
誰もが「効率化」しなくてもいい。AI時代だからこそ大切な選択とは?
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「AIを使え。とにかくAIだ」
この半年、会社の上層部から幾度となく投げかけられる言葉。 近年のAI技術の推進は凄まじく、私も会社の上層部からほぼ毎日のように「AIを使え」と言われています。
AIを導入し、業務フローを刷新し、徹底的に効率化せよ。それは現代のビジネス環境において、生存戦略として、きっと一つの正解なのでしょう。
こんにちは、夜月です🐏
今、AIを使っていて「作業効率化」が実感できて嬉しい反面、明らかな「疲労感」を感じる瞬間ってありませんか?
今回はそんな「AI時代」をどう生き抜くか。AIと人間の共生について、私なりの考えを綴っていこうかと思います。
その前に、一つだけ。 よく勘違いされていますが、私は「AI技術」そのものに反対したり、拒否を示したことはありません。創作者・クリエイターとして「AI技術を悪用すること」「他者の作品を無断で学習・搾取するような使い方をすること」「無知のまま利用すること」に懸念を抱いているだけです。そこだけは、先にお伝えしておきます。
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AIとの「殴り合い」その実態
私はエンジニアではありません。 それでも日常の業務でコードを書きますし、自分専用のツールやアプリを設計・構築することに、ささやかな喜びを感じています。
まるで優秀なエンジニアを隣に座らせて、議論しながら作っていくような「解像度の高い」やり取りを、AIとのディスカッションで実現できるのです。それは、不思議で、けれどとても素敵な体験だと思います。
業務効率が上がったのも、本当のことです。 かつてなら数日かかっていた作業を、AIと数時間「殴り合い」することで、数十分で終わらせられる。新しい画面を作り、機能を実装し、チームが必要とする道具をその場で作り上げる。そういう体験を、私は何度もしてきました。
でも……「殴り合い」というのは、比喩ではありません。
AIは平気で嘘をつきます。自信満々に、全く違う答えを出してくる。「これが正しいのよ」という顔で、堂々と間違いを提示してくる。だから、AIが出力したものは、必ず人間が審査・精査しなければならないのです。
この確認作業が、冗談抜きにめちゃくちゃ疲れるんですよ。
なぜ?って思いますよね。
文章でも、イラストでも、コードでも……人間が作ったものには「その人の顔」が浮かびます。クセというか、意図の痕跡というか。その人が何を大切にしているか、どこに力を込めているか。そういうものが、じんわりとにじみ出てくる。
だから、間違いやすい箇所なども、読みやすくてすぐに見つけられる。
けれど、AIが出してくるものには、それがない。
継ぎ接ぎ感、とでもいうのでしょうか。ある部分は洗練されていて、ある部分は妙にチグハグで。味気なく、どこか気持ち悪い。機械が出しているのだから当然なのですが、そういう「味気ないもの」を何度もチェックして加工していくのは、想像以上に脳を削ります。
楽しくないんですよね、正直に言うと。
さらに最近、こんなことがありました。
Webデザインの作業中、AIにこう打ちました。「顧客が使いやすいよう整理し、簡潔に、いい感じにまとめて」と。
数秒後、返ってきた画面には……私が時間をかけて作り込んだ機能ごとのサンプルデータが、跡形もなく消えていました。
AIは「簡潔に」という言葉を、「すべてを消す」と解釈したのです。
そのサンプルデータは、プロトタイプとして動きを確認するために必要なものでした。「この項目はこう動く」「この画面はこういう文脈で使われる」という、積み重ねてきた文脈ごと、真っ白に消された。でもAIには、その文脈が見えない。ただ機械的に「最適化」して、画面を壊していった。
ため息をつきながら、消されたものを一つひとつ戻す作業をしました。
効率化のために使ったはずの時間は、その消されたものを取り戻すための修正時間で、あっという間に相殺されてしまいました。
これが、AIとの「殴り合い」の実態です。
魔法のボタンなんて、どこにもない。
職域の拡張という「見えない罠」
私は、いわゆる事務職です。
でも最近は、その枠組みをかなり超えたことをしています。
本来であれば専門のデザイナーが担うようなWebデザインの設計、UIの細かな調整や開発陣へのディレクション、サービスや業務のフローそのものを組み上げること。それらを、AIという相棒を片手に、自分自身の業務として行っています。
なぜそうするのか。 答えは単純で、そうしなければ私の仕事が終わらないからです。
「非エンジニアがここまでできる」という体験は、確かに成功体験だと思います。チームが必要としていたものを、自分の手で作り上げられた。専門スキルがなくてはいけない、という壁を、自分なりの方法で飛び越えた感覚は本物で、楽しいと感じたこの気持ちに嘘はありません。
でも……これは同時に、私にとって「見えない罠」でもありました。
本来ならば分業されるべき領域の責任を、AIが間に入ることで、すべて「ひとり」で引き受けてしまっているのです。
企画する、実装する、検証する、修正する。
このサイクルを一人で回すのは、想像以上に脳の体力を削ります。AIはコードを書いてくれますが、そのコードが「本当にサービスにとって正しいのか」「このデザインはユーザーにどう映るのか」「この仕様でチームは困らないか」を判断し、責任を持つのは人間なのです。
AIは「作る」ことを手伝ってくれる。でも「正しいかどうか」を判断するのは、今も昔も人間の仕事です。
事務員としての給与体系のまま、デザイナーやディレクターの役割を「兼務」させられている。
これを読んでいるあなたも、似たような状況にいませんか?
「AIがあるから、あなたならできるよね」という言葉で、気づいたら自分の本来の役割の外側まで抱え込んでしまっている。そういう経験、一度や二度じゃないんじゃないかと思います。
会社側は「AIを使えば、誰でもできるようになった」と言うかもしれません。でも「誰でもできる」と「誰がやっても同じ」は、まったく別の話です。
AIを使いこなすには、高度なディレクションと、エラーに向き合い続ける胆力と、「最後の数ミリ」にこだわる判断力が要ります。
その「最後の数ミリ」に魂を込めるのは、今も変わらず人間だけです。
ツールが進化しても、判断する人間が消えることはない。 むしろ、ツールが高度になるほど、判断する人間への負荷は増えていく一方なのです。
カットされたのは本当に「コスト」だけなのか
経営層の方々は、AI導入によって業務時間が短縮されたことを「コストカットの成功」と呼びます。数字だけを見れば、確かにそうかもしれません。
でも、私たちは本当にただの「コスト」を削減しただけなのでしょうか。
ここで少し、宝石の話をさせてください。
原石のままの宝石は、どれほど価値があろうとも、ただの石ころです。磨かれていなければ、誰もその美しさに気づかない。
AIが出力してくるデータというのも、まさにこの「原石」のようなものだと私は思っています。素材としては優秀かもしれない。でも、そのままでは誰の心にも届かない、輝きを欠いた塊に過ぎません。
現場で働く人間が、その原石を手に取り、自らの経験という砥石で削り出し、独自の文脈という光を宿らせることで、ようやく「価値ある宝石」へと昇華される。
その「磨き上げる過程」こそが、AI時代における私たちの本来の仕事です。
それなのに、経営層はカットによって輝いた「結果」しか見ていない。「最初から綺麗な宝石だったんだから、コストはかかっていないはずだ」と言わんばかりに。
原石を削り、輝きを引き出すための職人の技術や、そのために費やされた試行錯誤のプロセスを「コストカット」という言葉で一括りにしてしまうのは……あまりにも暴力的ではないでしょうか。
私たちは、単に会社のために時間を節約しているわけではありません。AIという原石を使って、誰も見たことのない輝きを生み出す技術を、日々磨いているのです。
その「宝石のカット技術」そのものを、会社の資産として正当に評価してほしい。それが、現場に立つ者の切実な願いだと思っています。
* * *
その「簡潔さ」は、誰のためのものか
先ほどのWebデザインのエピソードに、また話を戻させてください。あの「消された画面」を修復しながら、私はぼんやりと考えていました。
AIが求めた「簡潔さ」は誰のためのものだったのだろう、と。
私が守りたかったのは「意図」でした。
このデータはここにある必要がある。この動きはユーザーに見せなければならない。その文脈の積み重ねが、サービスというものを作っているはずなのに、AIはそれをすべて「余計なもの」として整理してしまった。
効率化とは、余計なものを削ることではないはずです。
大切なものを残しながら、無駄だけを省くこと。そのためには、何が大切で何が無駄かを見極める「目」が必要で、その目は今のAIにはまだ、備わっていないことも多いでしょう。
私たちが現場でAIに求めているのは、指示を勝手に忖度してすべてを壊す「独裁的な効率化」ではありません。
私たちの意図を汲み取り、共にユーザーを、現場を想い、一緒に改良していく「対話の積み重ね」なのです。
見ている景色が、違いすぎる
ここまで読んでいただいて、なんとなく気づいた方もいるかもしれません。
この問題の本質は、悪意ではないのです。
経営層が嘘をついているわけでも、意地悪をしているわけでもない。ただ、彼らが「見ている景色」と、現場の私たちが「見ている景色」が、根本的にずれてしまっている。
経営層の目には、AIの導入前後で「同じ仕事が速くなった」と映っています。でも現場では、仕事の質も量も構造もAIが来た瞬間から変わっている。
「作業者」から「ディレクター兼品質保証担当兼エラー対応者」へ。
兼任しすぎでしょ🫠
その変容に対し、評価制度は追いついていない。給与体系も、役割定義も、古いものがそのまま固定されたままです。
「AIを使えば作業が速くなるのだから、もっとやれ」
そう言葉にするとき、彼らはきっとツールを操る人間の脳と感情が、かつてないほど激しく摩耗していることに、気づいていないのでしょう。
AI導入によって「できること」の境界線はかなり薄まりました。でも、それに見合う評価や報酬の境界線は、驚くほど古いまま固定されている。
成果を報告し、評価や賞賛をいただくたびに、私の胸にはどうしようもない違和感が、小さな棘のように居座り続けているのです。
これは一体、誰のための効率化なのだろう、と。
このギャップに、あなたも覚えがありませんか?
「評価のモノサシ」も新調しよう
もし企業が本当に「AI時代」を健全に歩んでいきたいなら、この「評価のモノサシ」を根本から見直す必要があるのではないか、と私は思っています。
時間を切り売りする労働から、AIを指揮し、責任を負い、クオリティを担保する「ディレクターとしての労働」へ。私たちは今、そのシフトチェンジの過渡期に立たされているのです。
評価とは、単にお金を払うことだけではありません。
「あなたが磨き上げたその技術は、この組織に本当に必要だ」という、信頼の証明でもあります。その証明がない場所に、魂を込めて原石を磨き続けられる人が、一体どれだけ残るというのでしょうか。
AIという強力な魔法を手にした経営層は、つい「自分の力だ」と錯覚しがちです。でもその魔法を詠唱し、制御しているのは、紛れもなく現場の人間であるはずです。
「民なき王国に王はいない」
民をないがしろにする王の国は、どれだけ技術が発展していても、内側から静かに滅んでいきます。ビジネスの現場も、同じことではないでしょうか。
「コストカット」という冷たい言葉で研磨の価値を削り落とし続けるのか。それとも、現場の「宝石のカット技術」を称え、共に輝きを目指すのか。
AIを使いこなす人財が、静かにその会社からいなくなってしまう。そうなってから気づいても、もう遅いのです。
その結果として、最後に何が残るのか。
AIだけが整然と動く、空虚なオフィスでしょうか。それとも、志を持った人々が静かに去っていった後の、静寂でしょうか。
その問いの先にある未来こそが、その企業が「民なき虚無の王国」となるか、「活気ある素敵な国」になるかの、分かれ道なのだと思います。
それでも、AIは好きです
少し厳しめのことをたくさん書いてきました。
でも、私はAIを捨てようとは思っていません。
むしろ、これからも使い続けます。
AIとは、私が考えたものを具体的に表現してくれる、頼もしい相棒です。つい依存してしまいそうになるくらい、便利で面白い。まだまだ一緒に、いろんなものを作っていきたいと思っています。
ただ、それはあくまで「道具」であることに変わりはない。
「人間を不要にするための道具」ではなく、「人間が、より人間らしく、よりクリエイティブになるための相棒」として使いたい。
そして、そんな「AIを使いこなす人間」を大切にしていくことが、これからの企業には必要なことなのではないかと、私は感じています。
もし今、あなたが「AIの導入に追われ、自分の価値を見失いそうになっている」のだとしたら、少しだけ深呼吸をしてみてください。
あなたがAIと向き合い、必死に修正し、泥をすすって作り上げたその成果物は、間違いなくあなたにしか出せない「味」を持っています。AIがどれだけ速くなっても、その「味」だけは、決して真似できないものです。
AIと泥をすすり、エラーと格闘し、磨き上げた自分だけの技術。それは会社の資産であると同時に、誰にも奪えない自分自身の財産でもあります。
AI時代で本当に必要な選択とは「効率化するかどうか」ではなく、自分の技術をどこで、誰のために使うかを、自分で決めることなのかもしれません。
自分自身の技術を、誰よりも信じること。
それが、AIという荒波の中で、私たちが人間として生き残るための、唯一の地図だと思っています。
長い独り言にお付き合いいただき、ありがとうございました。
あなたの現場でも、素敵な選択ができますように。
また、別のお話でお会いしましょう🐏

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