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まだ声にならなかったものたち〈中編〉


    ――初めて聞いた明るい音だった。


    少し開いた扉をノックする。

    杉本先生が顔を横に傾け、こちらを確認して志保に声をかけた。

    わりと歳も近く、よく喋るのに刺々しさのない落ち着きさとやわらかさがあり、ふんわりと、でもリズミカルに明るくなるところに、みんな安心感を受けて集まるのだろうなと思った。
    本当に養護教諭になるべくしてなったような、素敵な人。

    「どうぞーあ、志保!仲谷先生が来たよー」

    志保は、不意を突かれたように、戻りきらない微笑で振り向く。

    そこにはブックデザイナーが仕掛けた本のように、これまで彼女の魅力を隠し守り通した、やや長めの前髪と黒縁眼鏡という厚い表紙が開かれていた。やわらかな優しさを伝える目元は、ふっくらとした唇とようやく出会い調和されたかのように。きっと母親似なのだろう。

    杉本先生の提案に納得をし、志保は次の給食も保健室で済ませ、五時限目から教室に戻るということで、引き続きお任せすることにした。

    公立高校の受験を終えた3年生は、午前中は卒業式の練習を行ったり、3年間の想いを綴った手紙やメッセージボードなど作成、外部講師を招いて、新生活への様々な講習の時間となる。午後は各クラスの学活。日替りに各担当の教師が来て、思い出話などを約10日後の卒業式まで行う。
    とはいえ、志保を途中から教室に帰すことも酷だ。
    時期的にも、進学への影響もない。


    駅を中心に、進学塾がひしめき合うこの地区。当然の如く、施設生活の志保には無縁の場所。各有名校へ進学する児童が2番目に多いこの学校でも、志保の順位はほぼ真ん中。中1の頃はそこまで意識していない者も、中2の夏休み頃から塾に通う子が増え、テストの度にざわざわしだす。
    塾前に小腹を満たすコンビニや、自転車にまたがったままお喋りし合うことも、気に入った文具も小物なんかも揃えることもない。

    それでも志保は環境的にもよくやっている。
    「とりあえず良かったね」と済ませてしまうのも何かモヤっとする。

    H高校を受ける児童は、志保を入れて6人。
    志保のことを知ってる者がいない高校へ進学をするには、通学時間を考えると、かなりハードになる。中堅クラス以上の学力を要するH高校でさえ、電車で一本とはいえ、それでも学校に着くまでの時間は片道で40分はあるが、なによりこの高校は福祉大学や県立大学へのルートもしっかりしている。

    7月、児童指導員の南先生との三者面談のとき、志保は中卒のまま児童指導員補助として働き、通信制高校を経て施設の児童指導員となりたいと言っていた。
    それだけで南先生がどれだけ良い指導員なのかが伺える。
    その後も定期的に南先生とは話を重ねていた。
    志保の希望に、さらなる夢をつけ足した未来図を見せるのも、違った広い世界の夢を見せるのも、我々の仕事。学費のことは気にしなくていい。
    志保も交えた12月の最後の三者面談で、H高校を進めた。それまでに南先生とも話し合い、その先の大学まで行くにしろ、行かないにしろ、様々な光の道筋をできるだけ伝える。なかなか受け入れる様子がない志保を、南先生の話が背を押した。

    「志保がさ〜卒業後ここで『職員』として働くようになったら、それはそれは嬉しいよ〜そりゃ嬉しい!でもね、今度はね、誰かの孤独を少し背負わなきゃいけなくなるんだよ〜志保はさ、まだすこーし、自分に孤独を背負っているんだ。それをさ、1つ1つ下ろすやり方をね、志保はまだ知らないんだもーん。潰れちゃうんだから〜ペちゃーんと。ホントだよー!だからさ、それを知らない志保がね、また新しく誰かの孤独を背負わなくったってもいーんだよ〜。もし、学校に行くのがただただ苦痛でね、ここが『好き』で笑っていられるから〜と思うなら、その『好き』を仕事にするのは、もうすこーし先でもいいんだ〜。志保が大人になってから、外の世界をぐるーっと、一周見回って、いまよりパワーアップしてからでいいの!そしたらどーなると思う??凄いよ〜私も、そのとき志保がお世話する子たちも、一番喜ぶよ〜!そりゃそうだよ〜パワーアップしてるんだからね!そうなるまで、しっかり志保を見守るよー。志保はさ、まだまだ守られる側にいてもいーんだから!ホントホント!療養中のお母さんもきーっと、それを絶対絶対!喜んでくれるんだから〜。お母さんもね、頑張ってるでしょー。私が側にいるんだからさ〜大丈夫!志保は志保で、これからをしっーーかり、楽しみながら、甘えて頑張ればいいんだから!一緒にやっていこう、ね!」

    何も言うことはないほどの温度だった。
    仰向けに寝そべり、目を閉じても明るく微笑む陽だまりに、微笑がえしをしてしまうような…温かさを南先生は志保に送った。


    「――では、お願いします。志保、じゃあまた後で」

    志保に軽く手を振り、保健室の扉を静かに閉めた。





    ――その日の授業を終える。
    志保は「もう大丈夫です」と言って帰り支度をする。これ以上はあまり関わらないように……というようなぎこちない動きで。

    南先生や杉本先生のようには、なかなか上手くいかないもどかしさが募りながら、放課後の生徒で賑わう廊下、陽の射す渡り廊下を抜ける。
    階段付近でふざけ合う男子生徒、下り矢印側で女子会を始める子らに、軽く注意をする。
    職員室でお茶を一口含み、他の教員と連絡事項の会話を一言二言交わし、残っている事務作業を確認してから、職員室を出る。

    女同士だからなのか…それともやっぱり、まだまだ足りない何かがあるのか……それも聞いてみたく、保健室へ向かう。

    保健室から一人の生徒が出てきた。
    受け持ちクラスの後藤ゆりだった。
    中にいる杉本先生に手を振って、扉を閉める。

    「後藤さん…どうかした?」

    「あ…いえ、ちょっと…用事があっただけです」

    「…そっか、そっか…とりあえず気をつけて帰るんだよ」

    「はい、先生さよなら」

    「はい、また明日」

    扉を開けると保健室は、やわらかい靄がかかっているように、傾き始めた陽射しでつつみ込まれている。
    椅子に座る杉本先生は、くるりと向きを変え、ニンマリしながら椅子を差し出す。ちょっと長い話でもしましょうよ、というように。


    グランドからは、運動部の準備運動の掛け声が聴こえる――

    志保は放課後、たびたび保健室に来ていること。将来のこと、施設のこと、児童指導員の南さんのこと、そして母親のこと、学校生活のことなど、杉本先生にいろいろな話をしに来ていたとのこと。「卒業間近なので、守秘義務を少し解禁しますね〜」と話してくれた。

    「そうでしたか…放課後も」

    「まぁ〜毎日ではないですけどね」

    「さすが杉本先生です…ちょっと妬いちゃいます」

    「お姉さん代わりなのだと思いますよー」

    「お姉さんですか…」

    「お姉さんさんですよー!まぁ志保のお母さんより年上ですけどね……やばッ!お母さん代わりは、南先生でしょう〜」

    「ハハッ…確かに、そうですね〜どうもすみません」
    「そうですねって!」

    キリッと睨みを演じ笑うお茶目さも兼ね備えている。

    「…ちなみに、午前は何を話していたんですか?」

    「あぁ~…高校行ったら変わりたいなぁっていう話をしていたんですよ。イメチェンってやつですね」

    「イメチェン?!志保が言ってたんですか?」

    「そうですよ~それで志保は元が全然悪くはないんだから、髪型と眼鏡変えるくらいで十分っていう話をして、そうしたら志保が『杉本先生みたいな養護教諭になりたい』とか言ってくれるから『嬉しいけど、婚期逃すよー』って笑ってたんですよ」

    「ハハッ〜そういうことでしたか」

    「その笑いはどーいう意味ですか?!」

    「いやいや、でも…志保のあんな表情を引き出せる杉本先生は…凄いですよ」

    廊下からは、吹奏楽部の個々から発するスケール練習が響いている――


    「女同士だからだと思いますよ。難しい年頃ですからねぇ〜さすがにドラマや音楽などの軽い話はないですけれど…だからこそ、志保との会話は浅くはないんですよね」

    「なるほど、施設だとテレビの時間が決まっていますから、ほぼ観れませんよね」

    「えぇ、スマホもまだ持てないので。彼女の話は、他の子に比べたら深くなってしまうんですよ」

    それは想いを寄せてる異性の口から、ときおり出てくる幼なじみや、知らない同級生たちとの思い出話を聞かされているような、その知らない時間には…どうやっても入り込めないという、ちょっと淋しい感覚に似たものだった。

    「変な話ですけど、志保との会話中は、養護教諭とはいえ、私も一応『教師』なんだよーっ!て、思い出させてくれるので嬉しいんですよー」

    「杉本先生は個別指導のプロ教師ですよ」

    「いやいや、南先生や美香さんには敵いません」

    「あぁスクールカウンセラーの水野さん?」

    「はい。職員会議やケース会議後など、SCの美香さんは心強いんです。」

    「会議後…ですか?」

    「えぇ、会議とはいえ、本人が希望する内密話には、さすがにSCとは共有しないといけない事が多いわけで。それに美香さんは、週2しか来れないとはいえ、志保にとっても安心できる人なんです。まぁ、やっぱり女同士だからなのかなぁ」

    思い出話の同級生との仲睦まじい背中を見つめているような気分だった。

    「でも、志保は仲谷先生の話もしてますよ」

    「え!?ほんとですか?」

    「えぇ、毎日いろいろ声をかけてくれるけれど、あまり仲良く話をしていると、周りの子たちの視線とかもあったりして、仲谷先生にも迷惑かけてしまうから…と」

    そんなところにまで使っていたのか…。

    「さっき、後藤さんが来てたじゃないですか?」

    「はい、うちのクラスの」

    「実は後藤さんも3年の二学期頃から、こちらに時々来ていたんですよ」

    「え?後藤も…?」

    「えぇ、志保が授業中に保健室へ来る日は決まって、その日の帰りに様子を聞きに。2人は小学校が同じだったじゃないですか?中学に上がる前までは、仲が良かったらしいですよ」

    ほんのり茶色い地毛を、後ろで複雑に綺麗に編み込む大人っぽさはがある。おでこの出し方も顔立ちも、朝ドラの主演の話が来ても、不思議ではない品のある後藤は、明るい方だが主張は少なく大人しい。いわゆるスクールカーストでは中層だが、吹奏楽部でも一際目を引く。

    「後藤さんは…あ、これはちょっと守秘義務に引っかかるかもしれませんので、私の独り言で」

    「あぁ、はい、わかりました。」

    「前に…後藤さん、生理用ナプキンをいくつか持ってきたことがあるんですよ」

    「ナプキンを?」

    「『これを志保に』っと言って」


    軽重のロングブレスの音が徐々に重なり1本の束になり響く――


    「当然保健室には常時ナプキンは置いてありますが、無料で配布はしていません。自己管理の教育として、1枚『貸す』ということをして、後日1枚返しに来る…後藤さんは、施設の志保がもし保健室の借りることがあったら、返さなくてもいいように…って持って来たんです」

    「後藤がそんなことを…」

    「もちろん、南先生との連携もしっかり取れてるので、後藤さんにはそのへんの話をして、気持ちだけ貰っておきましたけど」

    「後藤は、志保のことを気にしていたんですね…」

    生理的なことでもあるし、本人が強く希望する場合は、いくら会議であろうと担任であろうと養護教諭は、匂わせはしても、守秘義務は守らなくてはならない。ましてや、生徒も教師も本格的な受験シーズンに入る二学期からの話。いまになって話すことは、杉本先生の時期を見た配慮があったのだろう。

    「後藤さんは、きっと同じ小学校だった女子はみんな志保のことを気にしていると思う…と言ってました」

    「…そうですか」

    「みんなも、どうしたらいいのかわからないんじゃないかな…とも」

    「どうしたらいいのかわからない?」

    「私も…なんとなくその気持ちわかるんですよねぇ〜頭ではわかってはいる…でも、志保のことを知らない子たちもいて。話題や趣味など、周りとの調和とか共有とか…いい言葉が見つからないんですけど、結果それが自分の保身とかになっていくみたいな」


    グランドからはサッカー部のボールを蹴る音が聴こえる――


    「ああしたい、こうしたい…けど、こう思われるかも…誰々はどう思っているのかな?とか…切り出せないままの、腹の探りあいも、いつからか慣れてしまい、その場所が安住の地となって、気がつけば3年以上経ってしまっていた…そういうなんとも言えないことって、大人でもあるじゃないですか」

    「ありますよね…時間が経てば経つほど、どこから近づけばいいのか、その後に残るものが何なのか……とか利害を考えてしまうんですよね」

    杉本先生は、ゆっくり頷きゆっくり視線を上げてから、何かを決めたように口を再び開いた。

    「あくまでも私見ですが……いまの子どもたちは、大人に近すぎてしまったな〜と思うんですよ…親や教師とかと仲がいいこと自体は悪いことではないのですけどね…そういう距離感も少なからず影響があるかもしれないし、情報過多でリスク回避の考え方や日々の生活も…もっと子どもじみててもいいのになぁと思ってて」

    いつもとは違う彼女からの話に、引き込まれる。それは嫌な質量ではなかった。

    「それぞれがオーダーメイドなんだけど、実は大人たちが右へ習えの見様見真似で用意した色違いの衣装のような?」

    「同じ衣装…」

    「えぇ、色やサイズや装飾品は個々に違うけれど……寛容という名の『避暑地』みたいな型ですかねぇ〜」

    「ほぅ…」

    「大人も子供も誰だって、相手から嫌われたくはないじゃないですか……だから寛容という対応で安全圏の避暑地へ行く…それが居心地悪くないもんだから、なかなか抜け出せないってカンジですかね」

    「じゃないですか」という言葉に、杉本先生自身も含まれているかのようだった。

    「そんな避暑地も、元を辿れば大人たちが開発したリゾート地で…親目線だったら、いろんな子育てなどの情報が半年もしないうちに更新されたり、周りの家庭の話も耳に入ってくるのもあり、あれこれやっても、結局のところたどり着くのはどれもこれも『相手を尊重して、褒めて、なるべく笑顔で自由に優しくしていればいい』っていうことで落ち着く」

    「はいはい…わかります。結論はだいたい同じなんですよね」

    「えぇ…疲れ果ててしまい、だいたい同じならこの辺りで着地しましょうよ、あなたもそうしたら?という世の中にもなっているんじゃないのかなって…思うんです」

    「それが右へ習えで避暑地…ってことですね」

    サッカーボールを蹴る音が、一定のリズムで響く。相手が受け取りやすいように、誰もぶつからないように、距離と加減を測って蹴り放つ。

    「大人を見て子は育つわけですからねぇ…近づき過ぎると危険、でも離れ過ぎるのも淋しい…でも一人がいい…」

    吹奏楽部の音がふっと——消える。


    「そこにまだ熟していないのに、同調を強要される『ありのままで』は、薄いガラスの仕切りでみたいに自分を囲みこむ…姿は見えるけれどお互い声は聞こえないような」

    「…コロナ禍の仕切りのように」

    「えぇ。声にならないことが、そのうち慣れていってしまい、ガラス越しの相手は何か言っているけど、わからない…でも追求することも、傷つくことも、嫌われることも避けたい…だったら、もう余計なことをしたり考えたりすることも時間の無駄なら、このままが避暑地にいよう〜ということが、子どもの社会にも浸透しているように感じます」

    「確かに、変化が怖いからどうしても守りに入っていきますよね…礼儀正しくも、優しくもある。けど、叱られたくはない、失敗もしたくない。ならば観賞し合わないけど、共有はする。ということですよね」


    誰もが、次の音を待っている――

    陽光を背に、杉本先生は少し張り詰めた何かを緩めたように話しだす。



    「当たり障りのない関わりで、踏み込まない方が『お得』みたいな…」

    「…それはありますね、『無駄じゃん』『関心ないわー』とかの考え方も、共有しないと間違っている側になりやすいんですよね」

    答えの出ない問い…でもそれを避けてもいけないようにも思える…


    吹奏楽部の軽快な演奏が動きだす――


    「そうそう、後藤さんは吹奏楽部だったじゃないですか」

    「はいそうです、トランペットですね」

    「小学校の頃は地域クラブで金管バンド入っていたんですって。志保も」

    「志保もいたんですか!?」

    「えぇ、それから須藤さんも」

    「え!うちのクラスの須藤ですか?」

    「そうですよ〜。後藤さんから聞いたんですけど、夏休みに久しぶりに須藤さんと2人っきりで話をしたんだーって、前に話してくれました」

    「久しぶりに…?」

    「えぇ、中学に上がるとクラスが別れてしまい、それぞれのクラスで新しい輪ができて、グループのタイプも変わってしまった…それから気づかぬうちに疎遠になったと」

    「あぁ…ありますよね、そういうことも」

    「須藤さんのグループは、だいたい誰かがいつも一緒にいて、1人になるときは帰り道の途中……だから夏休みに何かの買い物先で、偶然にも1人でいた須藤さんと会い、久しぶりに2人っきりで長く話し合えて、嬉しかったらしいですよ」


    須藤雪美。派手さはそれほどないが、垢抜けも品が良く、クラスだけではなくこの学年のスクールカーストのトップ層。小学校からの友達とはいえ、この2人が今頃深く繋がるのはちょっと意外でもあった。

    「須藤さんがほっぺを膨らませて、わざと変な顔でトロンボーンを吹くと、負けじと後藤さんもトランペットで応戦し、それを見て笑う志保は、なかなかサックスが吹けなかったことが懐かしいとか」

    杉本先生の音符のトランポリンのように弾む話は続き、2人はずっと志保を気にしていた。どうしたらいいかの日々を過ごしてきたこと。そして3年になり、偶然にも3人が揃う。この奇跡をこのままにしていてはいけないのではないか?友達が孤独に過ごしているのを、このまま見ぬふりしてやり過ごす。知らない子じゃない。とても仲良しだった子を。そんなズルくて嫌なことをする自分を、これから一体誰が助けてくれるのか?誰が好きになってくれるのか?黙っていればバレないことだけど、自分は…知っている。卒業しても靄はずっと残り続ける。

    2つの可憐なリボンを、再び強く綺麗に結んだのは…志保の存在だった。


    「それで今日…後藤さんは、卒業式前日の最後の学活の時間に、みんなの前で志保への想いと謝罪を須藤さんとするという事を伝えに来たんですよ」

    「それを…杉本先生に?」

    「後で、必ず保健室に来るであろう仲谷先生には、私から伝えてくださいって言ってました…仲谷先生はこれを聞いてどうしますか?」


    天井を見つめる。
    吹奏楽部の壮大な演奏はグランドまで届く――


    「……うん、彼女たちがそこまで考えことですからね。受験も抱え込んだ中での、2人のこの想いを…僕は止めることはできません。二人が作り出す花道に、志保を歩かせたいと思います」

    「私も…それでいい思いますよ……このついでにもう一つ、ちょっと気を害されるかもしれませんが」

    少し目線を落とした杉本先生は、緊張を整えた音にゆっくりと合わせながら、自分を見つめる。


    「仲谷先生は、志保にちょっと肩入れしすぎかも…しれません」

    「…え?」


    思いもよらない言葉に、耳に入る全ての音が――消える。


    肩入れしすぎ…?
    程度の良い言葉…共有…孤独は嫌…一人の自由…安全圏、避暑地…見て見ぬふり…ガラス越しの…
    さっきまでの話はなんだったんだ?
    確かに、答えのない問いではあるが…

    「…どういうことで…?」

    「さっきも言いましたけど、志保は仲谷先生の気持ちもわかってますし、感謝もしてるんです」

    「あぁ……はい。」

    「私たちにお任せてくださいってことです」

    「いやしかし…」

    「さっき仲谷先生言ったじゃないですか『個別指導のプロ』だと」

    「えぇ…まぁ…言いましたが」

    「仲谷先生は十分すぎるくらいやってくれてます。志保の進路を一生懸命考えてくれた…これは私や南先生に美香さんでもできないことで、とってもベストな進路だったと、みんな感謝してます」

    「いや、まぁ…」

    「もちろん、他の教科の先生たちの指導があったからこそ、志保も合格圏内でいられた…でも、仲谷先生はまだどこか〜何というか…心配そうにもしているようにも見えます」

    杉本先生とは同じ気持ちのベクトルだと思っていた矢先の突き放しのような……お疲れでしょうから、ガラス越しの避暑地へそろそろ行ったほうがいいということなのか?

    「そしてそれは、他へのアンテナが弱くなってしまうんですよ」

    「……そうでしょうか?」

    否定したい衝動が喉まで上がるが…言い返す言葉が見つからない。


    「…志保への肩入れは、春頃に聞いた仲谷先生の昔のことがあるからだと思います」

    視線を外し、斜め下を見ながら口元だけそっと優しく微笑むようにそう話した。

    「……しかし、仲谷先生は担任教師で集団指導のプロだということを、ちょっと疎かになっているよう見えます」


    そう言ってから小さく「すみません…」と頭を下げた。
    ……言っていることは、わかる。わかるけれど――どこかで、何かをまだ見落としているような感覚が残る。


    「一見幸せそうでも、表に出ない巧妙な闇で成立してしまっている家庭もあり、そこから子どもたちを救いあげるのは私たち養護教諭やSC、さらにスクールソーシャルワーカーの最大ミッションなんです」

    「…はい」

    「同時に最難関でもあり…その初めの一手は担任教師の気づきからなんですよ」

    確かに…そうかもしれない。図星かもしれないという感覚が動き始める。

    「前に『これからこれから』『とりあえずよかったじゃない』とかで逃げるように終わらせることに、腹が立つ!みたいなこと言ってたじゃないですか?」

    「えぇ…まぁ」

    「確かにそのような人も社会にはたくさんいますけど、少なくとも教師にはいないと思いますよ」


    ボールを打つ金属音が遠くから…響いている――
    何を投げても、読まれて打ち返されるような感覚…

    「特に長尾先生は、とっくに校長になっててもおかしくはないのですが、ずっと歴代の校長からの推薦を断っているんですって」


    さっきまで聴こえなかった演奏は穏やかな姿となりゆっくりと入ってくる――


    「現場で、生徒たちの側で仕事がしたいと言って…年収だってだいぶ変わるのに」

    学年主任の長尾先生。教師1年目の副担任の時に、クラスの担任教師だった人。ソフトボールの顧問もしており、成績もこの地域では1番を維持しており、ソフトボール熱の強い人だと思った。圧の強い部員やトップ層の女子生徒たちからも影で『たまき』と呼ばれはするものの、威厳と風格のある人で、この辺の生徒を押さえつけている役目もある。
    1年目の頃、初めての学年会議の際に、別のクラスだった志保の件について話し合ったとき『とりあえずよかったじゃないですか』と言った人。生徒にあまり関心が無く、女子に囲まれ、好きなソフトボールに力を入れ楽しんでいる風に見え、正直なところ良い印象はなかった。

    「志保は確かに、不遇の時間をいまも過ごしています…でもまだ見つけられない、まだ救えない子どもはたくさんいて、見つけてもどこから手を出せばいいのか、私たちでも難しい」

    遠くからの金属音数は増えて、大きく響く――

    杉本先生、長尾先生、南先生、水野さん…横に並ぶ打者が次々と打撃練習をするように…

    「正直…『マジかー!施設に入った方がいい!』という子も時にはいて、声にもならない隠れた家庭もあって、そんな案件もいくつも見てきた長尾先生なので…安直な気持ちで言ったわけではないだと思いますよ」

    確かに、杉本先生に言われるまで、なぜこんな基礎的なことにさえ気が付かなかったのか…

    「体育教師だから、ちょっと言い方が堅かったかもしれないですけどね。各クラスのことも頭に入ってますから当然、志保のことも見てますよ」

    あのときの言葉の温度が、今になって少し違って聞こえる。ただの無関心だと思っていた自分が恥ずかしくなり…杉本先生から視線を逸らす。

    「ソフトボールは、顧問になるまでやったこともなかったらしく、部員たちがあれだけの結果を出しているのは自分でも驚いたそうです。でも部員の前では『当然だ』みたいにしてるんですって!ウケますよね。」

    笑わないといけない所なのに、笑えなかった。

    「高校生からハンドボールを熱心にやっていたらしいのですが、この学校に転任してハンドボール部がなく、たまたま顧問不在になったソフトボールにあてが割れたんですって」

    頷くことくらいしかできない。

    「熱心にソフトボールの勉強をして熱心にやっていたら、当時の部員たちが徐々についてきて、自分たちで考え成長していくようなんですって……仲谷先生も熱心に志保のことを考えて、南先生も賛同してくれましたし、志保も感謝してます」


    声にならないものが、自分にもあった…
    逃げたい…避けたい…もういいでしょ…というこの羞恥のような感覚。

    「あとは志保が徐々に結果を出していきます。そしてそれを南先生を中心に、新しい学校の養護教諭にSCも加わりますから」

    運動部員たちを鼓舞するように、再び軽快な演奏がフェードインしグランドにも届いていく――

    「役目はだいぶお渡ししますが…南先生を軸にこれからも関わっていくつもりですし、彼女らの成長も見たいですしネ」

    「そうですよね……僕は大きな思い違いをしてました」

    「長尾先生は、これまでたくさんの生徒を見てきましたから…深く関わりたいという仲谷先生の気持ちも十分理解していると思いますよ」

    「…まったく、そうですね…まだまだ敵いません」

    深く息を吸い込み…ゆっくりと吐き出した。

    「担任から養護教諭とSC、場合によっては施設やSSW…そうやってチームを作ってますから、南先生の言葉を借りると、仲谷先生もあれこれ背負わなくてもいいんですよ、仲谷先生がペちゃーんと潰れてしまいます」

    ボールを打つ金属音は、演奏に消され聴こえない――


    「一緒にやっていきましょう、ね!私も美香さんもまだここにいます。長尾先生は…転任ペースでいうとおそらくあと1年…でもあと2年で定年になるので、そこを上が配慮してくれたら定年までいるかもしれませんね」

    「そっかぁ〜それまでに…長尾先生から学ばないといけないことがまだあるな〜」

    「フフ…それはそれは大変そうですね〜前に話してくれたあの木…そろそろ必要なんじゃないですか?」

    「……そうですね…確かに。そうですね…そろそろですね…自分を満足させるために行かないと…ですね」

    「フフ…そのときは声かけてください。」


    演奏は寛大なパートになり、グランドも校舎も優しく包む―。


    「まずは『忍法メガネ残し』から教わったらどうですかー?」

    「アハハ!長尾先生ですね…似てますよね〜まずメガネ買ってこないといけない」

    「ソフト部員は『忍法メガネ残し』見たことあるんですって!」

    「マジかー!ソフト部にはやっぱ甘いな〜」

    「フフ…声も似てますからねぇ、あと南先生は…」

    「あ、平野レミ!」

    「やっぱ思いました?!」

    「十中八九そうでしょ」

    「ですよね~元気で可愛いからなー」

    「メガネ残しやってくれますかね?」

    「やりますよ彼女はきっと。お笑い好きですから」

    演奏がクライマックスに差し掛かる―。


    「今年はこのスプリング・フィールドって曲を演るんですって」

    「スプリング・フィールド?」

    「いま流れている吹奏楽部のこの曲で、新入生を迎える曲なんですよ」

    「僕もさっきから気になっていたんです。いい曲ですよね…詳しいんですね」

    「いえいえ、後藤さんが教えてくれたんですよ」

    「後藤はこの3年…一緒に演奏したかったんだろなぁ」

    「…志保も、須藤さんもじゃないですか?」

    「…そうですね。間違いない…うん」



    グランドの音も混ざり合っていた音たちが静かになる――



    「…志保は合格しますよね?」

    「…彼女は大丈夫です。名前の書き忘れ〜みたいな凡ミスさえなければ…きっと大丈夫」

    「…なら良かった。合格してもらわないと、あの二人も悲しんじゃいますからね」


    なるほど……そういうことだったのか。




    まだ声にならなかったものたち〈中編〉完


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    ​エッセイと随筆……どう違うんだぁ? そのほか物語や詩を、案山子のように端っこで、ぶつくさ小声で歌い呟く。突如あらわれる人に驚き 「あっぶねぇ〜見つかるとこだった!」 と、ひやひや楽しんでいます。 140文字まだか……あ、この前帰りにすんごいモノ見たんですけど、それがなんと、あ…

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