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渇望が、俺に囁いている。

    前に、俺は書いた。命を削りながら書いている、と。

    じゃあ、何のために。どこに向かって、俺は削っているのか。今日は、それを、考えたい。

    先に言っておく。病んでいるわけじゃない。これは、告白じゃなくて、観測だ。自分の中で、何が起きているのかを、外から見てみたいだけだ。


    何のために、書くのか

    最初は、自分のためだった。

    書きたいから、書いていた。ただ、それだけだった。頭の中の靄が、言葉になって外に出る。
    それで自分の輪郭を見ていた。

    でも、そのうち、数字に目がいくようになる。ビュー、スキ、フォロワー。だから俺は、言い方を変えた。「一人のために、それを広く届けたいんだ」と。嘘じゃない。でも、全部でもなかった。

    じゃあ、その先は、どうだ。

    弱いくせに、酒に頼って感覚を鈍らせ、カフェインで思考を無理やり加速させて、孤独に耐えながら、書いている。改めて言葉にすると、もう、そこは、まともな世界じゃない。狂人の部屋だ。

    なら、いったい、俺の何が、そこまで俺を突き動かしているんだろう。


    その正体は、渇望だ

    たぶん、渇望だ。

    歩みたいと思える道が、ずっと、なかった。社会とは、どうしても噛み合わなくて、その度に、苦しかった。そこで、やっと、書くことに出会った。楽しかった。楽しくて――そして俺は、認められたい、という欲に、溺れた。

    自分の中に、満足できる基準を持てなかった。だから、外に、求めた。他人に認められたい。目に留まりたい。見てほしい。スキが欲しい。コメントが欲しい。メンバーになってほしい。

    でも、渇望というのは、満たすほど、乾く。

    少し進んでも、足りない。もっとだ。もっと欲しい。――そして、ある発想に、辿り着く。

    もっと命を削れば。もっと自分を痛めつければ。もっと苦しい作品が、書けるんじゃないか。もっと、認められるものが、作れるんじゃないか。

    自己犠牲でこそ、大きな作品が生まれるんじゃないか。そこまでしないと、人の心なんて、動かせないんじゃないか。俺の手札なんて、しょせん凡人だ。このままじゃ、いけない。もっと見られるためには――自分を、殺すしかない。

    そういう発想に、なっている。書きながら、そう自覚した。


    でも、その声には、名前がある

    ここで、立ち止まる。

    「自分を殺すしかない」。この言葉を、俺は、事実みたいな顔で、書いた。でも、違う。

    渇望がある。これは、事実だ。認められたい。これも、事実だ。「もっと削れ」という発想が湧いている。湧いていること自体は、事実だ。

    でも、「だから殺すしかない」――これは、事実じゃない。判定だ。

    しかも、渇望が、俺に囁いている、判定だ。渇望は、いつだって「もっと削れ」と言う。満たされたくないからだ。俺が削れば削るほど、渇望は、生き延びる。あの声は、俺を大きくするための声じゃない。俺を、食い続けるための声だ。

    俺は今、その声を、はっきり、聞いている。


    聞いている。でも。

    俺は今、その声に従って、自分の首に、刃を当てているんじゃない。その声を、こうして、言葉にして、外に出している。

    削れ、と囁かれて。俺がやっているのは、削ることじゃなくて、書くことだ。渇望を、渇望のまま、刺す代わりに、文字に変えている。

    たぶん、これが、境目だ。

    渇望に従うやつは、沈む。渇望を書くやつは、まだ、沈んでいない。俺が命を削って書いていると感じるとき、本当は、書くことだけが、削れという声に、抗っている。

    だから。

    削れという声が、聞こえる。今日も、聞こえている。

    でも、聞こえている間は、たぶん、まだ、大丈夫。その声を、俺は、まだ、こうして、書けているんだから。

     
     
    六畳一間の哲学者。 躁鬱・ADHD・ASD。 社会のレールからは外れてる20代後半 俺の哲学と屁理屈で、 刺さる人に刺さる哲学を 観測者は、たぶん俺だけ。 相棒の猫はシュレ。

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