
【連載小説】沙本毘古、沙本毘売物語 ③
(1,915文字)
春の章(予兆)
また、春がやってきた。
重いコートを脱ぎ、日差しが眩しくなった。けれど、その光は、膜が一枚かかったようで、どこか薄く、遠くに感じた。窓を開けても、風が入ってくるだけで、なにも運んできてくれない。
──なにかが、足りない。
肺の奥に、何かが引っかかったまま取れない。吸うことと吐くことのあいだに、言葉にならない間がある。息を吐いたあと、一瞬だけ、自分がどこにいるのかが曖昧になる。
***
その日、私は友だちと映画を観に行った。
館内は暗く、冷えていた。外の春とは切り離されたような、一定の温度。空気は動かず、音だけが壁に当たって戻ってくる。
席に座ると、ひじ掛けの硬さが妙にはっきりと伝わった。どこからか、甘いポップコーンの匂いが流れてくる。私も買ったはずなのに、間に置かれたそれは別物のようだった。
「チョコキャラメルにすればよかったな…」
「沙保だよ。ニキビができるから、チョコは嫌だって言ったの」
「あーあ。一回くらいだったら大丈夫だったかも」
「キャラメル味だからいいじゃん。もう始まるよ」
紙の容器の縁をなぞると、わずかにベタつく。ひとつつまんで口に入れる。甘さが広がるが、飲み込むと何も残らない。
座席の照明が落ち、隣にいるのが誰なのかさえわからなくなる。
スクリーンが光って、音が大きくなった。
目を閉じて、ほんの一瞬だけ、隣にいるはずのない誰かを感じた。
そこにいてほしいはずの人だった。
すぐに形を失って、いなくなってしまったけれど。
いつでも、どこでも、私の中心にいる。
スクリーンの中では、物語が進んでいく。笑い声が起こり、またすぐに静かになる。誰かの咳払いが遠くで響く。時間だけが、一定の速さで流れている。
誰かが誰かを抱きしめている。泣いているのか、笑っているのか、わからない。周りから小さな息が漏れる。
そのときになって、ようやくそれが悲しい場面なのだと気づく。私だけ、遅れている。感情が、どこかを通り過ぎてしまっている。
小さい頃、家族で「帰ってきたドラえもん」を見たときは泣いた。
兄も鼻をすすっていた。
あの時は、私もスクリーンの中にいた。
いつからだろう。私だけ取り残されていると感じるのは。
やがて映画が終わり、明かりがつく。
外に出ると、春の匂いがした。少し湿った風。遠くの車の音。夕方の光が目に刺さる。
青山通り。人の流れ。信号。雑踏。
スーツ姿の人たちが足早に通り過ぎていく。ショップのバッグを提げた人、スマートフォンを見ながら歩く人、笑いながら肩を寄せ合う人。信号の電子音が、一定の間隔で鳴っている。
人の声が重なっているのに、どれもひとつとして残らない。
友だちが何か言って、笑った。
「またね」
手を振られ、同じように振り返す。
ひとりになった。
さっきまで隣に誰かがいたはずなのに、その気配だけが残っている。
帰ろうとして、足を踏み出した、そのときだった。視界の端に、何かが映った。
──あれ?
人の流れの中に、ひとつだけ動きの質の違うものがある。思わず目を逸らす。それでも、もう一度見てしまう。
見慣れた背中。
──パパだ
そう思った。
隣に、女の人がいる。
女の人の指が、父の腕に軽く触れている。絡むほどではないけれど、離れる気配もない距離だった。
父は、その手を振り払わない。
女の人が父の耳元でなにかをささやく。
背の高い父は、覗き込むように顔を傾け、その長い髪に触れる。
やわらかい目で、笑っている。
見たことのない表情だった。
言葉は聞こえないけれど、ふたりのあいだに流れているものだけは、はっきりと見えてしまう。
さらに少しだけ、ふたりが近づく。
これほど多くの人が行き交う通りで、ふたりだけの世界だった。
その距離は、初めてではないように見えた。
胸の奥がざわつく。
夢中で走った。どこを通ったのかなんて、覚えていない。
信号を渡ったのか、渡らなかったのかも。ただ、足だけが前に出ていた。
気がつくと、家の前に立っていた。
玄関を開け、まっすぐに、兄の部屋へ向かう。ドアを叩いた。
「……お兄ちゃん」
机に向かっていた兄が、驚いて振り向く。
「パパが……」
言葉がうまく続かない。
「女の人と……いた」
兄は何も言わない。ペンを握ったまま、視線を落とす。少し伸びた前髪に隠れて、その横顔はよく見えない。少しの沈黙。
「……見なかったことにしろ」
静かな声だった。
「ママには、言うな」
聞いたことのない声だった。
私は、コクンと頷く。
何かが壊れたまま、戻らなかった気がした。
その夜、兄の部屋の灯りは、朝まで消えなかった。
***
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