
心よ、王冠を拒め~女王の卵は、死神に抱かれて夢を見る~#6
第6話 砂塵と清拭
製塩所の中は、潮風が運んできた夜の冷気に満ちていた。
レイは、使い古された革袋の上にモナを横たわらせると、感情を削ぎ落とした手付きで火を熾(おこ)した。
埠頭での重労働で、彼女自身の筋肉も悲鳴を上げているはずだが、その動きには一切の無駄がない。
鍋の中で、港で調達した僅かな干し肉と根菜が、塩気を帯びた湯に踊っている。
パチ、と爆ぜた火の粉の音に、革袋の上の身体が微かに跳ねた。
「……あ」
漏れたのは、先ほど森で泣き叫んでいたモナの幼い声ではない。
暗闇を凝固させたような、鋭利な知性を宿した瞳。
イリスが、覚醒した。
彼女は上体を起こそうとして、全身を走る痛みに顔をしかめる。
裸足で走った足裏の裂傷、茨に裂かれた肌、そして、過呼吸の後に残る肺の重苦しさ。
それらの痛みの記憶が、自分の中にいた「別の誰か(モナ)」が、無様に暴れ回った事実を雄弁に物語っていた。
「目が覚めたか。……食え。身体が冷え切っている」
レイは、湯気の立つ木碗を差し出した。
イリスはその碗を受け取らず、暗がりの中でレイの無機質な顔をじっと射抜く。
その視線は、かつて標的を鑑定した裁定官のように冷ややかだった。
「……モナが出ていたのね」
イリスの声は、震えることもなく平坦だった。
「醜く泣き喚き、貴女に縋(すが)り、挙句の果てにその頬に傷をつけた。……そうでしょう?レイ」
レイの左頬には、今も乾いた血の跡が一本、細く残っている。
イリスはその傷を、まるで自分を汚す汚物を見るかのような嫌悪の眼差しで見つめ、それから嘲笑を浮かべた。
「どうして、そのまま捨て置かなかったの。あれはもう、誰の命をも蝕む猛毒よ。……刺客の貴女なら、合理的でないものは排除するか、放置するのが正解のはずよ」
猜疑心が、針のように言葉に混じる。
自分が「ただで救われる」などという不条理を、イリスの知性は拒絶していた。
救いには対価が必要であり、その対価を払えない自分を助けるレイの行動には、何らかの「裏」があるはずだと、彼女の脳が警報を鳴らしている。
「捨て置く理由はなかった」
レイは碗を床に置き、無雑作に自分の頬の傷を拭った。
「私は、自分の追手を巻くためにお前の知恵を利用している。お前との鬼ごっこに付き合うぐらいは造作もないことだし、殺す理由も捨て置く理由も生じていない。それに、モナにも言ったが、私を殺せるほどの毒など存在しない」
「……ふん、相変わらずの傲慢さね」
イリスは吐き捨てるように言い、ようやく差し出された碗を手に取った。
木碗から伝わる熱が、冷え切った指先の感覚を呼び覚ましていく。
レイが「自分を殺せる毒など存在しない」と言い切った時、イリスの胸の奥で、苛立ちとも安堵ともつかない奇妙な震えが走った。
自分という存在を「毒」と定義され、なおかつ「取るに足らない」と一蹴されること。
それは女王候補として崇められ、あるいは「危険なサンプル」として隔離されてきた彼女にとって、初めての、そしてもっとも残酷な「対等」の扱いだった。
「いいわ、レイ。貴女のその『無敵』が、いつまで保つか見ものね」
イリスは熱い湯気を吸い込み、一口、スープを口に運んだ。
泥臭い根菜の味と、安っぽい干し肉の脂。
かつての宮廷で口にしたどんな美食よりも、今の彼女にはその「粗末な現実」が痛烈に響いた。
「……街で何を見てきたの。貴女のその様子だと、ただの荷担ぎで一日を終えたわけではなさそうだけど」
スープを飲み下すと同時に、イリスの瞳に「解析者」としての光が戻る。
レイの外套に付着した僅かな煤、いつもより深い位置にあるナイフの柄、そして、彼女の視線の鋭さ。
イリスは、レイが意識的に隠そうとしている「外の空気」を、嗅覚よりも鋭い洞察力で察知していた。
レイは無言で、腰のポーチから数枚の汚れた銅貨を取り出し、イリスの前に並べた。
「今日の報酬だ。それと、今日のところは人や荷物の往来について、帝国に関わる情報はなかった」
「……そう。なら、まだしばらくはこの『静かな毒溜まり』も維持できそうね」
イリスは再びスープを啜り、今度はゆっくりと飲み下した。
だが、その視線はレイの手元から離れない。
並べられた数枚の銅貨。
一日中重荷を背負い、汗と泥にまみれた対価。
イリスはその不規則な円の並びを、まるで不吉な星図を読み解くように見つめた。
「けれど、レイ。貴女自身が気づいていない『変化』があるわ」
イリスが細い指先で、並べられた銅貨の一枚を弾いた。
金属特有の鈍い音が、静まり返った製塩所に響く。
「今日の貴女は、いつになく殺気が研ぎ澄まされている。……帝国という巨大な網を警戒しているのとは違う、もっと個人的で、執拗な影を振り払おうとしている。……違うかしら?」
レイは無言で火を見つめたままだ。
イリスの指摘は、鋭利な外科医のメスのように、レイが意識下で蓋をしていた警戒心を抉り出していた。
――街で、帝国兵の姿は見なかった。
だが、埠頭の喧騒の中に、確かに「混じっていた」のだ。
潮の香りに紛れた、喉を焼くような砂塵と冷たい鉄の匂い。
感情を殺し、ただ効率のみを追求する同業者の気配。
かつてレイが、自らの血肉を削るようにして技術を叩き込まれた暗殺組織、『ダスト・コリドー(塵の回廊)』。
組織にとって、今回の依頼は「完了」しているはずだった。
女王候補カリナは死に、その身代わりが検分された。
しかし、執行者であるレイが、その報告義務を怠り、未知の場所に潜伏し続けている事実は、彼らにとって許容できない「エラー」に他ならない。
(……掃除人が、放たれた)
組織は、秘密を漏らす可能性のある「壊れた道具」を放置しない。
レイが「女王候補」という名の毒を飲み込んだその瞬間に、彼女自身もまた、組織から排除されるべき「汚染物質」となったのだ。
「……お前には関係のないことだ」
レイは低く、拒絶するように告げた。
だが、イリスは冷たく口角を上げ、描きかけの地図の上に指を走らせる。
「関係なくはないわ。貴女が私の『足』である以上、その足が折れることは、私の死を意味するのだから」
イリスは石灰を手に取ると、地図の空白地帯に、一つの紋章のような図形を描き入れた。
それは、砂時計と剣を組み合わせたような、奇妙に幾何学的な形だった。
石灰で描かれた不吉な紋章を睨みつけたまま、製塩所に沈黙が降りる。
レイは無言で立ち上がると、隅に置かれた古びた鉄鍋に、貴重な真水をなみなみと注いだ。
「……何をするの」
「汚れを落とす。泥をつけたままでは、傷が腐るぞ」
火にかけられた水が、次第に小さな泡を立て始める。
レイは港で余分に買っておいた清潔な端切れを、煮立ち始めた湯に浸した。
「ぼんやりしてないで、服を脱いでろ。それともお前は、自分で自分の背中を拭けるほど体が柔らかいのか?」
レイの言葉は相変わらず無機質だが、そこには組織の「掃除人」を警戒する尖った殺気とは別の、静かな温度があった。
イリスは、一瞬だけ「女王候補」としてのプライドと「モナ」を曝け出してしまった脆さの間で揺れる。
観念して、身に纏ったチュニックを慣れない手つきで脱ぎ去ると、熱を帯びた布が肌に触れた。
暗い製塩所。
焚き火の明かりだけが、二人の肌を浮かび上がらせる。
布越しに伝わる熱。
それは、解析不能な不純物が、少しずつ二人の間に浸透していく温度でもあった。
湯気を吸った端切れが、イリスの細い肩筋をなぞる。
森を駆け抜けた際についた泥の汚れが、熱とともにゆっくりと拭い去られていった。
「……っ」
熱い布が背中の生傷に触れた瞬間、イリスの喉が小さく鳴った。
だが彼女は声を押し殺し、ただじっと、暗闇の先を見つめる。
かつて宮廷の侍女たちに傅(かしず)かれていた時とは違う。
レイの指先から伝わるのは、甘やかされるための愛撫ではなく、生存のための「手入れ」だ。
「……貴女の背中も、見せなさい」
イリスが、振り返らずに低く言った。
レイの手が一瞬、止まる。
「私はいい。慣れている」
「『道具』は手入れを怠れば錆びる。そう言ったのは貴女よ、レイ」
イリスは、布を自らの手で拾い上げ、湯に浸した。
その瞳には、先ほどまでの猜疑心とは別の、観察者としての冷徹な意志が宿っている。
レイは僅かに躊躇(ためら)った後、無言で上衣を脱いだ。
焚き火の爆ぜる音が、不自然なほど大きく響く。
剥き出しになったレイの背中を見て、イリスは息を呑んだ。
そこには、若い女の肌にあるはずの滑らかさはなかった。
何重にも交差する古い鞭の跡、鋭利な刃物で抉られた痕跡、そして、弾丸が掠めたような歪な痣。
それは、「塵の回廊」という地獄で彼女が生き延びてきた、凄惨な履歴書だった。
「……これが、貴女の『無敵』の正体なのね」
イリスの手が、震えながらも熱い布をレイの背に当てる。
埠頭の仕事でこびりついた鯨油の匂いと、「モナ」と鬼ごっこをした森の匂いが、湯気の中に溶け出していく。
「お前が怯えるようなものではない。ただの古傷だ」
「いいえ、違うわ。……貴女は、自分の体を一度も『自分』のものだと思ったことがないのね。ただの消耗品として、削りながら生きてきた」
イリスの指先が、レイの肩甲骨の下にある、もっとも深い傷跡に触れた。
レイの身体が微かに強張る。
暗い製塩所の中、互いの肌を拭い合うその行為は、皮肉にも、彼女たちが帝国のどの人間よりも深く、互いの「痛み」に触れていることを証明していた。
外では、組織の「掃除人」が、レイの血の匂いを辿り始めている。
だが、今この瞬間だけは、熱い湯と湿った布の感触だけが、二人の世界を定義していた。
「……レイ。その傷がまた増えることになったら」
イリスは、レイの背中を拭う手を止めた。
「その時は、私の毒を使いなさい。……貴女を殺すためではなく、貴女を殺そうとするものを、根こそぎ枯らすために」
レイは答えなかった。
ただ、新しくくべた薪が、闇の中で力強く爆ぜた。