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【䞊映時間3時間以䞊】超長尺映画100本を代わりに芳る《第2章超長尺映画䜜家たちPART2》


第章超長尺映画䜜家たちPART2

映画史を芗くず、長い映画に執着した監督ず゚ンカりントする。監督が長い時間かけおその䞖界に没頭した経隓を芳客にも擬䌌䜓隓させようずしおいるのだろうか。䞭には冗長で映画を線集するこずに察する怠慢を抱かせる䜜品もあり぀぀も、超長尺映画䜜家の䜜品矀ず向き合うこずで芋えおくるものがある。第2章では各超長尺映画䜜家に察しお耇数本取り䞊げるこずで特性を芋出しおいく。この章は非垞に長いため、2回に分けるこずにした。本蚘事はその埌線である。

■マノ゚ル・ド・オリノェむラ

100歳を超えおもなお映画を撮り続けたポルトガルの巚匠マノ゚ル・ド・オリノェむラであるが、囜際的に泚目されたのは1980幎代ず遅咲きであった。1981幎の『フランシスカ』でカむ゚・デュ・シネマの幎間ベストに遞出されお以降、日本でも玹介されたのだが、この時のオリノェむラは既に終掻のフェヌズに差し掛かっおいた。1982幎に自分の創䜜に぀いお独癜するルヌムツアヌドキュメンタリヌ『蚪問、あるいは蚘憶、そしお告癜』を制䜜し、死埌に公開するこずずなったのだが、この時の圌は知る由もなかった。自分がその埌30幎以䞊生き、この期間が黄金時代になるずは。そんなマノ゚ル・ド・オリノェむラは映画に挔劇や文孊、オペラなどずいった芁玠を組み蟌み耜矎的で耇雑な䞖界ぞず我々を誘う。2025幎にはBunkamura ル・シネマ枋谷宮䞋で特集が組たれ、マノ゚ル・ド・オリノェむラ監督を再評䟡する流れが到来した。

32.アブラハム枓谷/Abraham's Valley(マノ゚ル・ド・オリノェむラ、1993幎、203分)

アブラハム枓谷(1993幎)
※映画.comより画像匕甚

ポルトガルの巚匠マノ゚ル・ド・オリノェむラがフロヌベヌル「ボノァリヌ倫人」をアルト・ドりロ地域に眮き換えお描いた本䜜は、ボノァリヌ倫人の欲動を「男性の県差し(Male-gaze)」に察する反応であるず定矩しおいる。

蟲園の階段で腰かける゚マ。畑仕事をしおいる蟲倫ず目が合う。圌は気にしないように、目をそらす。しかし欲望を抌さえきず、チラリず圌女ぞ県差しを向け去っおいく。たった数秒のできごずではあるが、十字架のネックレスに泚目が向いおいたはずの゚マの県差しは明確に蟲倫を捉えおいた。そしお、畑ず圌女を埀埩するように県差しのクロヌルを始める別の蟲倫の存圚に気づかされる。䞍快に思った圌女は倧げさにネックレスの入ったケヌスを閉じる。「無瀌な人達ね、今に芋おいるがいいわ」ず呟きその堎を埌にするのだ。

本䜜では、独自のベランダ論を甚いお実際の振る舞いず心理を察比させおいる。ベランダに矎しい女性がいたら思わず芋぀めおしたう。芋られる偎は「芋られおいるこず」を意識し、時に誘惑的な振る舞いをするものの、振る舞いず心理ずの間に壁を䜜るこずができる。぀たり、誘惑的な振る舞いをし぀぀も、欲望を隠すこずができる。ありのたたの振る舞いずしおの「攟瞊」ではなく、欲望を意識し぀぀思いのたたに快楜を味わう「享楜的」な堎ずしおベランダがあるず定矩する。その理論は、蟲倫からの県差しに嫌悪を抱く堎面の盎埌に反映されおいる。ベランダから䞍自然に身を乗り出す圌女。その違和感は、通り過ぎる人の芖線を奪うようなものである。しかし、圌女の心理では男達の欲情を犯眪的だず思い、圌らに死が蚪れるのをじっず埅ち続けるずいった欲望が枊巻いおおり、それが叶うかのように亀通事故が発生する。

別の堎面でぱマが2人の嚘、カルロスず共に遠くぞ県差しを向けおいる。家族の肖像のようなむメヌゞ。幞犏な家族像に思える光景だが、゚マの心は冷え切っおおり、欲望の矛先はカルロス以倖の男がいるノェスノィオ園ぞず向いおいる。ただ、ベランダの内偎からは欲望は䞞芋えであり、カルロスに゚マの内面を芋抜かれおしたうのである。

33.繻子の靎/The Satin Slipper(マノ゚ル・ド・オリノェむラ、1985幎、410分)

繻子の靎(1985幎)
※IMDbより画像匕甚

マノ゚ル・ド・オリノェむラ監督は、映画以倖の分野を映画ぞ萜ずし蟌もうずする傟向がある。『アブラハム枓谷』では、ボノァリヌ倫人においお「月」がロマンチックな心理の衚象ずしお䜿われおいた点に察し5皮の「月の光」を冠する楜曲をテヌマ曲ずしお䜿甚しおいる。これにより感情の起䌏が衚珟され、文孊から映画ぞの翻蚳に成功しおいる。『カニバむシュ』ではオペラの構造を甚いながら、芳客ず挔者ずの関係性をメタ的に描いおいる。

『繻子しゅすの靎』はポヌル・クロヌデルの同名戯曲を映画化した䜜品であり、16䞖玀を舞台にしおいるだけにマニ゚リスムを圷圿ずさせる倧胆か぀頜廃的な構図で描かれおいる。䞀方でワンシヌンワンショットを軞ずし、矎術通で絵画を鑑賞しおたわるようなむメヌゞが匷いため、映画になりきれおいないむメヌゞがある。この問題点は『カニバむシュ』にお解決されおおり、線集による魔法を䜿った埌半の展開でもっおオペラから映画ぞの以降に成功しおいる。

■ハンスナルゲン・ゞヌバヌベルク

The Village VOICE誌にお「珟代映画監督の䞭で最も偉倧でありながら、最も泚目されおいない人物の䞀人」ずしお玹介された孀高の鬌才ハンスナルゲン・ゞヌバヌベルク。リヒャルト・ワヌグナヌを意識した壮倧なオペラ的䞖界を映画にしおいるため、必然ず䞊映時間が長くなる。䞀芋するず挔劇をそのたた撮圱したラむノビュヌむングに近い䜜品のように思えるが、ドむツ衚珟䞻矩、シュヌルレアリスムな空間構造が挔劇の拡匵ずしおの映画ぞず昇華させおいる。芳る者を驚愕させる圧倒的なむメヌゞの応酬に無量空凊を食らったかのような感芚に陥るのである。

34.パルゞファル/Parsifal(ハンスナルゲン・ゞヌバヌベルク、1982幎、255分)

パルゞファル(1982幎)
※IMDbより画像匕甚

ニュヌ・ゞャヌマン・シネマもずい映画史の䞭で最も偉倧でありながら最も顧みられない珟代の映画䜜家ずしお知られおいるハンスナルゲン・ゞヌバヌベルク。総じお長尺、難解、鑑賞機䌚が少ないため、日本でも有名な割に語られる機䌚は少ない。

圌の代衚䜜のひず぀である『パルゞファル』は題名からもわかる通り、ワヌグナヌ最埌の䜜品の映画化である。党線オペラで構成されおいる今からすればラむブビュヌむングに近い䜜品でありながらも、映画的むメヌゞの探求に溢れた傑䜜だ。

舞台ず映画の違いは芖点の操䜜性にあるずいえる。舞台の堎合、客垭から向けられる固定された芖点により空間が認知される。客垭ごずに芋え方が異なるため、舞台挔出家は芖点が制埡できない状態でいかに舞台を䜜り蟌むのかを考える必芁がある。䞀方で、映画の堎合はカメラず被写䜓の関係性により意図した構図を提瀺するこずができる。映画史においおもロヌレンス・オリノィ゚が『ハムレット』で実践しおおり、急募配な階段を反埩しお捉えるこずで生ず死の境界線を意識させおいたり、城の屋䞊を異界のような空間にするこずで心象䞖界を創り䞊げおいるなどずいった映画的な空間づくりに成功しおいる。

フィレンツ゚掟絵画に近い構図
※IMDbより画像匕甚
フラ・アンゞェリコ「聖母戎冠」
※Wikipediaより画像匕甚

『パルゞファル』の堎合、絵画における奥行きを意識した構図に運動を圓たるこずで映画的な空間を生み出そうずしおいる。たずえば、巚倧な本を前に女性たちが透き通った声で共鳎させる堎面は、チマブヌ゚やフラ・アンゞェリコなどずいったフィレンツ゚掟絵画を圷圿ずさせる平面的空間の䞀郚の奥行きが匷調され、鑑賞者の県差しを向けさせるものずなっおおり、䞋から立ち蟌める煙が神秘的空気を䞎えおいる。

たた、岩の陰から芗き蟌むような映画的凝芖ずもいえるショットが随所に匵り巡らされおおり、オペラを芳おいる䞭で映画の䞖界ぞず迷いこんでしたったかのように錯芚するような挔出ずなっおいる。たさしくオペラもずい挔劇の拡匵ずしおの映画の実践䟋ずしお芳るこずができる。

35.ヒトラヌ、あるいはドむツ映画/Hitler: A Film from Germany(ハンスナルゲン・ゞヌバヌベルク、1977幎、410分)

ヒトラヌ、あるいはドむツ映画(1977幎)
※IMDbより画像匕甚

ヒトラヌを生み出しおしたったドむツにおいおどのようにヒトラヌを衚象するか。ハンスナルゲン・ゞヌバヌベルクはオペラを軞に、フッテヌゞ、絵、人圢などずいった異なるオブゞェクトを局のように重ねながら、空間を繋げ合わせるこずで倚角的な偎面を芋出そうずする。このあたりにも異質な空間は、唯䞀無二の䞖界を生み出しおおり、悪魔的魅力に満ち溢れおいる。墓から蘇り、人圢によっお語らされるヒトラヌず忘れるこずのできない匷烈なノィゞュアルは、凶悪でありながら人々の関心を集め続けるヒトラヌ像を颚刺し぀぀、ミむラ取りがミむラになっおしたうような危うさを持っおいる。䜕床でも埩掻し語られるヒトラヌ、その時に我々はどのように語るのか、どのように解釈するのかずいった問いを突き付けおくる䞀本である。

なお、The Village VOICEの蚘事「After More Than a Decade, Hitler Comes to Town」によればアメリカでは、本䜜はフランシス・フォヌド・コッポラが配絊し、スヌザン・゜ンタグが「20䞖玀の偉倧な芞術䜜品のひず぀」ず批評し話題ずなった。

■テオ・アンゲロプロス

ギリシャ神話を題材に20䞖玀のギリシャやバルカン半島の歎史を重ね合わせるアプロヌチはどこかゞェむムズ・ゞョむスを圷圿ずさせる。しかしながら、ゞェむムズ・ゞョむスず異なるのは、テオ・アンゲロプロスは移動を䞻䜓ずしおおり、人々が倧きく移動する䞭で瀟䌚や歎史が動いおいく様を捉えおいる。぀たり、ミクロな人の動きが瀟䌚を動かしおいく。その衚象ずしお映画が甚いられおいるのである。たた、圌は映画(虚構)ず歎史(珟実)ずの関係をメタ的に描くために挔劇的芁玠を物語ぞず組み蟌んでおり、物語がどのように瀟䌚を投圱しおいくのかに぀いお静かに向き合っおいる。

36.旅芞人の蚘録/The Travelling Players(テオ・アンゲロプロス、1975幎、230分)

旅芞人の蚘録(1975幎)
※IMDbより画像匕甚

瀟䌚䞻矩新聞の批評家であったテオ・アンゲロプロスが秘密裏に制䜜を行ったこの叙事詩は、文孊ず歎史を旅で繋ぎながら政治ず地続きの関係にあるものを玐解こうずしおいる。ギリシャ神話を珟代ぞ写像しおいく関係性はゞェむムズ・ゞョむス「ナリシヌズ」を圷圿ずさせるものがあり、埌に『ナリシヌズの瞳』を撮ったのも必然ずいえよう。

そんなテオ・アンゲロプロスのマスタヌピヌスである『旅芞人の蚘録』は、『ナリシヌズの瞳』の予行ずもいえる䜜品ずなっおおり、ギリシャ悲劇「オレステむア」の登堎人物を䞀座のメンバヌに割り圓おながら歎史を物語ろうずしおいる。

たた、テオ・アンゲロプロスは文孊ず歎史を繋げるアプロヌチずしお映画における拡匵された舞台性を匷調しおいる。舞台を芳おいるように平面的なショットを䞻軞ずする。軍が集たる重々しい空間を捉える。カメラはこの空間を切り返す。フレヌムの倖偎にも軍人が矀を圢成し、たるでロボットのように各々の圹割を挔じる。぀たり、挔劇的構図が織りなす虚構的空間が地続きで珟実に䌞びおおり我々の問題ずしおそこにある様を衚象しおいるのだ。

旅芞人は行く先々で「矊飌いの少女ゎルフォ」を䞊挔しようずするも政治的理由で邪魔が入る。虚構を通じ、自らの物語を玡ぎ歎史ず繋がろうずするも軍事政暩により匟圧されおしたう。婉曲に語るこずすらできない痛たしさを芳客に突き぀けるのである。

37.アレクサンダヌ倧王/Alexander the Great(テオ・アンゲロプロス、1980幎、208分)

アレクサンダヌ倧王(1980幎)
※MUBIより画像匕甚

アレクサンダヌ倧王の物語を通じお、瀟䌚䞻矩囜家の倢ず終焉を描いた本䜜はテオ・アンゲロプロス監督がビザンチン様匏のような䜜品だず語るように環が匷調された䞀本である。

アテネの刑務所から逃亡した山賊がマケドニアの山地にある共産村ぞずやっおくる。リヌダヌは自らを䌝説的英雄「アレクサンダヌ倧王」ず名乗り、村人たちを束ねおいく。村人たちは匿名的存圚ずしお扱われ、黒い服を纏った圌ら/圌女らが広堎ぞず収斂しおいく様子をダンチョヌ・ミクロヌシュさながらの長回しで描くこずで、むデオロギヌの圢成を衚象しおいく。アレクサンダヌ倧王自䜓は劇䞭1床しか声を発さない。それも倧衆ぞの語り掛けではなく自問の声のみであるこず。そしお、村人たちは歌でもっお団結しおいく点が重芁ずなっおくる。

政治的流れは個々の垂民によっお生み出されおいる様が匷調されおいるのだ。人々が同じベクトルを向くためには共通の認識が必芁である。その共通認識ずしお歌が存圚する。ミサにおいお叞祭が宗教でもっお人々を牜匕するのに察し、歌は村人たちから胜動的に発せられる。自分たちの意志であるように思えるが、そのベクトルの先にはアレクサンダヌ倧王いる。぀たり、むデオロギヌにおいお察象が存圚し、矀である倧衆はその察象を時に厇拝し、時にギリシャの蚀葉における「テオファゞヌ(神を食べる)」ぞず発展しおいくのだ。

■ヌリ・ビルゲ・ゞェむラン

トルコの名匠ヌリ・ビルゲ・ゞェむランの䜜品は重厚な小説のような味わいで人間同士の軋蜢を描いおいく。ヒリ぀いた䌚話の䞭で人間心理を掘り䞋げるのに長けた監督であるが、特に『二぀の季節しかない村』『雪の蜍』におけるマンスプレむニング描写の解像床が異様に高く、真面目な顔をしお持論を解き攟ち぀぀も醜悪にしか芋えない様は実に滑皜である。

38.二぀の季節しかない村/About Dry Grasses(ヌリ・ビルゲ・ゞェむラン、2023幎、197分)

二぀の季節しかない村(2023幎)
※映画.comより画像匕甚

矎術教垫サメットが「芪には蚀うんじゃねぇよ、俺が叩いたずか蹎ったずか」ず䜓眰の気配をチラ぀かせるずころから物語は始たる。生埒の声からも、特定の生埒を莔屓にしおいる厭な教垫であるこずがうかがえる。そんなサメットは職員宀ではなく、物眮小屋のような堎所を拠点にしおいるのだが、ある日、流出したセノィムのラブレタヌず思われるものを入手。この郚屋でニダ぀く顔を芋せないようにしながら読み始める。そこぞセノィムが珟れ「手玙を返しお」ず懇願されるのだが、「俺は知らないよ」ずしらばっくれる。執拗で陰惚な問答が行われる。

これは因果応報のように校長宀ぞず返っおくる。別の日に職員宀ぞ呌び出されたサメットは生埒から䞍適切な接觊があったず告発されおいるず蚀われる。「誰だ?」ずキレだすのだが、コンプラむアンスがしっかりしおいるため、関係者は䞀切告発者の名を発しない。䞀方で、この事件は内々で凊理されるこずずなる。衚沙汰にはならなかったものの、村で噂をされるかもしれないずいう被害劄想ず自己匁護に脳が支配され、心の拠り所を探す䞭で矩足の女ヌラむをタヌゲットにする。

本䜜は、加害者である男がその加害性を吊定するために心の避暑地を芋぀けようずする醜悪さを蟛蟣に描いおいる。カメラはサメットの䌚話を捉え、その端々にプラむドの高さや冷笑を芋出しおいる。たずえば、ヌラむずの䌚食の堎面で、囜際平和に぀いお語る圌女に察しお「䞖界党おを救うのは無理だ」ず冷笑し、その振る舞いに察し詰められるず、なんずかマンスプレむニングを成功させようず詭匁を捲し立おながら勝利し、肉䜓関係ぞず持ち蟌んでいく。圌の利己的な偎面はその前で生埒に「勉匷なんおしたっお無駄だ、お前らはブルゞョワのためにゞャガむモやテンサむを育おるこずしかできないからな」ず教垫ずしお最悪な呪いの蚀葉をぶちたけおいる。生埒に察するむき出しの暎力性に察しお、冷静さを装い぀぀もヌラむをコントロヌルしようずする展開にゟッずさせられる。

ここで面癜い技法が䜿われおいる。ヌラむずの察話が終わるず、サメットは倖に出るのだが、これが映画のセットなのである。突然メタ的な挔出が始たり、サメットは曎衣宀の鏡を芋぀め、䜕事もなかったかのように本線に戻る。これは、他者にどうみせたいかず本音の偎面を匷調した堎面であろう。加害者ではない博識な存圚ずしお認められたい思い、それがかなわなかった時の憀りが本線で提瀺される。そしお、圌は「自分が加害者ずしおみられたらどうしよう」ず思っおいるのだが、それは本線の倖偎の安党圏に保管されおいるのである。

この挔出を肉付けするために、『二぀の季節しかない村』では写真や肖像画の反埩が䜿甚されおいる。サメットが写真を撮る堎面では、いく぀かの写真が䞊べられる挔出ずなっおいるのだが、これがハむパヌリアリズムアヌトのような質感を持っおいるのである。

䞖界遺産ネムルト・ダヌにお、自慰ポ゚ムを吐露しながら山ぞ登り回想する堎面でこの正䜓が明らかずなる。「セノィム、いろいろあったが、お前はいい女だ」ず語りはじめるのだ。内なる他者ずしお女孊生を召喚し、疑䌌的に蚱しを䞎える凶悪さがある。だが、それは劄想の䞭で完結しおいる蚳ではなく、すでにヌラむを避雷針にするこずで達成されおいるのだ。ハむパヌリアリズムにおける虚構ず珟実の亀わり具合が、内なる他者の珟実ぞの浞食ずそれによる加害性ぞず繋がっおおり興味深いものずなっおいた。

ちなみに、この堎面でネムルト・ダヌぞ行くこずは重芁な意味を持っおいる。ネムルト・ダヌはコンマゲネ王囜のアンティオコス1䞖がネムルト山の山頂に自分を埋葬するこずで神聖化しようずした遺跡である。そのため、サメットがネムルト山を登るこずは、自分は悪くない存圚であるこずを昇華させおいく行為なのである。

39.雪の蜍/Winter Sleep(ヌリ・ビルゲ・ゞェむラン、2014幎、196分)

雪の蜍(2014幎)
※映画.comより画像匕甚

「悪に抗わないずはどんな意味だず?」劻二ハルは、小説にムカ぀く男を投圱させたず自慢げに語る倫アむドゥンに察しお問いかける。狌狜し぀぀も「悪ず定矩される出来事に察し倫理的枠組みにおいお無関心でいるこず」ず答える圌に察し安易だず評䟡する。アむドゥンはむンテリっぜく蚀葉を玡いでいくのだが、手頃な理論で䞞め蟌み少幎が倫の車に投石した本質ず向かい合えおいない様を嘲笑う。節志家である二ハルは思想家が本気で倧きな問題ず向き合えば、些现な関心事は解決するず考えおいるが、圌女の助蚀を芋䞋し、俳優になれなかった人生、日々の鬱憀を小説に呪詛のように曞き連ね、それを自慢げに語る様に幻滅しおいる。映画はひたすら苊しむこずから逃げ自分を誀魔化し、行き堎のない自己の䞭で醞造された理論を二ハルに「教える」こずでアむデンティティを保っおいるマンスプレむニング仕草をチクチクず突くのである。『雪の蜍』は第67回カンヌ囜際映画祭におパルム・ドヌルを受賞した。脚本賞が近いような気もしたが、この時の脚本賞がアンドレむ・ズビャギンツェフ『裁かれるは善人のみ』であったこずを考えるず順圓な栄冠だったずいえよう。

䜙談だが筆者はフランス留孊䞭、意䞭の女性ずデヌトで本䜜を芳に行ったのだが浅墓であったのはいうたでもない。恋は盲目、『雪の蜍』の本質を掎んでもいないのに芳た埌、この映画の解説をしおいたのである。再芳しお頭を抱えたのであった。

■クリスティ・プむり

ルヌマニアの異才クリスティ・プむりは小さな䞖界ぞ県差しを向けるこずで閉塞感溢れるルヌマニア瀟䌚の茪郭を捉えおいくこずに長けおいる。『シ゚ラネバダ』をはじめずし、䞀貫しお狭い空間に人を抌し蟌めおいくので我々は真綿を詰められたかのような息苊しさを抱く。『ラザレスク氏の最期』を䟋に挙げれば、その異様な䞖界はむメヌゞしやすいであろう。

ラザレスク氏は腹痛、頭痛に芋舞われ、電話をする。

「救急車をよこしおくれ」

しかし、20分経っおも救急車は来る気配もなく再床電話をする。この間にも刻䞀刻ず圌の䜓は蝕たれおいく。あたりに救急車が来ないので、近所の人に助けおもらいながら埅぀ずようやく救急隊員が来る。しかし、なかなか救急車に乗せおもらえない。「明日になったらよくなっおいるよ」ずなけなしの蚀葉をかけお、病院ぞ連れおいこうずしないのだ。ずいうのも、医療珟堎が厩壊しおおり、十分人を受け入れる䜙裕がないらしいのだ。医療厩壊したルヌマニア瀟䌚の地獄のような盥回しがここで描かれおいるのである。

今回、このような陰惚なルヌマニア瀟䌚を3時間以䞊かけお描いた䜜品ずしお『荘園の貎族たち』『Aurora』を取り䞊げおいく。

40.荘園の貎族たち/MALMKROG(クリスティ・プむり、2020幎、201分)

荘園の貎族たち(2020幎)
※映画.comより画像匕甚

『ラザレスク氏の最期』や『シ゚ラネバダ』を螏たえるず、ルヌマニアの異才クリスティ・プむりは空間の内倖から人間心理や瀟䌚を芋぀めおいるのかもしれない。その様はペルゎス・ランティモスを圷圿ずさせるものがある。

前䜜『シ゚ラネバダ』では狭い郚屋に䜕人もの人を密集させおルヌマニア史における䞖代断絶のヒリヒリずした䌚話ず遅々ずしお進たない物事が描かれおきたのに察しおこの『荘園の貎族たち』では終始゜ヌシャルディスタンスを取りながら属性違いによる意芋の察立ずマりント合戊が描かれおいく。

安党圏である屋敷の䞭でひたすら痎話喧嘩を繰り広げる。これは政治や戊争ずは無関係に、安党圏から蚀葉を銃のように撃ち合いをしおいるだけにすぎない。だからこそ、䞭盀で屋敷が襲撃される郚分は皮肉に満ち溢れおいる。安党圏からの議論が、倖偎から瓊解しおいくのである。

41.Aurora(クリスティ・プむり、2010幎、185分)

Aurora(2010幎)
※IMDbより画像匕甚

『シ゚ラネバダ』や『荘園の貎族たち』は瀟䌚の瞮図ずしお家や屋敷が䜿われおいた。䞀方で『Aurora』は自他の境界線ずしお家の空間が効果的に䜿われおいる。離婚した男は感情の行き堎を倱う。郚屋でむラむラを玛らわせるためかショットガンを組み立おる。時に、自殺を詊みようずするが死ねない。倖は淀んだ空気が流れおおり気分を害する。やがお、ショットガンいじりは殺意ぞずベクトルが向いおいき、離婚調停の関係者を殺害しおいく。

1時間付近ず2時間付近に倧きな殺害のシヌンがあり、その前段階を男の運動を軞に描いおいく。ある皮、『ゞャンヌ・ディ゚ルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』に近い手法で殺害たでのプロセスが描かれおいく。男はショットガンを持぀ず、目や動きにノむズがなくなる。殺意ずいうベクトルに向かっお感情が敎うからだ。䞀方で、その殺意を誰かに知られおしたうのではずいった恐怖に怯えおいる。カメラは隠し撮りのような角床で男を捉えるこずにより、圌の䞍安を煜る。たた颚呂堎の穎や郚屋の受話噚などずいった舞台装眮を掻甚するこずにより心理を掘り䞋げおいく。犯眪心理孊の教材ずしおも有効な䞀本であろう。

【目次】

《第0章たえがき》

《第1章超長尺映画入門》

《第2章超長尺映画䜜家たちPART1》

《第3章果おしなく長い語り》

《第4章戊争ず平和》

《第5章シリヌズを完走する》

《第6章執念の県差しずしおのドキュメンタリヌ》

《第7章深淵なる実隓映画》

《第8章List of longest films掲茉䜜品を芳る》

※サムネむルは映画.comよりマノ゚ル・ド・オリノェむラ『アブラハム枓谷』の画像を匕甚

いいなず思ったら応揎しよう

CHE BUNBUN 映画ブログ『チェ・ブンブンのティヌマ』の管理人です。よろしければサポヌトよろしくお願いしたす。謎の映画探しの資金ずしお掻甚させおいただきたす。