メインコンテンツへスキップ
見出し画像

おりろ

    幼い頃は仲が良かったが、弟とは二十代の一時期、互いにほとんど口をきかなかったことがある。

    薄っぺらい理想を盾に、親のスネをかじりだらだらと実家に寄生し続けるプーの私を、苦々しく疎んじていたのだろうことは、想像に難くない。
    そしてコチラにしても積極的に話しかけることを躊躇ためらう程には負い目があった。

    実質「ニート」と今なら呼ばれるところの兄を横目に、ああはなりたくないと思ったのだろう。就職難の時期でもあったが、弟はとっととビルメンテナンスの会社に就職を決めた。


    教唆の声 1

    弟の話。

    A湖畔の、とある温泉ホテルにて改装工事があり、弟はその現場に同僚と赴いた。

    ある階の一角にある小さなエレベータホールの窓を拭いていたのだそうだ。

    エレベータは人が乗るためではなく配膳用のもので、壁面からいくらか凹んだ、申し訳程度のエレベータホールだった。
    採光用の窓は、その高い位置に設けられていた。
    脚立を使って窓枠にまたがり、上半身を外に出してガラスの外面を拭いていたという。

    上層の階である。
    ガラスを拭きながら何気なく外を眺めると、はるか真下に、敷地の整備に使うのか円錐状に積み上げられた砂利の山と、その傍らにトラックが停めてあるのが見えた。

    「お、たっけーなー、落ちたら死ぬなー」
    ひとごとのように思いながら手を動かしていると、

    『おりろ』
    と声がした。

    えぇ?
    同僚がふざけて声をかけてきたのだと思った。
    野太い男の声だったからだ。わざと低音で脅しているのだろうと。
    「何だよ」と半笑いで応じて、頭を窓枠の外から建物内にくぐらせて振り返って見た。
    そこから見えるのは長く続く廊下の一部だ。見える限り誰の姿もなかった。

    同僚は別の作業をしておりこのフロアにさえいないのではなかったか。
    はぁ空耳かと気を取り直して作業に戻る。

    「にしても『おりろ』ってなんだよ落ちろじゃねーのかよー、なんだその中途半端な押しの弱さは、こんなところから下りたらまた戻るの面倒だわー」
    などと心の中で貶けなしながら作業を続けたそうだ。

    『おりろ』

    また聞こえた。
    ビビっていなかったと言えば嘘になるという。
    なぜなら、さっき声に振り返ったときに半身を外から中にくぐらせたが、作業に戻るときは頭を再び外には出さずに、片側の脚と肩だけを出した状態でいたからだ。
    いま頭は建物の内側にあり、明らかにその耳元で、息がかからんばかりの近距離で声がしたのだ。
    振り向いたが、誰もいないのはわかっていた。
    そして完全に固まった弟の耳元で、またしても声が続けた。

    『おりろ。トラックのうえならだいじょうぶだ。』

    曇り空だが、昼ひるの日中ひなかである。
    しかしさすがにこれは気味が悪かった。周りを気にしながら手早く作業を切り上げ、慌てて窓枠から下りた。
    声はそれきりだった。
    同僚はやはり全く別のところで作業していたのだそうだ。

    「なにが『だいじょうぶ』なんだか」と弟。

    いやー、なかなか気持ち悪い話だな、と私は鳥肌を立てながら感心して聞いていた。
    弟は継いで言った。
    「でも、それ一回だけじゃなかったんだ。それからずいぶん経った後に、だけど」

    教唆の声 2

    市内中央通り沿いに建つ電力会社の大きなビルでの仕事だったという。

    後に建て替えられて違う形状となったが、かつては飾り気の無い、ただ真四角のビルだった。
    6階建てだったか。
    でん、とした箱型で、そのビル最上部には巨大な、建物より高いくらいの通信用らしきアンテナ塔が、屋上の四隅近くに足を踏ん張るようにして乗っていた。

    いつの時代の様式か、
    平らな屋上の外周には柵さくさえなかった。
    弟はその屋上に出たことがあるという。

    そのビルでの作業内容は憶えていないが、と。
    作業を終えた後か、休憩中だったのか。
    独ひとり、柵も無い屋上の縁へりに腰掛け、両脚を外壁面に投げ出してブラブラさせていた。

    眼下には駅から伸びる中央通り。人や車が行き交っている。
    どこか現実味の薄い景色に、例によって「落ちたら死ぬなー」と、特段の感慨もなくそれらを眺めていたそうだ。

    6階建ての屋上の、コンクリートの「直角のヘリ」である。
    よくもそんなところでそんな姿勢でと、高所恐怖症じゃなくても聞いてゾワゾワしたが、弟いわく

    「そんときはもう仕事が嫌で嫌でさ」

    どうにでもなれという気であえてそんなことをしていたようだと、これも他人事のように言う。

    「そんときにまた聞こえたんだ。同じ声」

    『おりろ』

    はあ?
    なに言ってんだ。
    ああ、あの時のか、またかよ、と。

    恐怖は無かった。
    反応してやるのも業腹だ。面倒くさい。と無視した。

    『だいじょうぶだ。おりろ』

    うるせえ、なにが『だいじょうぶだ』だ。しつこいわ。
    再度の声に、ダルさを隠しもせず、ため息混じりに後ろを振り向いた。

    アンテナ鉄塔の脚を支える四つのアンカー部をのぞけば、殺風景なだだっぴろい屋上のド真ん中、外周からは遠く離れた鉄塔の股の真下に、鉄扉だけの小さな建屋ハコがぽつんと飛び出ているだけ。

    誰もいないのは分かりきっていた。

    「あー、もういいや、潮時だ。この仕事やめろってコトだな。はいはい、そーゆーことですねーって」

    だから当時、それで辞める決心がついた、と弟はちょっと笑いながら語った。


    弟は職が変わり、前後して私も定職に就いた。
    たまに実家にて顔を合わせた深夜、ビールのアテにぽつりぽつりと、こうしてまた話をするようになった。

    これを含め、投稿しているのはそんな折に聞いた話である。
    兄弟仲は、今は悪くない。


    その頃に聞いた話


     
     
    読ませていただいてばかりで恐縮です。 書くのにとても時間がかかるのでご容赦ください。

    あなたへのおすすめ