
春〜光と樹ときみと〜第3話
#創作大賞2026
一、はじまりの絵
「まぁそんなに構えないで。
中に、見た目が怖い人はいるけど、中身は優しい人だからさ」
念のため、そう伝えてからドアを開けたのだが。
「うわっ……ライオンだ」
おそるおそる中をのぞいた少年からボソリとつぶやかれたひと言目は……やはりというか、そんな感想だった。
「ジョージ、例のお客さんが来たよ。さぁどうぞ」
そう言って中に入り、カウンターの椅子を引きながら振り返ると……少年はまだ入り口のところで立ち止まったままだ。
おびえているのかと思いきや、目をパチクリとさせたまま、辺りを見渡している。
そんな様子を見て、カウンターの向こう側にいたジョージが小さく笑った。
「……まるで仔猫だな」
――本当だ。
その様子は、全身の毛を逆立て、五感をフルに使い……危険を探っているようにも見えた。
「え……何これ」
そのつぶやきが漏れてからは……忙しかった。
「何で家の中なのに、緑がいっぱいなの?なんか……懐かしい匂いもする。
すっげ……こっちのは何かくっついてる。うわっ、壁から草が生えてる!」
受付のために入り口にいた案山子さんが、慌てたようにその後を追いはじめた。
「あ〜!見るのはいいけど触らないでくださいね!どれも大事な作品なので!」
個展の来場者の中には、子連れの人もたくさんいるというのに……。
いつものおっとりさはどこへやら。説明しながら後ろにつく姿には、どこかハラハラしている感じが見受けられる。
「こりゃ仔猫じゃねぇな。仔犬のほうか」
ジョージがそんなコメントをした。
「触っちゃだめね、わかった!うっわ……こっち動物がめっちゃいる。……これ、動くの?何これ、すっげぇ……」
確かに……浜西の動物たちは、どれも今にも動き出しそうな躍動感をしているのだが。
どの反応も、何というか新鮮味が溢れすぎていて。
「子どもって……こんな風だったっけ?」
つい笑いがこみ上げてくる。
「いや、こいつは大物だぞ」
ジョージも笑ってそう言った。その時だ。
忙しなくしていた彼は……急にピタリと動きを止めた。
急に静かになったことが気になって様子を見ると……少年は、一枚の絵の前で立ちすくんでいた。
何かが、思い出に触れたのかもしれない。
「すげえ……」
ささやくような、小さなつぶやきがもれる。
少年が、どんな表情をしているのか……こちらから探ることはできなかったけれど。
その絵が何なのかはよく見えた。
それは……僕の、再出発のきっかけにもなった挿絵の絵。
二本の、メタセコイアの木の絵だった。
「ほら、やっぱりな……」
急に静まり返った部屋の中……ふっと笑ったジョージの声が、僕の耳にも届いた。
***
「とりあえず座る?えっと……オレンジジュースは飲めるのかな?」
落ち着いたところで、改めて声をかける。
「他といっても、牛乳か水しか用意してないんですけどね」
案山子さんがフォローしてくれたからだろうか。
「じゃあ……ジュースでいいよ」
少年は居心地悪そうにカウンターに座りながら、そう答えた。
「ボウズ、なかなかカッコいい傷だな。それ、どうした?」
搾りたてのオレンジジュースを差し出しながらジョージが問いかける。
「これ?女子に引っ掛かれた」
当たり前のように少年は答えた。
物怖じしないどころか、その目はジョージの手元に釘付けだ。
半分に切ったオレンジを、絞り機でプレスさせるさまは、珍しかったのかもしれない。
じっと見ているうちに……気持ちもすっかり和んだのだろう。
「ほぅ、女か」
「へぇ……その子、よっぽど爪が長いんだね」
「ハルさん、そっちじゃないでしょ。よっぽどの何かあったんですよ、きっと」
「別に……いつものことだし」
「ちゃんと手当はしたか?爪ってのは、バイキンの巣窟なんだぞ。跡が残るから気をつけろよ」
「ジョージさん、そういうことでもないと思いますけど……」
大人たちのやりとりは不思議だったのだろう。
少年は、なんか違う……という顔で眉間にしわをよせた。
「きみは強いんだね。まだすごく痛そうだよ」
「痛いよ」
そう言ったと思ったら、急に言葉があふれた。
「すごく痛かったよ。……女子達、よってたかってオレを悪者扱いするんだ。
先生はいつだって、あっちの味方でさ。話なんて全然、聞いてくんない……」
「悔しいね、それは。何もしてあげられないけど、話ならどれだけでも聞くよ」
少年は、まるで信じられないものでも見るように、こちらを見上げた。
……きれいな瞳が、揺れている。
――きみは、何を抱えているんだろう……。
そう思ってしまった。
「……どうした?」
問いかけると……少年は不思議そうな顔で言った。
「あんたさ、さっきから何か変だよ。
普通だったら大人はさ『おまえも何かしたんだろ』とか『みんなと仲良くしなさい』って言うんだ。『心当たりあるんじゃないか』って」
「そうですよねぇ。それが世間一般の大人の考えですよね……」
案山子さんが、それは間違っていないとばかりにうなずくのを尻目に、彼への言葉を探す。
「心当たり、あるのか?」
「ない!」
ジョージの問いに食ってかかるように答えた少年に、言ってやった。
「心当たりはなくてもさ……人は一緒にいたら何かしら事件になるだろ?対、人なんだから、当たり前じゃないか」
「え、まさかのそっちの説教?」
案山子さんの叫び声のような声がする。
少年の顔も曇った。
「そりゃそうかもだけど……何でかわからない。オレ、何もしないようにしてんのに、先生はいつもオレを一番に怒るし。
いつも何かするように仕向けられてるし、はめられてて、それで……」
悔しくて、気持ちに言葉が追いつかない様子に見えた。
……でも。僕が言いたいのはそういうことではない。
「そういうの、得体のしれない怖さがあるよね。……集団の悪意って、僕は苦手だな」
「え?」
少年は、怒りを抜き取られたような顔で、じっとこちらを見上げていた。
「僕は『みんな仲良くしなさい』には反対なんだよ。
許す心は大事でも、少なからず誰か一人は自分の心を殺していたりする。
耐えれるものもあれば、我慢ならないのもあるし、こっちは良くてもあっちは違ったりする。
その逆もあるし、忘れられないことも含めて考えたらさ……自分がいつ誰に何をしたかなんて、もうわからないよ。
仕方なく言いなりになるような子がいる中で、みんな仲良くなんて……とうてい無理な話だと思う。
いろんな人がいるから、合う人合わない人はどうしても出てくる。
そうすると、どうしても歪が生まれてしまって……」
つい思ったままを話してみたのだけれど……大人二人の大きなため息が聞こえてきた。
見ると、少年はキョトンとした顔になっていた……。
「不思議でしょう?ハルさんって」
案山子さんが、仕方なさそうに笑ってフォローしてくれた。
「大人になりきれてねぇ大人なんだよ」
そう言うジョージの口元も笑っている。
「自覚はあるけど、ひどいな」
思わず抗議すると、ジョージはさらに諭すように僕に言った。
「まだ何もわからん子ども相手に、全力で語るなって言ってんだ。おまえ、先輩だろ?」
らしからぬ言いようからして、きっと合いの手だ。
僕は笑ってしまいそうになりながら言い返す。
「わからない子や、耳を貸さない子には、こんな風に言わないよ」
ここに来た勇気ある少年は、ちゃんと聞く耳を持っている。
そう信じてやりながら、ジョージに向かって言葉を続けた。
「大事なのは、そういういろんな子がいる中で、そういう子達とどう付き合っていくか……だと思うんだ。
嫌でも一年は同じクラス。
今、切り捨てることはできても……同学年でいる以上、この先ずっと、どこかでまた一緒になるわけだしね」
少年は、じっと話を聞いていた。
暗い顔で、揺れるような瞳で。
「僕はきみがどんな子か知らない。だって、名前だって知らないしね。
でもこれだけはきみに言ってあげられるよ」
そう言って、真剣な顔で少年に向き合う。
「きみは……悪くない」
少年の顔がカッと赤く染まった。
「オレのこと知りもしないのに、悪くないなんてよく言えるな!」
本当に素直で真っ直ぐな子だと思った。
「じゃあきみは、悪いヤツになりたいのか?」
「ならない。なってやるもんか!」
素直で……そして、聡い子なのだろう。
「それからオレは……光樹だよ。溝口光樹!」
吐き捨てるように……自分から名乗った。
ちゃんと受け止め、笑顔を向ける。
「光樹、きみは絶対に悪くなんかないよ。暴力を選ぶしかなかったんだろう?
……でも、もう違う。
暴力がいけないことって、きみは知ってる。わかってるから……苦しかったな。
だから……光樹は悪くない」
じっと目を見て、そう言ってやる。
しっかりそれが染み渡るように。
「それから……」
出会ったときから、光樹の目の光は本当にきれいだ。
「いい名前だな。僕には眩しいくらいだよ」
この光が曇らないことを願いながら、僕は言った。
一、思い出
「……ね、聞いていい?付き合い方って、例えば?」
光樹と名乗った少年が問いかけてきたのは、翌日のこと。
子どもに、時間軸というものは存在しないらしい。
「えっと……何のことかな?」
おかげで、申し訳ないくらい間の抜けた返しになった。
光樹は真剣な顔をしていた。
「昨日言ってたじゃん。大事なのは、どう付き合っていくかってことだって」
ようやく合点がいって、思わず微笑む。
――この子はやっぱり、素直で聡い子だ。
そっと巻いた種は……無事、小さな芽をのぞかせたのだろう。
きっと……ここで聞いた言葉を胸に留め、考えながら今日一日を過ごしてくれたのだろうと、そう思った。
子どもの心も様々だ。
スポンジのように何でも吸収してしまう子、粘土のようにくっきり型がついてしまう子。
そのまま固まってしまうコンクリートのような子もいれば、形は残らないのにずっと乾いたままの、まるで砂のような子もいる……。
この世に生まれた時から、それが決まっていたなんて言わせたくない。
たとえどんな心をしていたとしても、優しさの芽吹く心であってほしいと……どうしても、そう思ってしまう。
「そうだなぁ。例えば……とある子に、何か嫌なことをされたとするだろ?」
「うん。めっちゃムカついた!」
「でも、その子を責めない。嫌わない。
……そういうことだよ」
心に染み渡るように、わかりやすい表現を選んで言葉の雨を降らせるのは、とても難しい。
「えぇっ、なんだよそれ。オレ、泣き寝入りなんてしたくねぇし」
何かまた事件でもあったのか……今日の光樹の目は怒りでいっぱいに見えた。
「泣き寝入りなんてしなくていいよ。難しく考えなくてもいいんだ。
まずさ……ちょっとだけ分けて考えてごらん。
人と、物事とを分ける。
自分は『された事』が嫌だった。だから『やった子』が嫌なわけじゃない。
『嫌な言葉や言い方』が嫌だった。でも、『言った子』が嫌なわけじゃない。
ちょっとした、考え方のトレーニングだよ」
「何だよそれ。どうせオレには無理だって、あんたも思ってるんだろ!」
眉をひそめたままこちらを睨みつける。
その言葉は、聞いているこちらまで辛い気がして。
「光樹はちゃんとわかってるよ。
……今はまだ、許したくないんだな。それでいいんだよ」
そう言って……少し、光樹の様子を見守ることにした。
何がそんなに嫌だったのか……光樹は頭を抱えるようにして、カウンターに突っ伏した。
「あー!がっかり。時間の無駄、聞くんじゃなかったぁ……」
でも……光樹はここにいた。
――言っていることと態度が違うけれど、いい傾向だ。
そう思った。
必死で考えるのは、許したいと思う優しさがあるからだろう。
「そいつ全部が嫌いって……ほんとにそうかな?」
声をかけても、投げ出したり、帰ろうとはしない。
だからこそ言ってやる。
「光樹ならできるよ。
自分の気持ちが変わる、ひとつの方法。
……一緒にやってみるかい?」
反応はなかったけれど、そのまま言葉を続ける。
「例えば……殴ってくる子がいたとするだろ?まぁ、そもそも手を出すのはダメなんだけど、殴った理由はなんだろう?」
服の袖からのぞく、腕の青あざをチラリと見ながらそんな言葉を紡ぐ。
「ムカついたから」
案の定、光樹は顔を伏せながらも、僕の問いには応えてくれた。
「むしゃくしゃしてたんだな。……それはなぜだと思う?」
「嫌なこと、言われた。……多分」
ポツリポツリと光樹が答える。
考えているのではなく、何かを思い出すように……言葉にしづらかった思いを、己から離すかのように。
「嫌なことか……心が傷つけられたと思ったんだ?」
そう言った時だ。
何らかのスイッチを押したらしい。
「思っただけじゃない!めっちゃ嫌だったよ!」
光樹は急に顔をもたげ、今度は吠えるようにそう言った。
「あいつらムカつく!あんな言い方したら……傷つくよ。オレだって……痛いよ。
なのに全然、いつもやめてくれない!」
光樹はまたカウンターに突っ伏した。
「傷つけられて悔しかった?」
「ムカつく。……悔しいよ」
小さな震える声は、聞いているだけでも切なくて。
「うん、悔しいよな……叩かれたなら防ぐこともできる。それなりに耐えられる。
けど……言葉の暴力は、悔しいし……悲しい。
心は無防備で、守れない」
そう、代弁する。
「光樹、言われて辛かったんだろ?」
光樹はハッとしたようにこちらを見た。
その目はみるみる潤んで、しまいには大きなひとつぶの涙となって……頬をつたったのだった。
それを見られたくないのか、光樹はまたカウンターに伏せてしまった。
冷めつつあるコーヒーを、口に含む。
――なぜ……思い出というのはきれいに消えてくれないのだろう。
光樹と話して脳裏に浮かぶのは、小さな自分だったりもして。
苦いような思いを噛み締めながら……そう思った。
どんなに美味しいコーヒーも、時間が経つと共に、少しずつ酸味と苦味が増していく。
……酸化と風化は、似ているようで全く違う。
残ってしまった感情は、ゆっくり形を変えて……やがて後悔に変わる。
自分の中にあるのは、そんなものばかりだ。
「……みんなを嫌わなきゃ、やっていられないよな」
光樹に言うわけでもなく、そうつぶやいた。
「嫌われる前に嫌ってやる!
やられる前にやってやる!って……僕は思ってたよ」
僕の中にあるのは……固まってしまったまま消えない、苦い思い出ばかりだ。
「……そう、なの?」
「昔の、僕の話だけどね」
「……昔ね、よくからかわれていたんだ。背が低いし、もしかしたら、反応が面白かったのかもしれない。
……原因なんてわからない。
でも気づいたら、言われる前に暴れてやる!って思うような子どもになってた」
「うわ、それ問題児じゃん」
「多分。っていうか、その通りだな」
問題児に問題児だと指摘されたことが、今は何だか面白いと思った。
光樹はもう怒るでも泣くでもなく……僕を見ていた。
「でも、知ってるかい?問題児ってさ……問題を抱えて、困ってるからそう呼ばれるんだ。
実は、本人が一番困ってる……。僕も、めちゃくちゃ困っていたんだよ」
……言葉は、不思議だ。あの頃どうしても言えなかったことが、どんどん整理されていく気がした。
「何て言えばいいかわからなくて、でも口では言い返せなくて。
覚えているのは……ひどく嫌な気持ちにさせられてたってことだけ。
また同じ思いをさせられたくない。二度とごめんだ。
本当に……どうしていいかわからなかったんだ。
聞き流すこともできないし、やめてもくれないし。
……急に言われると、ものすごく胸が苦しいしね」
言葉を止め、苦いコーヒーを飲み干す。
冷え切った苦い思いだけが、広がっていく。
「そのうちに……何が原因かわからなくなって、みんな敵だって思った。
ずっとずっと、悔しいばっかりだったよ。
何が悔しいって……僕の思い通りにならない世界がさ。
味方が一人もいないみたいで……。
何が本当の自分なのか、わからなくなっていってさ。
気づいたら……全然違うことばっかりしてる自分がいて。
それで、自分のことが、大嫌いになって……」
何を思うのか、光樹は眉毛を下げたままこちらをじっと見ている。
潤んだ瞳が、何か訴えるようで。
自分の痛みを押し付けてしまったようで、何だか申し訳ないような気持ちになった。
それでも……そっと告げた。
「本当の僕はね……ただ、みんなと遊びたかった。
それだけのために、ずっと足掻いてたんだ」
「気づいたんだ……」
光樹は、どこかホッとしたようにつぶやいていた。
***
こんな風にならないでほしいと思うのは……ただのエゴなのかもしれない。
今、光樹は小学四年生。
小さな子どもに見えるけれど……僕が背負ってしまった過去も、ちょうど同じくらいの時期のもので。
後悔を抱えている自分でも、人生の先輩として、何かを残せるような気がしたのだと思う……。
「中学に入ってね……僕に気づかせてくれた子がいたんだ。
誰でもいいからわかってほしくてしかたがなかったけど……それじゃ、ダメだった。
特別な子が、僕のことをわかってくれたら……ようやく周りが見えたんだ。
でも……相手にも、状況や、背景ってものがあるって……その時に知ってね。
……それからだよ。僕が、まずじっといろんなことを考えられるようになったのは……」
初めてそれを口にして……あの頃に思いを馳せる。
……あの頃の僕は、背は小さくても……もう少し大人なのだと思っていた。
でも、ただの子どもだったのだ。
――僕はきみを助けてあげられなかった。でも……助けたいと思ったんだ。
あがいてあがいて……何もできないまま逃げ出してしまった自分のことを、そんな風に思った。
***
「……やっぱり、難しいかも」
途方に暮れた顔で光樹が言った。
でもその顔は……やってみようとしてるからこそ、出てくるものに見えたから。
僕は、光樹の頭をワシャワシャと撫でてやった。
はじめビクッと肩を震わせて反応したものの、光樹は大人しくされるがままだった。
――優しい子だ。
ただ、誰かに優しくされることを……ずっと待っていただけなのかもしれない。
僕も、きみも。
一、日々
なんだかんだ、それからも毎日のように光樹はやって来た。
「あれは僕の話で、やってもいいし、やらなくたっていい。
必ず正しいって訳じゃないからね」
照れくさいような気持ちがしてそう言うと、頬を膨らませた。
「……何だよ、あれ嘘なのかよ」
口調でめいっぱい突っぱねようとするところが。
そのイキり切れてないところが、まだまだ可愛らしくて……つい僕は笑ってしまう。
「嘘じゃないよ。何が正しいとか、何が自分に合っているかは、一度やってみないとわからないじゃないか。
言っただろ?対処法の一つってだけだよ」
今、水を浴びせても、芽は育たないかもしれない。
やりすぎたら枯れてしまう。
でも……。
もしかしたらとんでもない木に育つのかもしれないから。
――この子が、自分の未来をちゃんと感じ取れるように。
ただ……そう願うことしか、できない。
人生も試練も……一人ひとりに与えられたものだから。
だから……僕にしてやれることなんて、ほとんどない。
気にかけて、信じてやることくらいで。
選択をするのは、いつだって光樹自身だ。
その時は……ただ、そう思っていた。
一、秋の合同個展
「今回は初日からすごいですね……。前回に比べて、来客数が増えてません?」
ようやく休憩に入ったというところで、芳名帳をめくっていた案山子さんがつぶやいた。
ジョージのコーヒーで一息つきながら、僕は笑う。
「神崎くんとの合わせのおかげじゃないかな……。僕はまだまだだ」
そう言って、鳥があふれる、前回とは別世界のようなギャラリーを見渡した。
「おまえ……二年前と同じことを言わすなよ?」
ジョージの口がへの字に曲がった。
「そうですよ。まだまだなんて言って……。ハルさんも今じゃすっかり有名人ですよ?もう素顔で街中は歩けませんって」
「いや、それはないよ……」
そこについては、頭を抱えたくなった。
前回のお客様の反応を見て、何かしら思うことがあったようだ。
「よし。おまえ、今すぐ覆面でやれ」
開催何日目かの日に、ジョージにそう命じられた。
イメージ的なものの話らしく……『この絵を描いた弱気なおじさん』よりも『水彩画作家『月海ハル』は、性別不明、年齢不詳』の方が圧倒的に絵に合うからだ!と。
……ジョージのくせに、ツルの一声だった。
そうは言っても、接客や対応はしなくてはならず……。
手元に何もなかったこともあり、色つき眼鏡とマスクでその後は過ごすことになったのだ。
素顔をさらして、街中を堂々歩いたところで……今さらだ。
きっと、気づいてもらえるほうが難しい。
「だから光樹も、僕のことを『眼鏡マスク』なんて書いたのかな……」
少しいじけたいような気持ちでぼやくと、案山子さんが慰めるように言った。
「光樹くんは優しいですからね。覆面っていう言葉は難しくて、思いつけなかったのか、漢字を書けなかったとかじゃないですか?」
優しいようでいて……なかなか、ひどい。
「……もう中学生なのに?それでいいのか……」
思わずつぶやくとジョージが笑った。
「すっかりお父ちゃんだな」
「……いや、それはないよ。二年も会ってないしね。顔、覚えてくれてるのかな……」
そう言ったのは……間違いだったのかもしれない。
「そういやあ、久々のご対面だったな。今すぐこれを付けろ。忘れてた」
そう言って……ジョージは眼鏡を差し出してきた。
「……いや、付けなくてもわかるだろ」
「イメージの問題だ。それに武器は必要だぜ、眼鏡マスク。おまえのために最新のアイテムを用意した」
確かに、よく見ると……前の色付き眼鏡とは少し違う。
しかたなく付けてみると……意外と視界がクリアになって、おどろいてしまった。
「老眼鏡だ。よく似合ってるぜ、世界をたたきかけた眼鏡マスク」
「ちくしょう!すごくよく見えたよ。っていうかそれ……やる気のない奴か、ただの迷惑な奴みたいだから、やめてくれ」
「ふはっ。それ、まんまハルさん……」
案山子さんがなぜか噴き出す。
「別にたたいてないし、やってもないのに何で責められなきゃいけないんだよ」
「いや。何も攻めてねぇ。世界が平和で何よりだな」
いろいろ思うことはあっても……ジョージに召喚され、彼のおかげでここにいる。
本気で怒ることも拒否することもできない。
「ちくしょう……いつか、きっとたたいてやる」
「ついにやる気を出したか?やれるならやってみろ、迷惑な奴め!」
「あんたが言うなよ」
くぐもった笑い声に振り返ると……受付で、案山子さんがまた悶えていた。
***
今でも、すぐに思い出せる。
光樹が目を見開いていた、前回のテーマは……『木』だった。
あの時は、案山子さんのグリーン系の生け花アレンジがコラボしていて、まるで森の中にいるような心地がしていた。
彫刻家の浜西が持ち込んだ木の彫刻のために、ギャラリー内の木の香りは、さらに濃度を増していた気もする。
「浜西は着実に実績もつけていて、すごいよな……。僕はまだまだだから。
申し訳ないような気になってるよ」
光樹のつつみ隠さない素直な反応を目の当たりにして。
休憩の合間に、そんな本音が漏れた。
それが、眼鏡マスクにつながるとはその時は思いもしなかったのだけれど……。
でも、どこか肩身の狭い思いがあった。
チェーンソーアーティストの彼の作品は、どれも木の持ち味まで活かされていて。
どこか和やかな雰囲気を醸し出す、今にも動き出しそうな作風が魅力的で。
お客様は、浜西の作りあげた彫刻や置物を目当てに訪れていたようにも見えたのだ。
「俺は、申し訳ないようなものを人様に見せてるつもりはねえよ。
今回は、あの作品を持っての凱旋だろ?
俺の目に狂いはねぇ。
それでも自信が持てねぇって言うなら、もうここの敷居をまたがせねぇぞ」
ジョージのその言葉に、うなだれるしかなかった。
……あの頃、僕にはどうしても描けないものがあった。
スランプというのか……僕の絵には、ずっと欠けているものがあって。
その頃は風景画を主に描いていたから、テーマに救われただけ。
「自分の中の何かがそれを止めてるなら、無理はすんなよ、海月先生。
どうせ、まだふわふわしていたいんだろ。」
ジョージはそう言って、気に留めていないようだったけれど。
ジョージに海月と呼ばれると、苦笑いしか出ない。
今のペンネームを考えたのは……他の誰でもないジョージだ。
『海月よりはマシだろ?』と言って、勝手に決まったから。
ジョージに新しい名前を与えられてから、ずっと……祈るように、願うように。
それが贖罪になるならと……僕はキャンバスに色をのせている。
今の僕の絵は……人とのつながりの上にある。
絵を描くときは……いつも何かしらの思い出が浮かんで、誰かがそこにいてくれる気もする。
それは、やはり僕の幸せであることに変わりはないのだけど……。
それでも……どんなに苦しい思いをして努力しても、描けない絵は、いつまでも描けなかった。
「ほら、今日も元気印がやってくるぜ?こんな時に、なにお節介してんだと思ったが……どっちが救われてんだかわかんねぇな」
あの時……ジョージには、もうわかっていたのだろうか。
一、秘密基地
光樹を招待したこのギャラリーは、僕にとって特別な場所だ。
もうずいぶん昔の話になるが……この古民家は、『ジョージの館』と呼ばれ、たまにサークル仲間で集まる場所だった。
それを、ある日突然『ここをギャラリーにする!』とジョージが言い出して……。
リノベーションは、当時のメンバーのみんなで行ったのだ。
土間に角材を渡して補強をし、畳を取っ払い、木材の床を張る。
土壁を壊し、間取りを変えたり、漆喰を塗ったり。
それぞれ調べたり、教えてもらうために出かけたり……いろいろな学びや発見があった。
みんなで協力しての作業は楽しくてしかたがなくて。
時が経つのはあっという間だった。
『人が集まる場所に、水場は大事だ』というのがジョージのこだわりでもあって。
彼は、一人で黙々とカウンター付きのカフェコーナーを作りあげた。
丁寧に豆を煎り、ひき、コーヒーを淹れるのは……だいたいジョージで。
いつも、繊細で、芳香の立つコーヒーを淹れてくれるのだった。
この体格、この性格でなぜ?と思えるような味わいは……悔しいけれど、まるで、記憶の中のあの人みたいで。
そんな一杯を淹れられる人を、僕は他に知らない。
あの大学に入らなかったら。
あの扉を叩かなかったら。
きっと、この出会いは無くて、今の僕はいない。
人生は……本当にわからないものだと思う。
怪我のためにサッカーを続けられなくなり。
希望していた大学にも行けず……目指す目標も見えずにいたのに。
あの時、芳しいコーヒーの香りがどこからか漂ってきて。
懐かしい香りに、引っ越して出会った岳おじさんの家を……あの頃のことを思い出しそうになって。
そして……璃子の声を、聞いた気がして。
導かれるようにあのドアを開けた。
……みんなとは違う道を選択して、絵の世界から足が遠のいた僕だったけれど。
導いてくれた彼がいたから、またここに戻ることができたのだ。
まだまだ再出発したばかりの僕だけれど……今たしかにここにいる。
そして……この場所があったから、僕は光樹に出会えたのだ。