時間は流れ 時は止まる
時間は刻々と流れ、過去は足早に遠のいていく。年齢と共に時間の流れが早まるというのは本当だった。
30歳を過ぎると、時間経過は突如として加速する。40代はあっという間、50代は瞬く間、60代は一瞬。気がつけば、古希はもう目の前だ。
前回投稿した記事「ヤモリは家守」には、1980年代に撮ったインドの旅写真を挿入した。アルバムの中で劣化し、ほとんどセピア色に変色していたものをAIによって復元し、その上で微調整を施したものだ。今回はそれらの写真の再掲載に加え、新たに修復した画像を添えた。
まるで数日前に撮ったばかりのような鮮明さに、言葉を失う。単なるノスタルジックな思い出写真ではなかった。当時の光や空気感、元のプリント写真では覆い隠されていた細部が鮮やかに立ち現れ、当時の心の動きまでもが湧き上がってくる。
心に深く刻み込まれた記憶は決して色褪せることがない。時間の流れから逸脱し、時のない世界に封印されていたかのようだ。


1970年代後半から80年代初頭にかけて、東京は高度経済成長の余熱を残したまま、誰もが将来の夢に向かって、黙々と突き進んでいた。
徹夜仕事も当たり前。悩み事や将来の不安、あるいは過去の軋轢など、個人的な心の問題は二の次三の次。胸襟を開いて悩みを語り合う余裕など皆無だった。
そんな時代に、「灼熱と混沌の大地インド」という得体のしれない言葉が巷に流布し始めた。
ビートルズが1960年代にインドから影響を受けたことがきっかけとなり、その後日本人アーティストたちがインドへ行き、相次いで写真集や紀行文を出版するようになった。
そこに描かれた世界は日本とは真逆の、極彩色に彩られた生命力溢れる大地と、人々の生々しい生き様だった。
自分の居場所を見出せず、二進も三進もいかずに喘いでいた若造にとって、「インド」という言葉の響きは遥か遠くに揺れる蜃気楼のように、美しく幻想的に輝いていた。
数年間、がむしゃらに働いて貯めたお金をすべて引き出し、憧れのインドへ旅立った。しかし、現地で待ち受けていたものは、そうしたエキゾチックドリームとは裏腹な、あまりにもシリアスな現実だった。
街中で小さな子どもたちが地面に落ちた木の実を拾って口に運び、食べながら小さな胸のポケットにも押し込んでいた。歩道の隅にしゃがみ込み、拾い集めたわずかな薪で火を起こして料理を作り、赤子を育てている若い母親がいた。大勢の男たちが食堂の前に座り込み、地面に放り投げられた残飯を野良犬と激しく奪い合っていた。
生きるか死ぬかの瀬戸際で、エゴもプライドも何もかもかなぐり捨て、それでも尚生き続けようとする凄まじい執念に、日本の温室育ちの若造は強烈なカウンターパンチを喰らった。


そうした旅を続けていくうちに、やがて心に残る印象的な場面が増えていった。それは人々の「眼差し」だった。行く先々で出会った人たちは、大人も子供も皆、私の目をじっと見つめていた。
当時の日本社会ではあり得ない光景だった。彼らインドの人々は、遠い異国からやってきた若者をしっかり捉えていた。
「お前はいったい何者か」
彼らのキラキラとした視線がそう言っていた。じっと見つめる瞳は、白亜のタージマハルよりも、カジュラホの荘厳なヒンドゥー寺院よりも、ガンジス川の賑わいよりも、はるかに強烈で生気に満ちていた。
避けようもない射抜くような眼差しが次から次へと押し寄せ、その度にこちらも負けじと見つめ返す。相手が目を背けるまで視線を絶対に逸らさない。
その繰り返しの中で、自らを守る意味は失われ、握りしめていたアイデンティティは崩れ、若者の心はゆっくりと開いていった。言葉の壁、人種の壁を越えて、何かが共鳴する手応えのようなものを感じ取った。
「俺は何者でもない。ただの人間だ」


日本人は「空気を読む」ことに長けている。言葉を介さずとも、互いの気持ちを推し量ることができる。
その反面、人と人との間に網目のような緩衝地帯が張り巡らされ、互いに心を開き、核心に近づくことを許さないような壁を感じることがある。心を閉ざすのは自分自身の弱さを守るために必要な防衛でもあるだろう。反抗的な態度や沈黙だけでなく、時には饒舌さや、地位、肩書、財産、身なり、知識といった後天的な属性のすべてが、自分を守る鎧になり得る。
しかし心を閉ざしたまま、言葉と感情と態度だけで理解し合い、絆を結ぶのは難しい。立場や力によって相手をコントロールしようとする限り、心の温もりと出会うことはない。
関係性の中で、感情や理屈、立場や肩書は脇に置く。相手の目をじっと見つめ、ゆっくりと丁寧に自分の「想い」を語りかける。
すると、信頼が生まれる。相手が自分をコントロールしようとしていないと分かれば、心の扉は魔法のように開かれる。壁は崩れ去り、言葉以上の共鳴が起こる。そのことに、私は日本に帰国したあとに気がついた。


瞳の奥の闇を見つめると、そこに見いだすのは深遠なる「空」だ。あたかも透明な水が湧き出る井戸を覗き込むように。それは何ものにも染まらない、その人自身の純粋な核心を映し出している。
顔立ちや髪の色、体形は歳とともに移り変わっていく。しかし瞳の奥の「空」だけは生まれてから死ぬまで同じだ。そこには深い安らぎに満ちた静寂がある。容姿だけが人生経験と時間の流れを映し出し、瞳の奥で「時」はずっと止まったままだ。
しかしそこにこそ、その人の真実が秘められているのではないか。
人は一生の間に、互いに見つめ合い、心を開いて自分自身の核心を曝け出せるような人に、いったいどれほど出会えるのだろう。
時間の長さは関係ない。一期一会の出会いの中で、それは起こり得る。見つめ合うことを許すとき、互いのエゴやプライド、壁や鎧が意味を失い、防衛本能が崩壊し、立場や地位、アイデンティティ、未来も過去も溶け去るような出会いは起こり得る。そこにあるのは決して傷つくことのない安らぎに満ちた静寂だ。
「私はここに生きている。あなたもここに生きている」
その時、人生は真に報われる。
インド 1983









































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Shiv Kailash | The Amruta Kolatkar Studio - Season 1
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「シヴ・カイラス」
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雪に覆われたダウラダール連峰の王よ
どうか私たちの苦難を取り除いてください
至高なる時の主よ、不滅の尊よ
雪に覆われたダウラダール連峰の王よ
どうか私たち皆に恵みをお与えください
どうか私たちの苦難を取り除いてください

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