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自己紹介4|国語科教員が地下道の壁にパブリックアートを提供した話【前編】

    おはようございます。こんにちは。こんばんは。
    あーる先生です。

    今まで、このnoteでは三度にわたって自己紹介をしてきました。

    直近の自己紹介では、1ヶ月分の診断書を出し、とりあえず休職が決定するまでの道のりを綴っています。
    よろしければリンクからこちらもご覧ください。

    こちらが【前編】です。

    こちらが【後編】です。

    さて、今回は自己紹介第四弾ということで、過去の話を綴ろう思います。

    このnoteを読んでくださっている皆さんなら、記事の最後にわたしの自作の詩が載っていることにお気づきかと思います。

    その詩作のルーツとなるのが今回のエピソード。
    「いつか時間のある時に絶対書こう!」と思い、下書きに下書きを重ね、温めていた原稿がようやく完成しました。

    実は、今、わたし休職2回目なんです。

    あの時の自分と、自分を支えてくださった沢山の方々に敬意をもって。

    【前編】スタートです。


    【前編】石を投げられた日々から、詩人としての自分になるまで

    ※この記事は実体験に基づいていますが、個人が特定されないよう、一部の詳細は変更・省略して書いています。ご了承ください。

    地下道を歩いていると、ふと足が止まった。

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    完成直後の写真

    2m四方の白いパネルに、黒い文字で書かれた詩「道」。
    その下に作者名として刻まれているのは、本名ではないニックネーム。

    通り過ぎる人々の中で、きっと誰も気づかないだろう。
    これが、この目の前に立つ何の変哲もない一人のわたしが書いたということに……。

    今振り返ってみると、人生で最も辛い時期が、実は詩作の原点になったのだと思う。
    あの大変な教師時代がなければ、休職もなかっただろうし、アトリエとの出会いもなかっただろうし、そして市からのオファーも来なかっただろう。

    この記事では、ごく普通の公立中学校教員だった私が、なぜ市の威信をかけた地下道アートプロジェクトに参加することになったのか、その全貌をお話ししようと思う。


    希望に満ちた新任教師時代の終わり

    大学を卒業して、念願だった中学校の国語教師になった時は、本当に希望に満ちていた。
    教育実習で自信をつけたこともあったし、東日本大震災の辛さを乗り越えた子どもたちと一緒に繋がって、成長していける。そんな理想の教師像を描いていた。

    しかし、配属された初任校は、想像を絶する場所だった……。

    最初の衝撃は、教室でクラスの生徒にカッターを向けられた時。

    「朝、本を読む時は自分の席で静かに読もう」というわたしの指導に納得がいかなかった生徒が、筆箱からカッターを出し、刃を出して構えてきたのだ。

    相手は、わたしよりも身長が高く、ガタイのいい野球部の男子。
    わたしは何かのテレビで見た護身術を思い出し、近くの机を、天板を自分のお腹にくっつけるようにして持ち上げ、脚を彼の方に向けることで距離をとった。

    「この学校で勤め続けるには、命を守ることを考えなきゃいけないんだ。」

    それ以降、わたしは学校で教室に行く際は、ホームルームだろうと授業だろうと、必ず硬い素材のバインダーを手に持つようになる。

    朝、学校に来ると、体育館に石を投げられていた時もあった。

    1時間目が空きゴマだったわたしは、警察の方達と一緒に体育館に向かった。

    わたしの立ち会いのもと、実況見分。
    現役の警察官の方と話す機会なんか人生で一度も無かったわたしが、割れた窓ガラスの落ちている位置と転がっている石の位置から、石の飛んできた方向を一緒に推測している……。

    「これは名探偵コナンのワンシーン?」と、笑ってしまいそうになったが、このような事態が毎週、毎晩続くようになってくると、いよいよ笑えなくなってくる。

    翌日の朝は、職員室にも同じように石がいくつも投げられていた。

    生徒たちも慣れたもので、紙を配って知っていることを書かせるタイプの調査や、緊急の全校集会をやろうものなら「あー、また始まった」という顔をする。

    ちょうど飛んだ石の先の席で、自分のデスク上にガラス片が飛び散っていたベテランの先生たちは「これじゃあ警察が来るまで仕事ができないじゃないの」と言って、自分のデジカメで撮影し、とっとと掃き掃除をしていた。

    その表情は、諦めに満ちていた。

    「これが日常なんだ」と理解するのに、そう時間はかからなかった。

    職員玄関の新聞受けに火をつけられた日は、朝の5時から消防車が来た。
    新聞配達の方が発見し消火してくれたので大事には至らなかったが、もし放っておいたらと思うとゾッとする。

    夜中にプールのベンチがプールの中に投げ込まれているのを発見した時は、慌てて警察に通報した。
    発見したのは体育祭当日。卒業生の仕業かもと言われたが、いまだに犯人は見つかっていない。

    一番ショックだったのは、壁に「○○先生キエロ」とスプレーで書かれているのを見つけた時。
    自分の名前は無かったが、学年の先生の名前が三名ほどあり、その日は、その先生方の顔を直視することができなかったのを覚えている。

    生徒指導案件は日常茶飯事で、警察との連携も当たり前。
    派遣されたパトカーが、こっそりと職員の駐車場に張り込み、そのまま夜を明かしていただくことも何度もあった。

    地域の方々からの苦情電話は毎日のように職員室に鳴り響いた。
    近くのショッピングモールの壁に穴を開ける、ホームセンターの屋上の駐車場から下に向かって物を投げる、自転車を盗む、小学生を脅す……。
    あげればキリがないほどだった。

    そして、ついにテレビドラマのような場面が現実となる。

    あまりにも地域への迷惑行為が続いたため、夕方6時から緊急記者会見を開くことになったのだ。

    前に立って直接のやり取りをするのは校長、教頭、生徒指導主任だが、もちろん職員は全員参加。
    事前の役割分担で、わたしは書記になったが、この出来事を一生忘れはしないと、一言一句レポート用紙に書きつけたのを覚えている。

    スーツを着て、数分前に練習しておいた一糸乱れぬお辞儀を繰り出し、地域の皆様にお詫びをする。
    フラッシュがたかれ、マイクが向けられ、質問が飛び交う。
    地域の記者クラブも駆けつけていた。

    「先生方は何をしているんですか?」
    「なぜこんなことになるまで放置していたんですか?」
    「犯人は同じ生徒なんですか? 違う生徒なんですか? それとも卒業生?」

    管理職は流石に場慣れしていて、何とか質問に答えていったが、答えに窮する質問ばかりだった。

    私たちも必死だった。
    毎日遅くまで残って生徒指導をして、その後、冗談抜きに日が変わるまで仕事をした。
    休日も電話対応に追われて、家庭訪問を重ねて。

    でも、それが外からは見えない。
    結果として表れるのは、問題行動の数々だけだった。

    記者会見が終わった後、職員室に戻ると、同僚たちは疲れ切っていた。
    誰も何も言わない。ただ静寂があるだけだった。


    日常となった異常事態

    2年目。年数を重ねても、状況は改善されなかった。
    むしろ、その異常な日常に慣れてしまっていることに恐怖を感じるようになった。

    朝、始業1時間半前には学校に着く。

    教室や校舎周りを見て、夜中に何かされていないか確認するのが、毎日の日課になっていた。
    窓ガラスは割れていないか、落書きはないか、不審なものは置かれていないか。
    授業の空き時間もチェックで潰される。

    授業中も、常に外の音に神経を尖らせていた。

    相変わらず、隣のホームセンターからはペットボトルが飛ばされ、近くの道路からは、わざと大音量で音楽を流して挑発してくる。
    ひどい時は、それがうちの学校の生徒だけではなく、他市から来た不良集団も加わっての行動。

    生徒たちに集中して教えられず、どこか上の空になってしまう自分がいた。

    放課後は生徒指導に明け暮れた。
    問題を起こした生徒との面談、保護者との連絡、地域の方への謝罪回り、警察との連携。
    授業の準備をする時間も、教材研究をする時間も、どんどん削られていく。

    「私は何のために教師になったんだろう」

    そんな疑問が頭をよぎることが多くなった。
    生徒たちに言葉による表現の素晴らしさを伝えたくて、「国語を教えたくて」教師になったのに、毎日やっているのは問題の後始末ばかり。

    本来の教育活動からどんどん遠ざかっていく現実に、心が折れそうになった。

    同僚たちも同じような思いを抱えていて、職員室での会話は生徒指導の話ばかり。

    しまいには「あの学年の指導が甘いから・・・」や「あの学年の〇〇先生の授業規律がなってない」など、他の学年の悪口を言う人も出てきた。

    悪口を聞きたくないわたしは、ヘッドフォンをして自分の教室にこもって仕事をした。
    もう誰にも、教育について語り合う余裕などなかった。


    心の限界が見えた3年目

    3年目に入った頃から、自分でも分かるくらい心の状態が変わってきた。

    まず、朝、起きるのが辛い。

    そもそも、夜、学校を出られるのが大抵夜10時すぎなので、そこから帰ってご飯を食べて(食べない日もあった)、お風呂に入って、明日の支度をして寝るとなると、どう頑張っても深夜1時。

    布団の中で「明日は何が起こるだろう」と考えると、途端に目が冴えてしまって寝つけなくなる。

    で、気がつけば朝になっていて……、起きるのが辛いのは当然だった。

    人との会話も億劫になった。

    友人から遊びの誘いがあっても、「疲れているから」と断ることが増えた。
    実際に疲れていたが、それ以上に人と関わることが負担に感じられるようになっていた。明るく振る舞うエネルギーが残っていなかった。

    職場では、初めのうちは、なんとか平静を装おうとしていた。

    同僚に心配をかけたくないし、生徒たちの前では教師としての役割を果たさなければならない。でも、その演技がどんどん辛くなってきた。

    ある日、朝、家を出て駅まで向かう途中で、ふと思った。

    「このままあの車に轢かれれば、学校に行かなくて済むのでは?」

    実際はクラクションを鳴らされて終わったが、この時ようやく我に帰った。

    「自分は、本当は全然大丈夫じゃない。今、死にかけた。」

    このままだと学校に命を奪われる。
    そう本気で思った。


    休職という選択

    それから、わたしは心療内科に通いながら仕事をすることになる。

    というのも、同じく新卒新任で入った女性の先生が、わたしよりも先に精神を病んでおり、心療内科で治療を受けながら仕事をしていたのだ。

    その話を聞き、わたしも同じように心療内科を受診して、薬を飲みながら学校に通った。家族や同僚には心配をかけまいと、内緒にしながら……。

    そんなある日、同じ吹奏楽部の顧問だった先生から、放課後の誰もいない教室に呼び出された。

    「最近、なんかおかしいよね。薬でも飲んでる?」

    そこで初めてわたしは泣きながら、医者以外の人に自分の不調を訴えた。
    そして、その先生から「休職という方法がある」と教わり、ようやく来年度から休職すると決めたのだ。

    その時は、三年生の担任だったので、卒業式まではやり切ること。
    吹奏楽部の顧問としては、最後のスプリングコンサートまではやり切ること。

    その2つだけは心に決めて、休んだり遅刻したりを繰り返して何とか乗り切った。

    クラスの生徒、特に学級委員の二人は優しくて、わたしが「明日は休むかも」と弱音を吐くと、「僕が〇〇(生徒指導案件をよく起こす生徒の名前)をしっかり見ておきますから。何なら、席替えでわざと隣の席にしてください。その方が面倒見やすいんで」と言ってくれたり、「合唱コンクールは、先生のためにも絶対に優勝します」と言ってくれたり(実際に優勝した)、頼もしくて申し訳なかった。

    日常をギリギリのラインで乗り切りながらも、休職の手続きを裏で淡々と進める日々。

    年度末が近づくにつれて、これまでの3年間を振り返った。
    あの石が飛んでくる日々、記者会見での屈辱、終わることのない生徒指導、削られていく授業準備時間、眠れない夜々。
    すべてが走馬灯のように頭を駆け巡る。

    「わたしの教師人生は、これで終わりなのかな」

    そんな不安を抱えながら、2015年4月1日から休職生活が始まった。


    持つべきものは友

    休職して一ヶ月が経った2015年5月のことだった。久しぶりに携帯が鳴った。

    「久しぶり!元気にしてる?」

    電話の向こうから聞こえてきたのは、教育実習で一緒だった美術教師の友人の声だった。教育実習の時、彼女とは一緒に授業準備をしたり、指導案を見せ合ったりしていた。卒業後もたまに連絡を取り合う仲だった。

    「実は今、休職中なんだ」

    正直に話すと、彼女は驚くでもなく、同情するでもなく、静かに聞いてくれた。

    「そっか、大変だったね。でも、ちょうどいいタイミングかもしれない。実は、アトリエを始めることになったんだけど、一緒にやらない?」

    アトリエ?

    「美術だけじゃなくて、いろんな表現活動をする場所にしたいんだ。あなたの文章力、絶対必要だと思う」

    教育実習の時、わたしは授業の合間に詩を書いていることがあった。
    それを彼女が見つけて、「すごく素敵だね」と言ってくれたことがあった。
    大学時代、わたしは詩を雑誌の公募に出していて、3作品ほど採用されたこともある。でも、それは趣味の範囲だと思っていた。

    「文章力って言っても、わたしはただの国語教師だよ」

    「だからこそいいんじゃない? 教師だからこその視点が必要なんだよ。アーティスト気質な人ばかりだと運営は成り立たないから。何より休職中なら時間もあるでしょう?」

    確かに、時間だけはあった。むしろ、時間を持て余していた。
    そもそも家族には休職していることを内緒にしていたため、毎日学校に行くフリをしては、公園やらカフェやら図書館やらをふらついていた。

    テレビを見ても集中できず、本を読んでも内容が頭に入らない。
    そんな日々が続いていた。

    「場所も決まったし、5月末にはオープンできそう。とりあえず見に来ない?」

    断る理由は特になかった。というより、断るエネルギーもなかった。

    「うん、見に行かせてもらう」

    久しぶりに、少しだけ前向きな気持ちになった。


    アトリエとの出会い

    友人に案内されたアトリエは、生活感のない長方形の建物、2階建て。
    クリーム色の壁とシャッターは所々錆びて変色し、長い年月を感じさせる。

    元美容院とのことで、入り口はガラス戸が全面にあり、差し込む光が心地よかった。

    中に入ってみると、すでに大小様々な絵画が、あちらこちらの壁にかけてあり、床に立ててあり、作業机の上にも載っていた。

    「ここが制作スペースで、ここでは展示もできるようにしたいんだ。奥にはちょっとしたキッチンもあるから、将来的にはコーヒーとかお酒とかも提供して、飲みながら作品について語り合えるような場所にしたい」

    彼女の説明を聞いているうち、何かがざわめき始めた。
    久しく忘れていた感覚だった。
    創作への憧れ、表現への渇望、そんなものが心の奥底から湧き上がってきた。

    「で、どう? 一緒にやるよね?」

    正直に言うと、迷いがあった。
    休職中の身で、そんな活動に関わっていいものだろうか。
    教師としての復帰を考えると、変な噂が立つのも怖かった。

    でも、それ以上に強かったのは、「何かを表現したい」という気持ち。
    この一ヶ月、ただ時間が過ぎるのを待っているだけの日々に、正直うんざりしていた。

    「やります!」

    その日から、わたしのアトリエ生活が始まった。


    社長机での詩作三昧

    アトリエには「社長机」と呼ばれる大きなデスクがあった。
    友人が冗談で「社長机」と名付けたのだが、いつしかわたしがそこに座り込むのが定番となった。

    最初は気持ちが落ち着かなかった。
    他のメンバーが絵筆を持って真剣にキャンバスに向かっている中で、私だけがノートやパソコンに向かって文字を書いている。
    「場違いなんじゃないか」という思いもあった。

    でも不思議なことに、ウッド調で重厚な佇まいの「社長机」に座っていると、言葉が自然に溢れてくる。
    休職してから止まっていた創作活動が、まるで堰を切ったように始まった。

    大学時代の詩とは違って、今度の詩は目の前にある数々のアート作品からインスピレーションを受けて作られた。

    色とりどりの油画。岩絵具がキラキラ光る日本画。艶やかさに目を奪われる漆器。クールな鉄でできた椅子……。

    どこにも出かけなくとも、目の前にある作品を一目見れば、そこから言葉が、詩がわんさか湧いてくる!

    毎日のようにアトリエに通い、社長机に座り込んで詩を書く日々が続いた。
    長い間押し込めていた感情が、一気に解放されているような感覚だった。

    かくして、わたしは教師から詩人になったのである。

    めでたし、めでたし。

    「星」に「座る」と書いて「星座」
    私は座っている
    ポッカリ浮かぶ無重力の椅子に
    そういえば
    心療内科の椅子は
    患者同士が顔を合わせないように
    全部前向きに置かれていたっけ
    もう
    病むことを恥じあう必要ないんだ
    隣の椅子とは
    バカみたいに距離があるから

    自作の詩「無重力椅子」より

    毎日、たくさんのスキ❤️、フォロー、本当にありがとうございます。

    ここからどうやって、わたしはパブリックアートを作成することになったのでしょうか。
    次回は【後編】をアップする予定です。

    次回も、お楽しみに〜

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