという響きを持ちます。禅語「脚下照顧」の「照顧」は、まさにこの意味に通じるでしょう。

    縁起の視座に立てば、「自己」は、内側に固定されたわたしを探すこと、省みることだけではありません。ましてや制度的に形成される、受け入れさせられるものでもありません。

    いまこの『わたし』が、どのような身体の状態、経験、記憶、言葉、人との関係、社会の制度、時代の空気の中で、このように成っているのかへ向き直ることです。

    自己は、縁起して自ずから成っている『わたし』を顧みるところに、開かれてきます。
    そのように見えた時、「自己」は少し重さから解かれていきます。

    けれども、それは浅くなるということではありません。むしろ、『わたし』を縁起の中で顧みる問いとして、より深まっていくものだと言えるでしょう。

    「自己」から、「自分」へ

    ここまで、「自己」という『わたし』を見てまいりました。
    現代の私たちは、自己を顧みているようでありながら、どこかで自己を省みさせられているのかもしれません。

    しかし、縁起の視座から見れば、「自己」は固定された実体ではありません。

    『わたし』は、縁起して『わたし』と成っている。

    そう見える時、「自己」は、所有し、管理し、確立すべきものではなく、自ずから成っている『わたし』を顧みる『わたし』として、再び深まって行くのではないでしょうか。

    それでは、顧みる『わたし』は、どのように、この世の中に応じていくのでしょうか。

    その『わたし』が、「自分」です。

    「自分」は、より日常的で、日本語として深く根づいた語です。
    次回は、このシリーズの最終回、「自分」という『わたし』を見ていきたいと思います。


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    #創作大賞2026 #オールカテゴリ部門

     
     
     
    すぎもと きどう。1972年生。仏教や禅、近代思想を、釋尊の悟りの内容である縁起の視座から読み直し、世界をどう見るか、自分をどう見るか、それをどう生かすかという問いを綴っています。現在、隠居の和尚として、オンラインの坐禅会や勉強会、対話会などを模索しています。

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