
イミツキ 第21話 大きな背中
雪解けの土の匂い。
青葉を揺らす風。
落ち葉を踏みしめる乾いた音。
季節は移り変わり、やがてすべてが白い雪に覆われた。
キタラは、地面に積もった雪の上で体を伏せていた。
口からは白い息が漏れ、襟の隙間から冷たい風が入ってくる。
見つめる先には、角の生えた鹿がいた。
地面の草を食べながら、時折、耳をぴくりと動かし、周囲を見回している。
その時、背後から空気を切る音がした。
キタラの上を小さな影がかすめ、直後、鹿の喉に矢が突き刺さった。
鹿は低い声を上げ、体を仰け反らせた。
口から血を吐き、ふらつく足取りで雪の上を歩き出した。
白い雪の上に、点々と赤い血が零れ落ちる。
やがて、鹿はその場に倒れ、そのまま動かなくなった。
キタラは体を起こし、鹿の背中に飛びついた。
鹿は僅かに腹を上下に揺らし、喉の奥から乾いた音を出していた。
柔らかい毛から、熱が伝わり、体がじんわりと温まっていく。
すると、後ろから、雪に足を取られながら、弓を持った男がやってきた。
男は素早く鹿の足を縛り、側の木に吊るした。
皮を剥ぎ、腹を裂いていく。
「枯木だ、キタラ。」
キタラは首を振り、周囲を見回した。
大きな木の根元には雪が無く、幾つもの枯木が落ちていた。
キタラは枯木を抱え、男の前に置いた。
「よし。」
男はキタラの頭の上に手を乗せた。
男は松ぼっくりに火をつけ、枯木の上に落とした。
すぐに、パチパチと枯木の燃える音が鳴り、白い煙が上がり始めた。
男は荷の中から鍋を取り出し、肉を炒め始めた。
山菜を加え、塩をまぶす。
ジュージューと音を立て、肉の焼ける匂いが鼻に入ってきた。
男は湯気の立つ肉を皿に乗せた。
キタラは皿を受け取り、白い湯気に鼻を近づけた。
腹が鳴り、口の端から涎が垂れてきた。
男が背筋を伸ばし、肉の前で両手を合わせた。
キタラも涎を垂らしながら、手を合わせた。
小さな匙で肉をすくい、息を吹きながら口に入れる。
肉の弾力と血の味が口の中に広がり、キタラは小さく体を揺らした。
食事を終えると、男は雪の上に茣蓙を敷き始めた。
大きく伸びをし、茣蓙の上に寝ころぶ。
キタラも伸びをして、男の脇に寝ころんだ。
陽の光が空から注ぎ、焚火の熱が体を温める。
次第に瞼が重くなり、キタラは静かに目を瞑った。
やがて、すぐ側から、男の寝息が聞こえてきた。
* * *
男は、小屋の前に大きな窯を置き、中に水を注ぎ始めた。
窯の下に火をつけ、細い棒で息を吹きかける。
しばらくすると、中から湯気が立ち始めた。
「風呂。」
キタラの肩が跳ね上がった。
その場から駆け出そうとすると、男が腕を掴んだ。
キタラは服を脱がされ、窯の中に入れられた。
熱い水に浸され、体がふわりと浮いた。
全身が得体のしれないものに包まれるようで、キタラは窯の中で、手足を激しく動かした。
窯が揺れ、中の水がこぼれだした。
男はキタラの肩を抑え、体を擦り始めた。
キタラは更に激しく動き、何度も男に熱い水をかけた。
その度に男は小さく声を上げた。
* *
風呂から出ると、小屋の中で老人が野菜を切っていた。
キタラは老人に駆け寄り、手を前に出した。
老人はキタラの頭を撫で、手のひらの上に飴を置いた。
「綺麗になったな、キタラ。」
キタラは高い声を上げ、飴を口の中に放り込んだ。
いつもの甘い味が口の中に広がった。
少し遅れて、男も小屋に戻ってきた。
髪の先からは水が滴り、着ている着物はずぶ濡れだった。
男は着物を脱ぎ、部屋の隅で体を拭き始めた。
「風邪ひくなよ。」
老人は肩を揺らしながら、男に声をかけた。
男は何も答えず、新しい着物に着替え、酒を飲み始めた。
老人は切った野菜を鍋の中に入れ始めた。
囲炉裏の上に鍋をかけ、火をつける。
「薪を取ってきてくれるか、キタラ。」
老人の言葉に、キタラは立ち上がり、小屋の外に出た。
空からは、雪が降りだしていた。
キタラは裏に積まれている薪を腕一杯に掲げ、囲炉裏の前に置いた。
「ありがとう、キタラ。」
老人が口元を上げ、キタラの頬を包んだ。
キタラは窓の近くに座り、空から落ちてくる雪をじっと眺めた。
* * *
その日の夜、食事を終えると、老人は一人帰っていった。
雪は更に降り続け、小屋の隙間から冷たい風が入ってきた。
男は酒を棚にしまい、布団を敷き始めた。
二枚の布団を横に並べ、囲炉裏の火に砂をかけた。
途端に小屋の中が暗くなり、壁の隙間から月明りが射しこんだ。
男は布団に入り横になった。
キタラは、いつものように、少し離れた場所で寝ころんだ。
息を吐くと、白い息が漏れた。
手足が冷たく痺れ、体の奥が震えてきた。
キタラは手を膝の間に挟み、体を丸くして目を瞑った。
その時、突然、掛け布団が落ちてきた。
キタラが布団から顔を出すと、男はもう布団の中へ戻っていた。
小さな寝息を立て、かすかに背中を上下に揺らしている。
キタラは掛け布団に包まりながら、しばらく男の大きな背中を見つめた。
月明りが男の背中を照らし、何か別のもののように見えた。
キタラは立ち上がり、男の布団に入った。
いつもの男の匂いがする。
冷えた体がじんわりと暖かくなる。
すぐに瞼が重くなり、頭が揺れ出した。
キタラは男の背中にしがみ付き、顔を埋めた。
遠ざかる意識の中で、男の声が聞こえた気がした。
前の話:第20話 男の怒号 次の話:閑話(21.1話) 書簡