
モラルハラスメントの真実 ―残響―
ドアを開けたときの静けさを、彼女はまだ覚えている。
風の音しかなかった。
あの家に満ちていた、意味のない音――
びゃんびゃん。
おんぷる。
それらが、完全に消えた瞬間だった。
あれから三日。
安いビジネスホテルの一室。
白い壁、硬いベッド、規則的なエアコンの音。
静かだった。
静かすぎた。
「……こんなに、音ってなかったっけ」
ぽつりと呟く。
テレビもつけていない。
スマホも伏せたまま。
ただ、何もない空間。
それなのに。
――なんでそんなこともできないの?
心臓が跳ねた。
振り返る。
誰もいない。
当然だ。ここには、自分しかいない。
「……気のせい」
そう言い聞かせる。
深呼吸をする。
静かだ。何もない。自由だ。
そのはずなのに。
翌日。
コンビニのレジで、前の客の会計がもたついていた。
ポイントカードが見つからないらしい。
店員も慣れていないのか、操作に手間取っている。
列は少しずつ伸びていく。
彼女はぼんやりとそれを見ていた。
そのとき。
(考えが足りないんじゃないの?)
一瞬だった。
あまりにも自然に、頭の中に浮かんだ言葉。
彼女は、はっと息を呑んだ。
――今の、誰の言葉?
自分のものじゃない。
そう思った瞬間、背筋が冷たくなる。
でも、否定できなかった。
あまりにも、馴染みすぎている。
夜。
鏡の前に立つ。
顔色が悪い。
目の下には、薄い影。
「……私、こんな顔だったっけ」
水を出そうと、蛇口に手を伸ばす。
そのとき。
鏡の中の自分が、わずかに遅れて動いた。
ぴたり、と手が止まる。
嫌な予感がする。
見てはいけない気がする。
それでも、目を逸らせなかった。
鏡の中の“それ”は、ゆっくりと口を開いた。
「ほらね」
低い声。
聞き慣れているはずの、あの声。
でも、どこか違う。
「次は、あなたの番だよ」
喉が張り付く。
鏡に映っているのは――
自分の顔。
なのに、その表情は。
あの人に、よく似ていた。
「……違う」
かすれた声が漏れる。
「私は、あんなふうにはならない」
鏡の中の“自分”が、わずかに笑う。
「もうなってるよ」
――びゃんびゃん
音がした。
部屋のどこからでもない。
頭の奥で、弾けるような音。
「やめて」
思わず耳を塞ぐ。
「それは、私のじゃない」
声が震える。
それでも、言う。
「違う」
一歩、鏡に近づく。
「それは、私の言葉じゃない」
もう一度。
「違う」
鏡の中の顔が、わずかに歪む。
「違う」
息が荒くなる。
でも、止めない。
「違う!」
その瞬間。
鏡の中の表情が、音もなく崩れた。
ただの、自分の顔に戻る。
静寂。
エアコンの音だけが、規則的に流れている。
彼女は、その場に崩れ落ちた。
数週間後。
小さなカフェで、彼女は働き始めた。
静かな場所だった。
やわらかい音楽と、控えめな会話。
あの音は、聞こえない。
ある日。
新人のアルバイトが、注文を間違えた。
客は少しだけ不機嫌な顔をする。
新人は青ざめていた。
「す、すみません……」
震える声。
そのとき。
一瞬だけ、浮かぶ。
(ちゃんと考えた?)
あの言葉。
喉元まで出かかる。
彼女は、ぎゅっと唇を閉じた。
そして。
「大丈夫ですよ」
ゆっくりと言った。
「私もよく間違えますから」
新人が、ほっとしたように笑う。
その笑顔を見て、胸の奥が少しだけほどける。
もう、聞こえない。
びゃんびゃんも。
おんぷるも。
――そう思った、そのとき。
「……ちゃんと考えた?」
自分の声が、耳に届いた。
一瞬、何が起きたのかわからなかった。
新人が、固まっている。
自分の口が、わずかに開いている。
そして。
遅れて、気づく。
今のは。
自分が、言った。
次の瞬間。
――びゃんびゃん
小さく、確かに。
音がした。
彼女は、ゆっくりと顔を上げる。
新人の怯えた目と、視線がぶつかる。
その奥に。
かつての自分を、見た気がした。
静かな店内に、何もないはずの音が、まだ残っている。
消えたはずのものは、
形を変えて、そこにいる。
彼女は、何も言えなかった。
ただ、立ち尽くしていた。
その口元が、わずかに動く。
次の言葉を、探すように。
あるいは――
繰り返すように。
完