
春〜光と樹ときみと〜第4話
一、光をなぞる
「何かさ、最近忙しいんだよねぇ。
家に遊びに来いとか、公園で遊ぼうとか誘ってくる奴らがいてさぁ。
いちいち断るの、大変なんだよ。約束がかぶると、リスケしてやらなきゃだし」
ニヤケ顔でぼやいているなと思ったら……ここに来る頻度は、急に少なくなった。
「いいことじゃないか」
その時は、心からの言葉をかけられた。
慕ってくれる仲間がいるがゆえの強さ。それを手に入れたのだと……口調から感じ取ることができたからだ。
「まぁね」
光樹はへへっと笑った。
その時……小さなえくぼがひょこっと顔を出すのを、初めて見た。
子どもらしいその微笑みは……記憶の奥にしまい込んでいた何かに、そっと触れた気がした。
「ねぇ先生、オレって変わったと思う?
みんなはそう言うんだ」
いつしか、光樹は僕を先生と呼ぶようになっていた。
『いいじゃん。教えてくれる大人を敬うのはいいことなんだろ?先生が講演会の時にそう言ってたんじゃん』
そうやって、ちょいちょい講演会のネタを持ち出して、僕を困らせたりする。
「変わったかなぁ……光樹は光樹だよ」
ようやくやり返せるチャンスが来たと、僕はとぼけてみせたのだが。
「だよね?オレもそう思うんだ」
同意を得られてうれしいと言わんばかりに顔を輝かせる。
「……何でかなぁ。オレは先生が教えてくれたことを、ただ気を付けてやってるだけで、変わってなんかないのに。
オレは、みんなの方が変わっていってると思うんだよね。
良い方にさ……」
ずいぶん柔らかくなった表情でそう言う光樹を見ると、こちらまで嬉しくなる気がした。
子どもというのは……本当にすごいと思う。
大地に近いところにいるからだろうか。
光樹からは懐かしい香りが感じられ、もうすっかり忘れてしまった、遠い昔の何かを思い出しかける。
かつて自分もそんな子どもだったのだと……自覚してしまう。
そばにいると、自分も変わっていけるような錯覚を覚えるのだ。
日が暮れるまで外で遊んでいたあの頃……日々与えられていた、あの頃の特別な何かを思い出せるからかもしれない。
「でも、そうだな……。本当の自分を取り戻せたって感じかな?
初めて会ったときよりずっと生き生きしてるよ」
そう言ってやると、光樹はまた小さなエクボの見える笑顔を見せた。
「えー、何だよそれ。……照れるじゃん」
そう言って照れ臭そうに笑った顔を……はっきり記憶に刻み付けた。
***
いろいろ思い出しながら……僕は、そこに見える光をなぞるように、追いかけるように線を走らせていた。
カウンターを陣取るなり「マスター、いつもので」と、光樹は当たり前のようにオーダーする。
……そんな光樹にオレンジジュースを作ってやりながら、ジョージが声をかけていた。
「そういえば……ミツの顔を見るの、久々だな」
「そうなんだよ。何か忙しくてさぁ……」
そう言う光樹の顔は、まんざらでもないような感じで。
――いい傾向だ。
毎日が充実しているのだろう……と、透かし見える笑顔がこぼれる。
「ともあれ本業は勉強。まずは学べよ日本男児」
もっともらしくジョージが言うと、光樹は不思議そうな顔になった。
「何それ」
「知らん。今思い付いた」
知らなかったことの理由がわかった安心感からか、和らいだ表情になり……光樹は呆れ気味のため息をつく。
「マスター……。今日日そんなこと言ってると、男女差別って叩かれるよ?言葉には気をつけなきゃ」
……そんなひと言を付け加えてくるあたり、本当にいっちょ前だ。
「……ジョージさん、一本取られましたね」
入り口で案山子さんが大爆笑している。
光樹はというと、そんなやりとりを尻目に『別にそんなの常識だろ?』とどこか不服そうに言っていて。
残りのオレンジジュースを、ズズーと音をたててストローで吸い上げた。
「おい、音を立てずに飲むのも常識だぞ。覚えとけ」
ジョージが忌々しげに言い返す……。
――大の大人がやるような返しじゃないと思う……。
そう思ったが。当の光樹ときたら、そこは涼しい顔だ。
……まだまだ子どもらしさのかたまりで、まるで原石みたい。
すっかりこの場所に馴染んでいて。
本人が、大人気分でいるからなんとも微笑ましい。
しかも、言うこともいちいちいっちょ前なのだ。
そんなやり取りを聞き、想像しながら……。
僕は、カウンター奥の暗がりにいた。
「それでさ……先生はあんなとこで何やってるの?」
暗がりでスケッチブックに向かう僕を見て、不安そうにジョージに尋ねる声が聞こえたけれど。
今は、かまっていられない。
何か察した様子のジョージが、変わりに返事をする。
「今はほっといてやれ。どうしてもやりたいことができたんだろう」
「……仕事?」
「いや……あそこまで夢中になれるのは、仕事じゃねえな。子どもと同じだ。趣味っていうやつさ」
そんな会話を聞きながら……僕は夢中でスケッチブックに向かっていた。
「それでさ。ともあれのともって友達のことだよね?」
相変わらず、不意打ちのように質問を投げかける。
それは微笑ましくもあり……子どもの特権でもある。
いや……光樹らしさなのかもしれない。
「あん……?」
「そっちの方がオレは好きだなって思っただけ」
エクボを浮かべて朗らかに笑う顔は、本当に眩しいと思った。
一、日記
「あのさ……みんなが変わっていくのに、全然変わらない人がいるのは何でだろう……」
ある日のこと、そんな光樹がポツリと漏らした。
「やっぱり、それは……オレが悪いからなのかなぁ」
何かを思い出しているのか、不安そうな顔をしていた。
――一難去ってまた一難か。
今の光樹でも攻略できない相手とは……。どうやら、子どもの世界も一筋縄ではいかないらしい。
そんな思いが頭をよぎる中、注意深く声をかけた。
「世の中にはいろんな人がいるからな。理屈が通らない、凝り固まった頭のヤツもいるだろうさ。
残念だけど、お互い合わない人っていうのはいるものだよ。
それは、光樹が悪いわけじゃない」
ことに大人の世界では。道理も常識も己中心に塗り替えられる輩がいる。
ジョージも何か心当たりがあるのか、単に光樹の相談に乗りたいだけなのか、口を挟んできた。
「そりゃ、理不尽ってヤツじゃねぇか?相手が困るのを見て楽しむヤツっていうのは、どこにもいるんだよ。
……そのまたの名をな、いじめって呼ぶんだ」
「……それ、先生でも?」
「どの先生?」
なまじ光樹に先生と呼ばれているだけに、ドキリとしてしまって聞き返す。
「担任」
光樹の迷いのない答えに、僕は思わずジョージを見た。
ジョージも同じような顔をしてこちらを見ていた。
「みんな変わったし、クラスは平和になったと思う。
でも、先生だけはずっとオレを悪者にし続けてて……ちっぽけなことでオレだけを怒るんだ。みんなの前で」
「みんなの前でってのは、光樹には辛いな」
そう言うと、光樹はこくりと大きく頷いた。
「例えば、どんなことがあった?」
ジョージが聞くと、光樹は暗い顔のまま鞄をあさった。
「宿題なんだけど……書くのが嫌になってきて。それを『ズルをしてるのはおまえだけだ。恥を知れ』って……怒られた」
そっと差し出された日記を読ませてもらうと……。
そこには、少しずつ違和感を覚える返事が、きれいな赤字で丁寧に添えられていた。
「こりゃあ……なるわな」
衝撃の中、ジョージの声がどこかで響いていた。
講演会の日の『魔法使いに初めて会ったと思った』という日記なんて、ひどすぎる。
『光樹くんはそんなことを思う子だったんですね!幼い子どもみたいですね。もう少し現実を見ましょうか』とある。
気づきの言葉のようでいて、どこか嘲りにも見えた。
まるで……丁寧な指導という顔をした冷笑だ。
魔法使いという比喩まで否定されたら……何を書いて良いか分からなくなるのも当然だと思った。
確かに、光樹にはもともと苦手なのだろうと思われる幼く見えてしまうところはある。
だが……それを指摘されてうれしいわけない。
気付かないふりをして、知らずに傷ついている。
――ずっと、こんな……違和感のある悪意にさらされていたのか。
光樹を思うと、胸が苦しかった。
そして……それにずっと耐え続け、立ち向かっている光樹の強さを、改めて感じた。
「こりゃムカつくな。だが、まだあと半年はご一緒な先生だし……まぁがんばれよ」
「他人事かよ!」
わかっていることをわざわざ言うなと言いたげに、光樹はジョージに食って掛かる。
だが、ジョージはさらにピシリと言った。
「そりゃ、立ち向かわなきゃならんのも、やり過ごさなきゃならんのもおまえだろ?
こういうヤツにゃ正論は通じない。何か策はねぇのか?」
光樹がうつむく。
「やっぱり、オレが悪いのかなぁ。
ずっと前に『先生らしくない』って思わず言っちゃったんだ。
でも……本当のことだから、謝りたくない」
光樹は……困った様子に見えた。
自分のせいかもしれないという判断に至ったことには、胸を打たれたが……。
もしかして……と気づく。
光樹のことだ。いろいろ試して、それでもダメで……それで打ち明けてくれたのかもしれない。
そんな経緯を想像して、問いかけてみる。
「それ、友達は何か言ってた?」
すると、光樹は思い付いたように顔をあげ、返事をした。
「先生は、たまにおかしいねって。
何でオレのことだけ怒るんだろうねとか、オレのこと、よく頑張ってるねって言ってくれるようになったよ。
前は違ったけど……今はみんなオレの味方だよ」
「それは、心強いな!」
口調を強めて言ってやると、何かしら思い出したのか、光樹もようやく笑顔になって頷いた。
「前に言ったろ?集団の力はすごいんだ。光樹はもう一人じゃない。
別に一人きりで担任に立ち向かわなくたって大丈夫だよ。
ちゃんとみんながそばにいてくれる」
そう言うと、ジョージも仕方がなさそうに口を挟んだ。
「ミツ、知ってるか?神はな、人に乗り越えられない試練を与えない。
だからよ、耐えるんじゃなく無理するんじゃなく、思うようにやってみろ。
みんながついてる。おまえはきっと乗り越えられる」
その言い方に、少し不安になってしまったが……ジョージは後に『ミツなら無茶はしないって思ったんだよ』と言った。
ジョージには……不思議だけど、そういうところがある。
――だから、年齢不詳だと言われるんだろうな。
そんな……どうでもいいことを思ってしまった。
***
光樹の日記を読んで……ふと講演会の日のことが脳裏に浮かんだ。
体育館に足を向けていた時のことだ。
向こうから団体がやってきたのだった。
「確か、こっちこっち!」
「もう、溝口怖すぎ……」
「美くんのノート、窓から投げたんだよ!」
「みんな頑張って一緒にいて、えらいですね」
「先生〜いつも守ってくれてありがとう」
先生と生徒たちが慌ただしく去っていく中……そっとその輪から外れ、立ち止まった女の子がいた。
「どうかしたの?」
その子は、ずっと、怒ったような……苦しげな顔をしていた。
「みんなに置いて行かれて、嫌だった?」
「ううん。行きたくないの。だって……」
言葉を切るが……険しい顔は、今もなお継続中だった。
「だって。溝口くん、なんかかわいそうだもん……」
……時間は、まだある。
その子の言葉に、少し寄り添ってみた。
「その子のこと知らないんだけど……溝口くんは怖い子?かわいそうな子?」
「どっちも違うよ。昔は、ずっと優しかった。本当は違うのに……」
気持ちの整理が難しいのか、言葉を探すようにその子は教えてくれた。
「そうか。じゃあ、きみは今つらいね」
「うん。……でも。溝口くんは困ってるのに。助けてあげれない」
「そうか。だからきみはずっと悔しいっていう苦しそうな顔をしてるんだ」
「え……」
驚いたような顔が、僕をはっきりととらえる。
「僕は何もできないけど、きみのその思いが優しい溝口くんに伝わるといいね。
僕も応援してるよ」
女の子の顔は、みるみる変わっていった。
ぱあっと日をさしたように、明るくなったと思ったら……。
「聞いてくれてありがとう、おじさん!」
そんな言葉を残して……軽やかな足取りで、去っていったのだった。
ただ話を聞く、共感する。
でもそれだけで……子どもは自力で立ち向かっていく。
――眩しいなぁ。
その時、心からそう思った。
……光樹もそうだ。
子どもたちは、光の中で、まっすぐ今を生きている。
***
講演会は、たいしたことは話せなかったけれど、あっという間に終わった。
人前で話せるような実績はなくても、笑顔という武器をいつの間にか手にしているらしいし……もともと話をするのが苦手というわけではない。
不信感や期待に満ちた小さな目が、だんだんキラキラ輝いていく様は……いつ見ても眩しいなと思ってしまった。
――そういえば……教員を目指してたんだったな。
自分が大変な子と言われていたからこそ……そういう子に目を向けてあげられる大人になりたいと思ったのだ。
なぜあの大学に入ったのか。
かつて自分は何を目標にしていたか……。
すっかり忘れていた自分に気づいて、苦笑する。
思えば……僕にそれを教えてくれたのは、あの田舎町で暮らしていた岳おじさんだ。
おじさんに出会って、世界の見方が少しだけ変わった。
見方が変わったら、彩りが増えた……。
その目が……幸せの色合いを、今も僕に見せてくれている。
祈るように、願うように。
もはや自分のルーツにもなっている、あの故郷。
自然溢れる山々。背の高い二本のメタセコイア。
明日を夢見て枝葉を伸ばす、あすなろの木。
見事な花を咲かせる、苔むした桜の大樹。
そして、きっと今もそこにいる……一人の少女。
――僕も、そろそろ向き合わなくちゃいけないな……。
暗がりで絵を描きながら、そう思った。
一、ありがとう
この日々が、ずっと続くと……そう思っていたかった。
思わせてあげたかった。
けれど……月日は、確実に流れていた。
「やっと、描き終わった……」
暗がりで、ポツリとそうつぶやいた。
「相談聞いてくれてありがと!じゃあ、夢穂が待ってるから、また報告に来るね!」
自分の世界で生きている光樹の邪魔にはなりたくない。
そう思っていたが……光樹の足はすっかり遠のいていて。
結局、用事のある光樹を呼び止める形になった。
「光樹!もう少しだけ時間をもらってもいいかな?」
仔犬のように走り出していた光樹は、慌てて止まってくれたが……。
不思議そうなその顔を見て、胸が痛んだ。
準備ができていないのは、自分の方だと思い知らされた気がした。
実は、光樹にどう伝えれば良いのか……まだ正解と思える言葉は、見つかっていなかったのだ。
「こんな形でごめん。僕、もうしばらくここには来ないんだ」
「え……?」
何言ってるの?と言いたげな顔が、何かに思い当たったように……どんどん歪んでいく。
これ以上見ていたら、決心まで揺らいでしまいそうで。
とても直視していられず……僕は、庭の方に視線を移す。
……窓から見える景色はもう、次の季節の色合いを見せはじめていた。
「ここで個展を開くのは二ヶ月だけ。それで……今日が最終日なんだ。長いと思っていたけど……あっという間だね」
「やだ。先生、どこに……行っちゃうの?」
光樹はそっと、確かめるようにそう聞いてくる。
「帰るんだ。フィンランドに」
「遠いよっ!ってか遠すぎじゃん!」
……確かに、物理的に考えても、またすぐ会える距離ではない。
小学生にとって、世界はまだ途方もなく広いだろう。
「また一人になっちゃう……」
「ならないよ。光樹はもう一人じゃないだろ?友達もいる」
「でも!……公園なんかで遊んでないで、もっとここに来れば良かった……」
いつかの別れを予期しながらも、ここに来たらいつでも会えるという甘えがあったと……そう悔やむように、光樹は言った。
だから、僕は首をふる。
……光樹はまだ、これからを生きていく子どもなのだ。
「それは違う。光樹の世界はまだこれからだ。今を大切にするのは大事なことだよ。
一緒に大きくなっていく周りの友達は、きみの味方。宝物は、特に大切にしなくちゃ」
物分かりのいい光樹ならわかってくれると、そう思いたかった。
「やだ!先生に会えなくなるのはすごく嫌だよ!」
「また会えるよ。ここでまた個展を開くし、その時は忘れずに会いに来てほしいくらいだな」
「忘れるわけない!でも次って二年後なんだろ?それまでにも、何度も会いたいよ。会いに行きたいのに、外国なんて遠すぎる」
「じゃあ……SNSは?」
「会いたい時に、顔を見て話したいの!」
「テレビ電話があるよ。今ってすごい時代だよね」
「そういうことじゃなくて!……オレ、寂しいんだってば!」
「……ごめん。わかってるよ」
「なら言わせんな!」
「僕も、同じだよ」
「……無理に合わせなくていいよ」
僕は……今も苦手なことばかりだ。
悲しいけど、悲しませたくない。
泣いているなら、笑わせてあげたい。
それが相手を怒らせてしまうことだとわかっていても……ついごまかすように、逃げてしまう。
そして……やった後で、傷つけたことに気づくのだ。
――でも、ごめんな。正解の言葉は、まだわからないみたいだ……。
それらしく見せていても、まだ大人にはなりきれていないらしい。
だから……精一杯の想いを込めて、光樹に声をかける。
「光樹に会えて、本当に良かった。くさいかもだけど……友情の印に、僕の絵をあげるよ」
「いらないよ。だって先生の絵、めっちゃ高いじゃん!」
「……お、知ってるんだ?」
「だって、書いてあるじゃん。
あの数字の後にマルがいっぱいつくんじゃん!
欲しいけど、さすがにもらえないって!」
「じゃあ……こっちをもらってくれないか?数字なんて書いてないから」
僕は、スケッチブックに挟んでいた一枚の絵を抜き取った。
でき上がったばかりのそれを……光樹にそっと、差し出した。
はじめ、眉を寄せて目をやった光樹だったが……その目は、すぐに、はっとしたように見開き、食い入るようにそれをじっと見つめる。
なぜか……ドキドキした。
「……うそつき。風景しか描かないって言ってた……」
光樹の声は、震えていた。
それは……溢れる光を、受け止めるようにも、光を解き放つようにも見える……一本の大樹と、笑う男の子の絵。
ここで光樹を見ていて描きたくなった、彼をモチーフにした絵だった。
ずっと、人物を描こうと思っても、手は震え止まってしまっていたのに。
ここで出会ったのが光樹だったからこそ、描くことができたのだと思う。
……人物画なんて、もう二度と描けないと思っていた。
でもまるで……溢れる光を、なぞるように追いかけるように、筆は進んだ。
懐かしい感覚が……ずっと胸を満たしてくれていた。
「久しぶりすぎて下手くそかもだけどさ。……もらってもらえるかな?」
返事がないのは少し不安で、そう言うと……光樹が食ってかかるように言った。
「これオレだろ!著作権で訴えるぞ」
「それは困るな。でも、きっとそっくりさんだよ」
「ってかオレじゃん。だからもらうけどさ!……本当、くさすぎだよ」
「え?水彩画なのに匂うかい?
しまったな、ジョージのコーヒーのせいかな……」
暗がりで描くなんていう慣れないことをしたから、こぼしていたかもしれない……。
そう慌てたのだが。
「もう……変なとこでわざわざボケなくていいよ!先生が言ったんじゃん」
光樹が全力で怒ってくる。
「あはは。照れくさかったんだ」
ついそんな風に答えてしまい……二人で笑ってしまった。
泣いたり笑ったり怒ったり……。
ころころ表情が変わる光樹は、見ていて本当に愛らしい。
小学四年生ということは……この世に生まれて、まだ十年。
――あぁそうか……。
納得したくなるような思いで……こみ上げてきたものを、ぐっと飲み込んだ。
「ありがとう。光樹に会えて、楽しかったよ」
言葉を探したけれど……それが精一杯だった。
「さよならみたいで、嫌だ!」
「さよならじゃない。また会えるって。
ここは僕らの秘密基地。僕はまたここに来るし、光樹もメンバーの一人だ。
いつでもおいで」
ぽんぽんと触れた光樹の頭が、じんわりと手のひらを温める。
「知ってるかい?大きな樹の中にはね……いろんな木が混ざりあって、支え合うようにしてできてるものがあるんだよ」
「某アニメみたいな台詞、先生が言うなよ!」
「そうなのかい?……きみはほんとうに物知りだね」
でも……言いたいのはそういうことではない。
「このギャラリーはさ、大きな樹と同じだ。ここのみんなに、僕はたくさん支えてもらってる。
光樹も……。だから、ありがとう。きみに、勇気をもらったんだ」
「でもオレは、ここに来ても先生がいないんじゃ、嫌だよ……」
そう言いながら、ついに抱きついてきたあたたかさを、受け止める。
「甘えん坊なんだなぁ……」
そのサラサラの髪をなでながら、心の奥でそっと呼びかける。
――知らなくて……ごめん。
「……正直、うれしいよ」
ポツリと、そうつぶやいた。
***
帰る前に……まだやるべきことがある。
そう思っていたから。
そんな風に言ってもらえて……感謝しかない。
「ありがとう」
背中を押してもらえたようで……胸の奥がじんと熱かった。
一、あれから
二年前。
光樹と別れたあの後……僕はその足で故郷に向かった。
璃子に、会うために。
でも……そこには何もなかった。
まるで、あの迫り来る自然にそのまま飲み込まれてしまったように……僕の思い出の景色は、璃子と共にひっそりと姿を消していたのだ。
……詳しいことは、また次の機会に記そうと思う。
思うことはいろいろあったけれど……まぶしい光に勇気をもらって、一歩が踏み出せた。
そのことに、変わりはない。
***
引っ越した頃、未来が全く見えなくて不安だった。
たった一人の女の子を救うこともできなくて。そんな、非力な自分に打ちひしがれていた。
自分はちっぽけなのに、世界は未知の宇宙のようにあまりにも果てしなくて。
それで……ただひたすらに不安だった。
置いてけぼりにされた後悔だけが残り……それでも、時は待ってはくれなくて。
足音も立てず……気づくといつもすぐそこに迫っていて。
振り向いて、気持ちの整理をすることもできないまま。
追いたてられ、追い詰められる……そんな感覚のまま、僕は仕方なしに大人になった。
……ずっと、そう思っていた。
それでも……人生にまだまだ何があるかはわからない。
坂を転げ落ちていても、その向かう先は後ろではないのだから。
出会いも、別れも……己の道も。
それは、きっと、ずっと同じ。
――だから。今度こそ、必ず君を探し出す……。
いくつになっても、先はわからないものだから……。
一、エピローグ
「そういえば……例の天使。あれ、どうしたよ?」
ジョージが急に思い出したように言った。
「だから、天使じゃなくて……。あの絵は、離れに置いたまま」
さんざん言われた昨日のことを思い出し、ふてくされたようにそう返す。
「今回、鳥のテーマだからって……ちょっとハルさんにしては、大胆すぎましたからねぇ」
「そういうつもりじゃなくて!
昨日も言ったけど、そういう風に見えるようにあえて描いたってことは、もうこの際認めるけど……でも、天使じゃないし。
それに、鳥だから持ってきだってわけじゃなくて……。
ただ、光樹に見せようと思って持ち込んだんだってば」
「だから………天使っつう解釈は間違ってないだろが。
それとも何か?あの絵のモデルは、光樹のいうところの、おまえのドロシーちゃんだったりするのか?」
「お、嵐の予感がしますねぇ……」
「案山子よぅ、恋の予感と間違ってねぇか?」
話は、何やら変な方向に転がっていく。
「あのさ……『おまえのドロシーちゃん』ってなんだよ。ドロシーは主人公だろ?オズの魔法使いの設定、なんか間違えてない?」
げんなりしながら、そうぼやく。
「なんだ、天使は違うのか。少しは弟子を見習え。ミツはおまえを越えてったぞ」
「……今度は何の話だよ」
大人……それもおじさん三人が、今日も秘密基地に集まって、まるで子どものような会話を続けている。
……そんな、今。
僕は、この未来がわかっていても、今につながるような選択をしたのだろうか。
そんな風に……時に触れ、いつだって立ち止まって考えてしまうという意味では、僕は何も変われていない。
いつも、そう思い知らされるのだけど。
――大人と言いながら……結局、子どもの延長を過ごしているだけなのかもしれないな。
ただ……そうしながら。
時に、大人ぶったり、先輩面をしてみせながら。
少しずつ未来に向かって進んでいる。
あれから二年経っても、 描けた人物画は……まだ一枚だけ。
それでも……きっと少しは前に進めているのだと、そう思いたい。
全く変わらないように見えるこのギャラリーも、少しずつ時を重ねているのだから。
「だからよぉ……。あれは良い絵だって言ってんだが。……何をそんなムキになってんだ?」
ジョージがいい加減面倒くさそうに言った時だ。
「あ。トトが来たようですよ」
「……ん?誰のことだ、そりゃ?」
だんだん近づいてくる慌ただしい足音とともに、勢いよく引き戸を開けた光樹が、元気いっぱいの声をあげた。
「遅くなってごめん!琴音とほのかが離してくれなくて……。紹介文、書き直したから持ってきたよ!……あ、先生おかえりっ!」
その背丈は、僕の目線あたりまで伸び、声も少し低くなっている。
でも。懐かしい笑顔の中には小さなえくぼがのぞいていて……。
「光樹……」
まぶしいのに、思わず目を見開いてしまう。
「おまえだけ、変わりすぎだろ!っていうか……夢穂ちゃんはどうした?」
つい、どうしようもない本音がこぼれ落ちる。
「ハルさん……そっちじゃないでしょ」
「やっぱ、ハルはついでかよ……」
二人が、呆れたようにそうつぶやいた。
急に明るさの増した、ギャラリーの中で。