
読み聞かせと消防ホース
数年前まで、自分の子どもたちが通う小学校で月に一度の「読み聞かせボランティア」に参加していた。
子どもたちが卒業してからも、なんだかんだと居座り続け、気づけば10年以上通い詰めていたことになる。
朝のホームルームから1時間目の授業が始まるまでの十数分間。お父さんやお母さんたちが絵本を小脇に抱えて各教室へ向かい、生徒たちの前で本を読むのだ。
とはいえ、当時は参加するお父さんは絶滅危惧種並みに希少で、基本は私一人。多くてもせいぜい3人といったところだった。
読む本は、読み聞かせ委員の方々が事前に選定し、クラスの数だけ図書館で調達してきてくれる。1年生向けは言葉が優しく文字数も少なめだが、5、6年生ともなるとかなりの文章量になる。時計の針を気にしつつ、子どもたちが退屈しないよう読む速度を調整するのは、なかなか気を使う作業だった。
ニュートラルとインタラクティブ
私がボランティアを始めたのは、同じマンションのお母さんに誘われたのがきっかけだ。しかも自宅が小学校の目の前だったことも大きい。読み聞かせたあと、そのまま仕事に行ける。
最初はただ間違えずに読むだけで精一杯だったが、生来の「何にでもアレンジを加えたくなる性分」がすぐに顔を出した。
「この時間を、もっと楽しく、豊かな経験にするにはどうすればいいだろう?」
そう考えた私は、読み方に少しずつ自分なりの試行錯誤を加え始めた。
たとえば、『ゼラルダと人喰い鬼』。
作中に「すかんぽ(スイバ)」のスープが登場する。現代の小学生にはあまり馴染みがないだろうと思い、私はタブレットで写真を見せながらこう語りかけた。
「茎を折って舐めると、すごく酸っぱいんだよ。近所の河原にもたくさん生えてるよ」 (もちろん、「その辺の草は汚いかもしれないから食べちゃダメだよ」という現実的なアドバイスも忘れずに添えた)。
絵本の世界と彼らの生きる現実をリンクさせ、物語から広がっていく体験をしてほしかったのだ。
ただ、読み聞かせの指南書やWebサイトを見ると、「本の内容をニュートラルに伝えるため、話題の脱線や過度な感情表現は控えること」を推奨する意見が見受けられた。それを知ったときは、正直少し残念な気持ちだった。
我が子がまだ小さかった頃、自宅での読み聞かせはもっと自由で、途中で解説を入れたり、感想を言い合ったりするインタラクティブなものだったからだ。そのやり取りは、一方的で終わらない大切なコミュニケーションだった。
もちろん、家での個別対応と対多人数では勝手が違うのは理解している。それでも私は、あのニュートラルな流儀に自分の中でそっと反旗を翻し、物語の本筋を壊さないギリギリのラインで、絵本の世界を広げるミッションに挑み続けた。
『かさどろぼう』を 読む前には、
「この本の舞台と作者はスリランカです。スリランカって何が有名か知ってる?」と地理の話を振る。「紅茶!」と即答した小学4年生がいて、その教養の高さに心の中で10秒間のスタンディングオベーションを送った。
『このよで いちばん はやいのは』 の作中に、雷の「光」と「音」の伝わり方の違いが出てくる。
「光の速さって知ってる?」と聞けば「秒速30万キロ!」
「音速は?」と聞けば「秒速約340メートル!」と即答する猛者がいた。さすが6年生。
そこで、「雷がピカッと光って2秒後にゴロゴロ鳴ったら、ここからJRの駅くらいの距離(約700m)に雷が落ちたってことだよ」と伝えた。
リアルな距離感とともに、科学の面白さを肌で感じてもらえたら嬉しい。
この試みは、やり過ぎれば、計算し尽くされた絵本の世界観をぶち壊してしまう。
その加減の難しさゆえに、絵本の世界観を突き詰めた結果が「ニュートラルな読み聞かせ」なのだろうとは思う。
それでも私は、このライブ感を手放せなかった。

小2男子の悲鳴と、我が家の「消防ホース」
そして、かねてから私がひそかに温め続け、ついに実現させたのが、小学2年生を対象にした『おっぱいのひみつ』の読み聞かせだ。
前年から委員に熱烈推薦してラインナップに入れてもらい、自ら読み手を志願した。小学1年だと幼稚園児に近すぎて面白みに欠け、4年生以上だと性を気にし始めてドン引きされる危険性がある。そこで最も「アホっぽさ(愛すべき特性だ)」が輝く2年生がベストターゲットだと踏んだのだ。
当日。教室に入り、礼をする間も表紙が見えないように細心の注意を払う。そして読み聞かせ用の椅子に腰掛け、
「今日の絵本は『おっぱいのひみつ』です!」
と表紙を掲げた。
瞬間、小2男子たちは身を捩り、隣の友だちと抱き合いながら、恥ずかしさと行き場のない感情を爆発させ、「きゃ〜〜」と廊下まで響き渡る悲鳴と雄叫びを上げた。かたや女子たちはちょっと引き気味。
それもそのはず、みんなのお父さんより年上のオジサンが、朝っぱらから神聖な教室で「おっぱい」と連呼するのだ。ほぼセクハラ事案かもしれない。
しかし、私はこの小2男子の悲鳴を聞きたいがためだけに、長年計画をしたためて来たのだ。
絵本自体は、男女の身体的違いから始まり、母乳を通したあたたかい記憶を呼び起こす素晴らしい内容だ。読み進めるうちに彼らの悲鳴は消え、自分の幼少期を思い出したのか、次第にほっこりとした表情に変わっていく。
そして、この絵本のあとがきには、「病気などの事情で母乳が飲めない、飲ませられない場合もあるけれど、それは決して子供への愛がない事ではない」という丁寧な説明があるのだが、小2には少し文章が硬く、難しい。
しかし、それを伝えないと母乳至上主義思想のまま家に帰すことになってしまう。そこで私は、少し長めの我が家のエピソードを付け加えた。
「うちの娘は、ちょっと体が細く弱めの赤ちゃんだったんだ。でも、うちの奥さんの母乳はなぜか消防車の消火ホースみたいな勢いで『ぶしゅー!』って噴射されるのね。
夜、娘がお腹を空かせて泣くからおっぱいをあげるんだけど、娘の吸う力が弱いところに、消火ホースの水圧がドーンと迫ってくる。
どんなに頑張っても、むせて咳き込んじゃうんだ。結局お腹は空いたままで、また泣いて、母も娘も疲れ果てちゃった。
誰も病気じゃないし健康なのに、うまくマッチングしなかっただけなんだよね。だから母乳はお休みして、哺乳瓶で粉ミルクをあげることにした。
そうしたら、娘は自分のペースでゆっくり飲めるようになって、やっとみんな幸せに眠れるようになったんだよ。
ちなみに、その後に生まれた弟は、その荒ぶる消火ホースの噴射をものともせず、むせることなく満足するまでゴクゴク飲み干しましたとさ。
めでたし、めでたし。」
すると案の定、「弟すげー!!」「この学校にいるの!?」「何年生!?強い!?」と男子たちから質問攻めに遭った。君たちはいったい何を求めているんだ……(残念ながら、その当時強靭な息子はすでに中学生だった)。
「では、今日帰ったら、自分が赤ちゃんの頃どんなだったか、ミルクをどうやって飲んでいたか、ぜひお家の人に聞いてみてね」と締めくくり、その日の読み聞かせは、「やりすぎた感」と共に幕を閉じた。
「読み聞かせポジション」と見果てぬ野望
そんな幸福で刺激的なボランティア生活だったが、終わりは突然、そして物理的にやってきた。「老眼」である。
私はもともと強度の近視なのだが、10年ほど前からゆっくり老眼が始まった。
普段はメガネを外せばスマホの小さい文字も問題なく見える。
しかし、読み聞かせの姿勢は特殊だ。
子どもたちに絵が見えるよう、絵本を体の真横に、体から大きく離して構え、覗き込むように顔を向けて読む。ただでさえ斜めから見る文字は読みにくいうえに、距離がある。すると近視用メガネをかければ老眼で文字がぼやけ、外せば近視のせいで文字が小さくて見えない。 この「読み聞かせポジション」は、絶望的なまでにピントが合わない死角なのだ。

しばらくは気合いでカバーしていたものの、ついに文字を正確に追うことが難しくなり、適当な文章を作るまでになってしまい、悔し涙を飲みながら引退を決意した。
読み聞かせに、まさか「年齢制限(視力制限)」が存在するとは、まさに盲点だった。
実は、いつか自分の作った絵本を子どもたちに読み聞かせるのがひそかな夢だった。そのために作った「一杯水」の絵本は、縁あって中国語版として出版されたものの、日本語版はいまだ実現の目処が立っていない。
しかし、日本語版が出版されても、再びあの教室の椅子に座れる日が来るのだろうか。。。
可能なら、完璧にピントの合う未知の老眼鏡を引っ提げて、子どもたちの前で思い切り脱線してやろうと密かに目論んでいる。